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叶って叶えて叶わない  作者: 雨宮雨霧


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第十一話 同僚の家出

 のんびりとした夜。

 蒸し暑いせいか床に這いつくばっている叶をどうしたものか考えているとインターホンが鳴った。こんな時間に誰だ、非常識にも程がある。

 這いつくばったまま玄関に向かおうとする叶を床に座らせ、ドアスコープを覗く。

 見覚えのある立ち姿。スコープ越しに目が合うと身が震えた。

「家出してきちゃったー、ってなんでチェーンかけられてるの」

 鍵を開けるとともに乱入しようとしてきた元同僚兼友達まがいはチェーンによって侵入を阻止された。

 ざまぁみろ。心の中で笑うと後ろから声がかかった。

 心優しき私の天使。一見頼りなさそうに見えて話してみるとやはり挙動不審だが、慣れてくるとふわふわとした笑顔を見せてくれる。そんな彼女は不法侵入者に声をかけた。

「雪里先生、家出って言っても一人暮らしですよね?なにを企んでるんですか」

 警戒心の強い子犬が吠えるようにして相手を威嚇する、そんな状況が繰り広げられる玄関先。

 こんな場所でバトルが始まっても困る。とりあえず家の中に入れた。

「それで、なんで家出なの」

 問い詰める気もなかったが、空気がそうさせた。

 一瞬たりとも目を離さず、いつでも飛びかかれますとでも言わんばかりに戦闘態勢を取るうちの番犬。のんびりした空間は打って変わってピリピリと肌が痛むような試合会場になった。

 それを破ろうと言葉を探す雪里。言いたいことは早く言え、ついぶっきらぼうに言うとやっと口を開いた。

「たまにはいいじゃん。ここから仕事行く」

 叶に目配せすると睨みつけるような目は一瞬下を向き、もう一度合わせると頷かれた。

 今日だけは許してやる、と肩に手を置くと大袈裟に喜ばれた。一体なにをしに来たんだ、と長めに溜め息を吐く。本当になにをしにきたんだ。正直邪魔でしかない。

「なにか食べました?食べてないならカップ麺でも作りますよ」

 先に食事を済ませているのにも関わらずカップ麺なら作ってやると言う優しい叶。

 それくらいやらせればいいと思ったが、部外者に台所を使われたいわけもないか、と納得した。私が台所に入らないのは察しの通りなにも作れないからだ。

 じゃあお願い、と腰を低くして頼む元同僚。立場は雪里のほうが断然上であるが、今の状況では叶が有利になる。台所の万人は叶。となると決定権も全て持ち合わせている。私はこれに対して口を挟むことはできない。

 お湯を沸かして注ぎ入れ、三分待つ間に雪里が一人で話し始めた。

「たまにはさー、いいでしょ、綾音」

「なにもよくない。お前、酒飲んでるな?」

 タイマーが会話を遮り、雪里の前にカップ麺が無造作に置かれた。

 見上げてみると叶の目が鋭く光っていた。思わず肝が冷える。私はなにもしていないというのに。

「どうもどうも、そんな目で見なくても寝取んないから」

「指一本触れさせませんし、万が一綾音様に触ったら覚悟しておいてください」

 愛されすぎだろ、と笑いながら食べ進められていく。酒のあとのラーメンときたらそれは至福だろう。

 ま、私は叶の手料理をたらふく食べたから比べようもない幸せだ。

「食べたなら二百円、頂戴します」

「ちゃんと金は取るんだな。流石、綾音の一番弟子」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてから数秒を置いて笑われた。いつも二人だけの空間に小うるさい者が居ると部屋の雰囲気も随分と変わるものだ。

 笑って終わりかと思うと律儀に二百円を払った雪里。受け取った叶も見ていた私も拍子抜けした。

 冗談を真に受ける人間がまだ居た。

「先に風呂入ってきな。私たちは後でいい」

「一緒に入るか?」

 馬鹿言うな。そう一掃すると足早に脱衣所へと去って行った。それを見計らって置き去りにされた荷物に目を向ける。

「私物でも覗いてやるか」

「綾音様、それは流石にやめたほうが。どうせろくでもない物ばかりですよ」

 それもそうか。荷物に触れかけた手を止めたのはなんとも形容しがたい天使。小さな両手で包みこまれた右手を見ながらもう片方の手で覆った。真面目で優しい子だ、相変わらず。

 そういえばあいつは替えの服すら持って行かなかった。なんだろう、私もしたことがあるような気がする。叶の家に行って、ご飯をいただく前にお風呂を借りることになって……叶を困らせたんだったな。家に誰かが居るということ自体が必要以上に緊張させてしまっていたのに。ただの冗談も通じないほどだった。

「悪い、着替え入ってるからその荷物取ってくれ」

「お前は馬鹿か、人様の家でそんな格好するな」

 叶の目を腕で覆い隠し、変態にカバンを投げつける。いくら友達と仮定してもはしたない格好で家の中をうろつかれるのは御免だ。別に潔癖だとかそういうのではない。

 叶に見せてはいけないものは全て焼却しないといけない、ただその一心。

「あぁごめん、叶。よからぬものは見たら駄目だ」

「過保護ですね。でもありがとうございます」

 邪魔が居ない隙を狙ってのことなのか頬に唇が触れた。紅潮するように全身に熱いものが流れる。不意打ちはよくない。だが悪くない。

 赤面を隠していると早めに上がってきた雪里が現れた。邪魔者は邪魔でしかない。家に上げてしまった以上どうしようもないが。

 叶をお風呂に行かせ、妙な空気が充満する。何ともつかない空気。

「で、なんでこんな夜に来た。明日も仕事だろう」

「まあ、なんでもいいじゃん。二人で話すのもまた久しぶりじゃない?メッセージ送っても既読無視されるんじゃ話にもならない」

 送られてきた文を見るには見るが返信する時間もないしそんな時間があるなら叶に使いたい。大人というのはそういうものだと勝手に解釈している。

「早瀬も変わったね。綾音と二人で居るとほんと楽しそう」

「無表情どころか感情があるのかすら最初疑ったもんな。色んな顔見せてくれるようになったよ」

 叶の過去を知る者との会話。教員同士だからこそ共有できるなにか。成長を間近で見てきたのにまだ知らない一面もたくさんある。

「自力で大学行って教師か。鑑としか言えないな」

「本当に。見習うべきなのは私たちのほうだよ。特にお前は」

 この先の進路どころか生きていけるのかすら心配していた叶は彼女なりに努力を実らせた。苦しみを知っているからこそ勝ち取れる信用と信頼。

 あの頃の早瀬と私に、こんな未来が待っているのだと言っても信じてくれないだろう。

「それにしてもあの鋭い眼は心臓に悪い」

「仕方ない。あの子はずっと孤独だった」

 早瀬の家庭環境のことは大多数の人間が分かってはいたが、あそこまで酷いとは誰も思っていなかった。大事にすることでもないと誰もが思っていた。

 このご時世、共働きなんていくらでもある。当時でさえそうだ。問題視をすることもなければ自身からの相談もなかった。というのを言い訳にするのもよくはない。もっと他になにかできたはずだと今になって思う。あれほどに傷を負う必要だってなかった。

「傷だらけなんだよ、本当に。想像を超えるほど」

 ただ私にできたのは気にかけることだけ。それがいい方向に転がった、偶然が起こした奇跡。

「自分の環境もちゃんと分かっていなかった。大人なんて、人間なんてそんなものだと思ってた」

 立ち話の間に入ってきた当の本人を見て呆然とした。冷水を浴びせられたように静まり返る。

 焦点がどこに向いているのかも図れない、胸を抉るような視線は瞬きとともに輝きを取り戻した。

「さ、綾音様も早く入ってきてください。私が相手をしておきますから」

 促されるままシャワーを浴びる。

 空気になりたいと口にし、空気と同化しながら過ごしていた叶。実の親の前でもそうしていたのだろうか。

 少しも気配を感じ取れなかった。話に夢中だったとはいえ、視界に入るまで気付かなかったのはパートナーとしてどうなのだろう。溜め息を漏らしながら目を瞑った。

 自分にはなにができたのか。これからなにができるのか。

 叶は私のことを好いていてくれるが、私も周りの大人と同じように接していたはずだ。気にかけていたとはいえ、なにかをしたわけでもない。

 言葉は思った以上の力を持っている。傷付けることも、救うことも。自分が思っている以上のものを発揮する。

 叶は受け止めてくれた。それに救われてくれて、こんな私を好きになってくれた。奇跡としか言いようがない。

 目を開けると、湯気と跳ね返ったシャワーで滲んだ文字が目に入った。「だいすき」そう鏡に書かれていた。文字の形はほぼないに等しいが、叶のことだからきっとそうに違いない。

 文字をなぞりながら、無の表情に生気が宿っていく自分の様子が映る。私は彼女の家族だ。

 脱衣所に出ると揉めている声が耳に入った。早く仲裁に入ったほうがよさそうだ、殴り合いにでもなったら困る。

「花いちもんめ!今瀬綾音がほしい!」

「ほしいってなんですか、あげるもなにも私の綾音様ですよ」

 なにをしているのか掴めないまま、取っ組み合いの修羅場を繰り広げている彼らを見つめる。

 二人でなにをしているのか。それも花いちもんめを二人でやるのもおかしな話だし、その場に居ない私を取り争うとは。

「あ、綾音様。この人覗きしようとしてました!」

「違うんだ、違う。違ってもないけど違う」

 床に押さえつけられた雪里は支離滅裂な言葉を並べて取り消していく。とりあえずの状況が分かったところで覗き魔に制裁を課してみた。

「鬼だな、老体に腕立て伏せ百回とか」

「誰が悪いんだ。叶に押さえつけられるくらい力がないなら筋トレでもしとけ」

 そんな簡単に百回をこなすことができるはずもなく、息を切らしながら文句を言う姿の鑑賞会も飽きてきた頃、眠いと嘆く叶といつも通りに布団に入った。

 そのまま頑張れ、と言い残すとそのまま這いつくばり私も寝ると云った未遂犯。朝になったらすぐに追い出そう、そう思いながら寝たが、朝には姿も荷物もなかった。ただ、一枚の紙切れが残されていた。

「二人には敵わないよ」掠れたボールペンの文字が、どこか哀愁を漂わせた。


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