第十六話 懊悩
家庭を知らずに育った叶が一番苦手とするのはやはり生徒の家庭問題だった。
様々な家庭があるのは自身も分かっているが、そう上手く判断できるものでもない。
何が原因となって何が引き金となってしまうのか、対応の仕方を苦戦しながら模索し、最大限の努力を強いられている。
「家庭環境って難しいですね。それぞれが抱える問題も悩みも違うし求めているものも違う」
「でも早瀬は臨機応変に対応できてると思うよ。私も苦手というか正解がないからさ」
ストレッチをしながら正解のない答えに頭を悩ませ、体をほぐしながら固まった思考回路もほぐしていく。
身近に相談しにくい事柄を話せる人が居るというのはありがたいこと。教員同士でもこの種の話をするのは苦手だ。考え方がまるで違うとややこしくなる。
肩が終わっていると言う彼女をもみほぐしたりしながら、余計に悪化しそうな話をする。
「過保護というか過干渉というか、その線引をするのも上手くできなくて。子を育てたこともなければ育てられたこともないのに」
介入できるものにも限界がある。生徒から受けた相談はできるだけ聞くが、聞いてどうにかできるかと言われるとそうではない。保護者から受ける相談も同様に、だ。
「日記にカッター買ったって書いたら呼び出されたことあったな、何の得にもなりませんでしたけど」
結局立場のためだったんだ、と肩を落とす姿になにも言えなかった。言ったところで、当時の私がなにもできなかった事実は変わらない。
私にもそう教えてくれたのは、助けてほしかったからだろう。もう限界だと、暗に示していた。その時点で抱きしめでもしておくべきだったか。それ以上、彼女から相談を受けることはなかった。
なにが正解であり正しい筋道なのか、それは私にも分からない。それ以上に叶は頭を悩ませている。
知らない考え方がそこにはあって、それを理解するところから始まり、どの親も子を思っての行動をするのだと自分に言い聞かせながら対応を進めていく。
育児放棄されていた彼女からしたらある種の拷問かもしれない。受け取れなかった親からの愛情。そこにある子への思いに考え。生じた狭間の溝は深まっていくばかり。
「簡単に判断できるものじゃないですし。人生を狂わせるような真似はできない」
授業をするよりも難しいと眉をひそめた目には涙が浮かんでいた。見て見ぬふりをするべきか迷う。その涙が意味するものは何か。分かったとしてもどうしようもできない。痛みに触れるのが怖い。
そんな様子に気付いたのか、顔を覗き込まれた。見覚えのある、あの頃廊下で向けられたもの。助けを求めていたのだと、あとから気付いた表情だ。
「綾音様は優しすぎます。そんなに考え込まなくたって、傷付きやしません。だって大好きなあなたに言葉に愛情をもらえるんですよ」
なぜか私が慰められるように頭を撫でられ、勢いよく抱きしめられた。と思えば硬くなった体を押され悶絶する。
ふと、脳裏に問いが浮かび上がった。どうして叶は教師になる道を選んだのか。
私に憧れただけではないはずだ。また別の目的が、動機がきっとある。今だから聞きたいと思った。本心を知りたいという思いが口を開かせた。
「早瀬はなんで教師になった?」
問いにたじろぎながら、彼女は視線を落とした。床に視線を巡らし、言葉を選んでいる。そんなに難しいことを聞いてしまったか。
「選ぶ必要なんてない、そのまま言え」姿勢を正して向き直る。
どうも叶は本心を話すことを嫌がる。幻滅されたくない、誤った解釈をされたくない。可哀想だと思われたくない――そんな思いが言葉を制限させていた。
すっと息を吸い、目線を合わせないまま。なにか恐れるように声を震わせ話し始めた。ただ、静かに聞いていようと思った。
「今瀬先生みたいになりたかったのが一番の理由として。……綾音様に、たくさん迷惑をかけて。心配もかけて。そして愛情を知った。恋人としてではない、感情を」
一拍間を置き、目が合った。
叶の家にお邪魔するようになって最初に気付いたのは異様な怯え方。なにか言おうとすると反射的に身構えられ、受け身を取る姿に胸が締め付けられた。それだけで今までの境遇が分かった。優しくするしか手段はなかった。
「自分は、誰も信用したくなかった。でも、今瀬先生に救われて好きになった。私がこの道を選んだのは、同じような子を、でなくても苦しむ子を救いたいと思ったからかもしれません。暗闇に光を差してあげたかった。おこがましいですけど。他の道もあったと言えばそうですが、やっぱり私は綾音様に着いていきたかった」
天井を仰ぎ見ながらなにを話すか選んでいる。なにを言われようと、裏切られたとは思わないのに。思うときはこいつが自らを傷付けたときくらいだ。
「憧れるには十分すぎました。あなたとの時間は。ほら、あの雨の夜に綾音様が言ってくれたでしょう」
「私みたいな先生になるんでしょ、ってね」
そうです、と頷いて、言い終えたという実感が満ちたように見えた。伝えたいことは概ね伝わっただろう、と。強張った表情も安堵からか緩み始める。
まだ聞きたいことはある。だが叶に聞かなくとも、ずっと分かっていることだ。
雨の降る夜、叶は家を飛び出した。今でこそ当たり前の光景になってしまっているが、あの頃はそうもいかない。傘も差さずに二人して濡れながら、まるで誓いを交わすように握りしめたあの手の感触を思い出す。
涙で濡れているのか雨が伝っているのかも判別できないほどにびしょ濡れになって帰ったあの日は、今思い返してみても一番綺麗だったと言える。雨上がりの空のように透き通っていた未来。
”先生みたいな先生になります”そう言って本当にそれを成し遂げたのだから、今もその核は叶を支えて続けてくれている。
誰しもが抱える闇。そこに光が差したとすればそれにすがりたくなるもの。叶や私がそうであったように、人々がそうであるように。人は一人では生きていけない。
いつだか生徒に告白されたという叶の教え子ももう卒業し、顔を見せることもないそうだが。何気ない一言、言葉がなくともそこに居るというだけで安心をもたらすこともある。
それが誰であれ、一人の教師として極力否定せずに寄り添う、そんな人間でありたい。自分だけは味方でありたい。
目がバッチリと合った瞬間、なにか悟ったように頷かれた。
「それより。子を育てたこともないのに、って言って気付いたんですが……。子どもがほしいとか、思ったことあります?」
思わず身を固めてしまった。この種の質問を叶の口からされたことは今まで一度もなかった。
思ったことは――ないに等しい。周りが結婚だの出産だのと言っている中、ただひたすらに仕事に打ち込んだ。その一見幸せそうな家庭に見えるものに対して憧れも希望も抱いたことはなかった。恋人というものにも何の興味も持てなかった。
親も友達も、みんなして口を出してくる。それが嫌だった。その分仕事に励んだ。仕事一筋で生きていく人間だと知らしめるために。
それでも子どもは居たほうがいい、と何度も言われた。結婚したほうがいいとも言われた。正直、苦しかった。逃げ場なんてどこにもないのだから。
「ないよ。叶はどうなの?」
自分で言い出した事柄なのだから聞き返されるのも目に見えていたように思うが、分かりやすくたじろいだ。予期していた通りの言葉が返ってくるのもまた事実。
「あるわけない。私は自分の子どもを愛せないと思います。それに、ここまで生きるつもりもなかったし。分からないです、正直。子を生み育てるということが」
同性同士でも子を望む人はたくさん居るであろうが、少なくとも私たちはそれを望まなかった。
叶は子を望めるほど安寧な生活を送ることはできなかった。そこは、私にとってはよかったとさえ思える。そこで亀裂が生じることはたくさんあるはずだ。
なにも似ていない叶と私。その中にある共通点だけは、揺らぐこともない。だから一緒に居て心地がいいのだと思う。
「女としての役割を果たせだなんて、できなかった。仕事をしておけばそういう人間だって思われるって考えてた。両親ももう孫を見るなんていう夢を持つことはない、はず」
「綾音様の人生が誰かに縛られる必要なんてない。いいんですよ、ありのままで生きていれば」
ストレッチをしていたことすら忘れて私たちにとっては真剣な話が飛び交う。
親としては孫を見たかったかもしれない。それを叶えることができる年齢でもなくなったのが救いとさえ思える。もうこれ以上、そんなことで悩む必要もない。
たまには帰るようになった実家に子どもの声が響く日があったなら。そこにはどんな私が、人生があったんだろう。
でもそこにはきっと、叶は居ない。それは嫌だ。誰よりも大好きなこの子が居ないだなんて想像もしたくない。
どことなく暗い空気が充満し始めたとき、そばで手を叩く音がした。
「こんな話ばかりしてたらしんどいでしょう。ストレッチの続きでもしましょ」
意味もなく空気を変えるためにテレビを点け、時折身体が悲鳴を上げながら短い夜は過ぎていった。
今が幸せならそれでいい。それが現実離れしたものであろうと、甘えだと糾弾されるものであろうと。




