第一話 新しい日常
「先生、恋人になりませんか?!」
私の彼女は元生徒。これが誰かにバレたら問題になるのだろうが状況が状況だったから。なんていう言い訳は通用するだろうか。
教師としての自覚が足りていないのではないか、いくら元生徒とはいえ……。
その告白を受けた後、親代わりとして彼女の高校生活を見守った。同じ屋根の下で共に過ごし、円満な生活を送ってきた。
彼女が高校を卒業して約一ヶ月後、年度が変わるとともに指輪を渡して正式に恋人となった。
気が付けばフォトウェディングまでしていたが、今も想いは変わらない。一時の感情でも、恋愛でもなかった。
そして今は彼女の帰りを待っている。「先生みたいな先生になりたい」そう云っていた雨の日が懐かしい。
午後九時。
流石に遅い。既読のつかないメッセージにしびれを切らして迎えに行く。
薄々思ってはいたがやっぱり私よりも毎日ひたすら仕事をしている。何年も私に「無理しないでください」と云っていたくせに、本当に困った奴だ。
「あれ、綾音様」
「また最後まで残って。そろそろ過労死するよ」
それはないと笑い飛ばすように話しているが目が死んでいる。帰る途中だった叶と合流できたところで荷物を代わりに持ち、左手を握る。
任せきりだった家事はどちらかに余裕があるときにすることになった。とはいえ彼女である叶がほとんどを担っている。人間不得意なものはとことん不得意なのだ。私が悪いわけではない。
叶が大学の四年間バイト代を貯めて買っていた食洗機にお掃除ロボットの使い方は覚えた。覚えさせられたに近いが。
「ご飯食べました?」
「まだ」
またスーパーに行き損ねたと嘆く彼女。コンビニでもいいじゃん、と言うと眉をひそめられた。冷蔵庫の中にはあと少しの作り置きとお酒くらいしか入っていない。
小さくて今にも壊れそうな身体が背負っているものがあまりに大きいように思えた。
夜道を手を繋いで帰るには、いい日だ。眠そうに目をこする横顔が街灯に照らされる。
何年も暮らしたあの家は更新と同時に引っ越した。二人では手狭であったからこの選択をして良かったと思っているが、叶は最後まで渋っていた。なんで、と。ここでいいじゃないですか、と。
実家を失くして、実の親に棄てられたも同然の彼女だ。思い出の詰まった部屋を出るということに抵抗があったのであろうし、寂しかったのだろう。
大人になるってこういうことなんですかね、と空になった部屋を眺めながらそう口にした叶。そうかもしれない、と思う。
叶の高校生活は彼女の実家で一年過ごし、残り二年は私の家で暮らした。そして叶が高校を卒業すると同時に、約束は果たしたと言わんばかりに彼女の実家はもぬけの殻となった。思った通りだ、と気丈に振る舞おうとしてくれたが、やはり悲しそうだった。
叶を傷だらけにした人間のことでも、憎まないでくださいね、と言う心優しい子。悲しみも苦しみも全てを理解できるわけではない。それならば、そうするしかない。
引っ越した家は二人で暮らす分には広く、叶も私も一人部屋を持てるようになった。でも結局物置と化して、リビングで一緒に過ごしていることが多い。
寝室は分けなかった。叶のベッドを今も尚使っている。何年も前に解体した私のベッドもまた組み立てられ、使われることとなった。
「叶が居ないとペットカメラが異質な空気を放つんだけど」
「それは自業自得ですよ。私はもう飛び出すような馬鹿ではないです」
ペットカメラは、自責の念と植え付けられたトラウマから逃れられない叶の身を案じ何年も前に設置した。
今はしていないと思いたいが、大量に薬を飲んでは身体を何度も切りつけていた過去がある。命を投げ出そうとすることもあった。そのため防犯も兼ねてこの家にも引き続き置かれることになった。
「つい最近までイタチごっこしてたくせに」
「いくら薬を隠しても、履歴消してみても、バレましたね。頭では分かっててもいけるだろ、みたいな思考でつい」
どこか大人びたような叶の視線は真っ直ぐに私を見つめ、そして笑った。でもまだお世話になります、と云われた。
何度叱っても、諭しても。意味があるのかないのか分からなかった。ただ、今だから思う。叶は叱られることで愛情を確かめようとしていた。何度も同じ行動を繰り返したのもそのためだ。裏切るとでも思われているのか。そんな真似はしないのに。
過ぎていく景色を見ながら今ではもう遠い過去となった記憶を蘇らせる。
「先生、私はあなたと結ばれることなんてないと思います。あんなこと言っておいて、ですが。それでも守りたいです。命を繋いでくれたのは紛れもなく先生ですから」
初めて彼女の家に行ったときに言われた言葉。
ノコノコと元生徒の家に行ってパソコンを前にする私にそう云った早瀬叶。本当に「先生、恋人になりませんか?!」という無理難題を背中に浴びせた張本人なのかと疑問に思った。
あまりにも冷静になりすぎではないか、と寂しさまで感じてしまったのは、振られたような思いにさせられたからだろう。振ったのは私のはずだったのに。
早瀬の卒業を見送った私は、もらった手紙を散らかった自室で開いたことがある。職員室では安易に開くことができなかった。というのもあの少女をよく思う教師は少なかった。どうせろくでもない、と嗤われるのが目に見えた。
生真面目で繊細で、誰も傷付けまいと振る舞う姿を見続けてきた私はつい手紙の裏も確認してしまった。無機質な空間が広がっているのを目にしたとき、なぜか胸が絞まる思いに襲われた。
連絡先も考え抜いた末に書かなかったのだろうと、そういうところが彼女らしいよな、と。そうだ、こうやって終わるんだ。なにを期待していたんだろう、ただの一生徒のはずなのに、と。
会えなかった一ヶ月の間そんなことばかりを考えていたことも知らずに早瀬は私を家に上げ、健康的な食事まで用意し、なにからなにまで施してくれた。
パソコンから指先が離れ、静かな時間が流れた夜遅く。彼女が淹れてくれたココアは甘く、しばらく口に残り続けたのを覚えている。「でも好きです」と呟いていたことも鮮明に思い出せる。守りたい、なんてこっちの台詞だった。
一生懸命に尽くそうとする姿を見ては、心のなかでなにかが動くような気配を感じたりしながら。そして今に至っている。
そういえば卒業前より痩せ細った早瀬が着ていたのはブカブカの長袖だった。どう見ても男物の、背丈にとても合わないもの。消えた親の服だったのだろうか。それとももらった服だったのか。思い返すと謎が増えていくばかりでキリがない。
回想していると家が眼前にあった。鍵を開けて玄関に入り、暗い部屋に明かりを灯してソファにくたばる。
鞄はそのまま放置していると叶が回収してくれる。
教師になる前に彼女は髪を切った。あの長い髪は胸の下辺りまで短くなってしまった。私からしたら長いが、切ってほしくはなかった。
どこか寂しさを感じていると、ほどかれた髪を揺らしながら食事の準備を進めていく様子が目に映る。
流石の自分も重い腰を上げ手伝いをする。手伝い、と思ってはいけないのも分かっている。この家の一員なのだから。
「ていうかいつまで敬語なの?」
「敬語じゃないとなんか、その。恥ずかしいというか」
顔を赤らめながら味噌汁を飲み込む姿は昔からなにも変わらない。
綾音でいいと言っても様をつけたがるし敬語じゃないとなんか、と逃げられたり。出会って十年。冷めるどころか熱する想いは今も健在。
「それにしても広くなりましたね、部屋。まだ慣れないです」
「狭い部屋に押し込めて悪かったな」
わざと口調を尖らせると慌ててそういうことじゃ、と弁明された。冗談の通じない彼女に冗談を言うのは間違っているのだろうか。そろそろ慣れてくれてもいいと思うのだが。場を和ませるどころか張り詰めさせてどうする。
「個室を物置状態にするのはいいですけど、ちゃんと片付けと掃除もしてくださいよ。引っ越すときに色々捨てたはずなのに、どこからあんなに物が」
「勝手に湧いてくるんだって。私は別に増やしてるつもりはない」
物置と化した部屋は、引っ越してすぐに今の状態になった。引っ越しを機にかなり物を捨てて整理したはずだった。にも関わらず、あの惨状だ。
向き不向きの問題ではない、と釘を刺された。その通りだと、その場しのぎで謝っておく。
食器を食洗機に任せて共にお風呂に入る。引っ越したために少し広くなった浴槽で密着するように肌を寄せ合った。
今日あったこと、仕事の話題。たまに今後の話もする。
「授業するのもまだ慣れないです。資料を準備するのもなかなか……」
腕を伸ばしながら笑顔をみせる叶。目に見えている傷がより深くなっているように感じた。彼女の心を読み解くのは難しい。それでも最近は的を突いたような顔をすることが多いように思う。とうに限界を迎えているはずなのに、また新たな限界を越えていく強さは計り知れない。
「十分頑張ってるよ、大丈夫」
「綾音様のほうが頑張ってますよ。尊敬してます」
背中を流しながら身体の細さを実感させる。皮と骨だけのような状態は脱したものの、まだ骨ばっているのを手の平越しに感じた。
無数の傷は背中にも多く残されている。全身といっていいほど、傷でできた身体。それを見るのは未だに胸が締め付けられる思いがする。傷付けられ、自ら傷付け。生きてきた証だと簡単に片付けることは私にはできなかった。
「私はあなたが思っているような人間じゃないです。あなたが知らないだけで、私は」
自虐混じりの口調に滲む苦しみ。それを感じ取っても返す言葉は見つからない。
「知らなくていいこともあるんだよ」
困ったような顔をして、それもそうかと天井を見上げながら言われた。
何年一緒に過ごそうと、それが血のつながった家族であっても、分からないことはたくさんある。育った環境も違えば歳も離れている以上、全てを理解することはできない。だとしても私は叶がなにをしようと、しでかそうと見捨てるようなことはしない。
一生一緒に背負っていく覚悟ならとうの昔にできている。
「ねえ、綾音様。見慣れないですよね、やっぱり」
「慣れるべきじゃない、とも思ってる。でも、叶が悪いわけじゃないのは分かってるでしょ」
体を拭き、着替えながら問われた。なにを指しているのかはすぐに分かった。
叶もずっと気にしては呼び起こされる記憶に苦しめられる。人を救うなんていうのは生半可なものでは通用しない。
家事をするときも、長袖を捲ろうとはしなかった。気まずさの滲む中、腕を露出した叶の表情。押し殺した声が聞こえていなかったのならいいけれど。動揺を隠すことはできなかった。
「両親が悪いとは言えないんです。私が悪かった――」
「あなたはなにも悪くない。叶がなにをしたって言うの?なにかしたって子ども傷つけることは許されないんだよ。今も苦しいのに、られているのに。それは優しさなんかじゃない。庇うのは誰のためなの」
両肩を掴み、感情任せに叫ぶ。曇っていく表情から目を離さず、言った。露骨に視線を逸らされることも分かっていた。
叶の優しさは時に毒だ。彼女にとっても、私にとっても。
視線が戻され、真っ直ぐに矢が飛んでくる。
「庇ってなんかない。私さえ居なければ」
「叶が居なかったら私は生きていけない。もうこれ以上、自分を殺そうとしないで」
自己犠牲をする必要はない。それでは誰も幸せになんてなれない。叶が居なければ生きていけないのは事実であるし、これ以上自分を責め続けさせるわけにもいかない。
一緒に生きていたいだけ。
「……ほんと、綾音様は。私を裏切るようなことをしなければ敵にもなってくれない」
「するわけないでしょ、馬鹿だね。早く髪の毛乾かさないと風邪引くよ」
負のループに陥るような会話はできるだけ早く終わらせるように心がけてはいる。命を天秤にかける喧嘩はしたくない。そう上手く簡単に切り替えができることもないが、それでもこれ以上傷を増やすような真似事はしたくない。
足早に明日の用意を済ませ、抱きつくようにして眠りについた叶の頬をそっと撫でてみる。
この子を守るのは私だ。恋人として、家族として。同じ道を歩くことを選んでくれた、心優しき子。
大人よりも毅然とした態度であったのは凄惨な過去があったからだった。
そしてまた、私は叶に守られている。勘の鋭さと観察力の高さは私を上回っている。漠然と老後以降のことを考えると「先生が死んだら私も死にます」そう真剣な眼差しで口を開くのだ。
なぜここで先生、という言葉を使うのか。先生という立場の上で、学校ではない場所で彼女に言ったことがある。
「早瀬は独りじゃない。私が居る。早瀬が死んだら私は悲しいし辛い。win winなんかじゃない」
私が言った言葉は当たり前のように覚えている叶のことだから、これもきっと覚えてくれているのだろう。
独りになること、死ぬこと。悲しみも辛さも誰しもが持つ死への恐怖も。彼女が一番、痛いほど分かっていた。
私が彼女を置いていけるはずもない。そしてまた、叶が私を置いていくようなことがあってはならなかった。




