第十四話 傷付いてきた人
朝よりも格段に増えた荷物を持ちながら電車に揺られる。
車窓に映る自分の姿はかなり疲れた様子に見えた。疲れを自覚することがあまりないせいか、それを実感すると一気に身体が重くなる。そういえば自分も人間だった。
早く家に帰りたいと思いながらペットカメラの様子を見る。
今日は早めに帰宅していた叶がバタバタとおかずを作り、洗濯物を畳んでいる。なにかを察知したのかカメラ越しに目が合った。
学生の頃から変わらずに、私が見ていることを見越してカメラにいたずらを仕掛けてくる。随分と年代物になってきてしまったが、動くまでは使い続けようと思っている。
一人で居る時間が長ければ長くなるほど、うちの猫は孤独に陥る。今がその過程のようで、畳んだ洗濯物に埋もれている。家に帰ったらひとまず抱きしめよう。
「ただいま、叶」
「綾音様、おかえりなさい。……なんですかこの荷物」
直近の出迎えてもらう頻度は半々と言ったところだろうか、と考えていると真っ先に二つの目は荷物に向いていた。すっかり回らなくなってしまった頭で土産だと言い、抱擁を交わした。
生きている実感と、完全無欠などではない実感が心を満たすように湧く。
身体を離し、荷物を片付けろと促されながら今日の話をする。ほぼ仕事の話。愚痴やらは互いに言わない。それが信念でもある、と格好でもつけておきたいところだが愚痴が出るような事柄を覚えてもいない。
「なんでまたポインセチア?」
「売ってたから。時期的にいいかと思って」
荷物の中身を見た叶はきょとんとしたまま自分を納得させるように何度も頷いた。重いものを持って帰って来たのはいつ振りでしょうね、と笑った。
まだ彼女が学生であった頃はたまにこういうものを持って帰っていた。自分で買ったものもあるが、人からもらったものもある。関係を作るための材料でもあったが、それ以上に彼女を喜ばせた。
ただツリーを持って帰るのは大変だったな、と飾られた木を見て思う。今年もまた紙を切っただけの星が飾られている。実を言えばもう三代目くらいの星だ。ただの紙に耐久性はない。それなのに叶は学んでくれない。
「聖なる夜は雨みたいですよ。雨の降る海、聖なる夜。絶対的なドラマチックさですね」
よく分からない想像に思いを馳せている彼女。
お茶を注がれたコップがことん、と置かれる。通じ合うことのない、すれ違っていく感情。
「ほんと、いい意味で綾音様ってどうかしてます。なんでいつもここまでしてくれるんですか」
「君も大概だ。たまにはいいでしょ、こういう贈り物も」
笑いながら苦衷を滲ませている。冬になると芯まで冷え切った体と心を持ち合わせてしまう彼女の扱い方には苦労する。超能力者になっても叶の心を読み解くことはとてもじゃないが不可能だ。
優しすぎるとよくこういう場面で言われる。褒められているのか、それとも自分の感情に蓋をしているのかも知るところまでは持っていけない。
「ひまわりとかミニトマトとか、持って帰ってきてくれるのに育てるの私だったな。必然的にそうなるのは分かりますけど、植物にはちゃんと気を配らないとダメですよ」
懐かしい記憶を辿りながら食卓を囲む。説教を食らっているのはなぜだろうか。
言い返せるほど育てたことはなかった。前の家のベランダには基本植木鉢がそこにあった。手狭な家の中で育てることはできないし、風通しなんてよく分からない。叶のほうが調べる力もそれを実践する力もあった。
レースカーテン越しに見えるひまわりは確かに綺麗だった。
無心に近い状態で食べ進めながら、記憶を馳せる。
一人のままだったらきっとあのまま体を壊していた。人は一人では生きられないのだと、教えて教えられた。
床に散乱させた酒の空き缶、コンビニかスーパーの弁当を見られたときは焦ったな。どこからか出てきた写真を拾われたのも焦った。
ただ二人で暮らし始めてからというもの、甘えというものを思い出したと言ったらあれだが。恋人未満の関係だったとしても、叶は嬉しそうだった。
「部屋寒くないですか、大分お疲れのようですけど」
「疲れたからずっとそばに居て」
後片付けを二人で済ませて毛布に叶を覆い、ソファに雪崩れるようにして寝転がった。抱き寄せるようにして温かさを感じる。
するとなぜだか涙がこぼれた。一粒がそれに連なってこぼれ落ちていく。とめどなく流れるものに驚くことしかできない。
「一人で抱え込まなくていいんですよ。泣きたいときは泣いて、甘えたいときは甘えればいい。あなたがそうしてくれたように、私も返したいんです。守ってくれるのは自分だけですか、綾音様。私が守っちゃいけないですか」
優しく抱き返されながらまるで幼い子どもを慰めるように撫でられた。
安心感に包まれ、声を殺して泣き続ける。大の大人が、とんだ恥晒しを演じている。それでも理由も分からず泣いた。
落ち着きを取り戻していっても叶は抱きしめることをやめなかった。「離したら飛び出していきそうだから」そう笑って。「どうかしてるよ」と答えると、内面が少しだけ理解できた気がした。
確かに、どうかしている。
「綾音様は人生の支えだよ。好きになったから、今までの人生を後悔することもできなくなった。ずっと一緒に居たいって思えるようになった。あなたは私の命、なんて重いですけど。本当にそうなんです」
どうかしているとしか言いようのない言葉に涙と笑いが重なった。痛みを知っている者の優しさは途方もなく広がる草原のように広い。
「誰も責めてないのに、責められている感覚。……覚えがありそうですね」
少し棘のある口調で語られた瞬間、涙が引いた。自分を守るためのものから、自分で傷付けてしまうという本末転倒な感覚を言語化されたことに、酷く胸の奥が締め付けられる。
冷めたような視線を浴びせて、言葉が続く。
「綾音様も傷付いてきた。私の知らない場所で、ずっと。なんであなたがこんなに優しいのか。痛みを知っているから、ですよね」
「違う。傷付いてなんかいない。私は優しくしてるつもりもない」
反論したいわけではなかった。揺らぐ感情を押し留めるためにこうしているのだと、完全に見透かされている。叶もそうであるからこそ見破ることが可能だった。
「こんなに優しくしてもらったのに、自分は何も返せなかった。お互いに思っていそうなことを一つ挙げると、これが一番的を突くんじゃないですか」
いたぶっているわけではないのも分かる。私を救うための言葉なのも分かる。それでも素直に受け止めることができない。だから嫌だ。人間なんて嫌だ。面倒くさくて、辛い。
「守りたかったんですか、こんな私を。守ってくれたのはたしかだけど。生かしてくれたのもたしかだけど」
「守りたかったよ、当たり前でしょ。でも今、叶が言ったみたいに――」
泣き疲れた頭でなにを考えることもできずに背を向けてふて寝をした。そのままなにを思うでもなく眠りに落ちていった。
幸せな夢を見た気がする。やわらかい空気に満ちた一室、叶と暮らす前の、一人で暮らしていた部屋に二人で笑って過ごす夢。
孤独から脱せたのは、彼女が居てくれたからだった。
温かい食事を、綺麗な部屋を。幸せを。人のぬくもりを。当たり前のようになっている日常は決して当たり前などではない。
ぼやけた記憶とともに明かりの灯ったままの部屋が目に映る。すぐそばで同じように寝息を立てていた叶の頬に口をつけると、薄っすらと目が開いた。
「あれ、わたしまで寝てましたか。一緒にお風呂でも入りましょうか」
「そうだね。早く入らないと明日に響く」
湯船にお湯が溜まるまでの間、叶は再び眠りに落ちた。最近はなかなか疲れが取れないのだと言っていたのを思い出す。大丈夫だろうか、無理は禁物だというのに。
叶のことが好きだから。叶が居てくれるから。生きて今を続けられる。叶がそばに居てくれるまで、生きていく。それがもし絶えるなら――私の人生はきっとそこで終わる。
「そろそろ起きな。そんなにしんどいなら無理にでも休ませるよ」
立ち上がったと思えば床に直接倒れかかる彼女。ギリギリで受け止めたが心配としか言いようがない。大丈夫だと半ば自分に言い聞かせるように微笑まれた。
「あたたかい……」
「人肌が、だろ。そんなにくっつく必要ある?」
湯船に空白がうまれるほど体を密着させられる。ゼロ距離、を体現する叶の背中を撫でながら満更でもない気がしてきた。
腕を回され、脇をくすぐられる。堪えきれない笑いが浴室に響き渡っていく。
「やっと笑ってくれた。綾音様は笑顔が一番似合うんですから、笑っててください。あなたには幸せで居てもらわないと」
細い指先が口角に当てられ、指越しに口をつけられた。
いくら傷付こうと苦しもうと、大切な人がいる限りは立ち上がれるはずだ。もうしばらくはこうしていたいと思いながら、生きている実感とともに笑みはこぼれていった。




