霊界図書館にお越しの際は酔い止めをお忘れなく
「あああああああ!!」
メイの叫び声は、前から吹き付ける風に乗ってはるか後方へ飛ばされていく。
大樹の口に飲み込まれたかと思えば、彼は目の前がカッと発光したのを見た。そして次の一瞬、360度見渡す限りがまぶしい光に包まれた不可思議な穴……というよりは、光の道の中に飛ばされていた。
風に乗るどころか風になってしまったのではないかと思うほどのスピードであり、もがいても、体をねじっても、気流の中で体がバタバタと溺れるだけである。
「おい、おい!どうなってる!リュウカ!」
見渡しても見渡しても、道の終わりが見えることはない。踏ん張って止まろうにも、足が宙に浮いてしまっている。風の激流に体を飲まれるばかりだ。
意識さえ後ろに置いてかれそうになる中、メイの頭に、ふと昔の記憶が浮かんできた。
風……風か……
ついに走馬灯かと思ったが、もはやメイに抗うすべはなしといったところだった。まだ体が人の肌に覆われていた頃、ベッドで本を開く弟と交わした、くだらないやり取りが記憶の淵から聞こえてくる。
『風の方が凄いよ』
『いや太陽だ。話を最後まで読め』
『この北風がボンクラなだけだよ!プロの北風なら、こんな旅人、ひとひねりだよ!』
『風にボンクラもプロもあるか』
弟が薬や食事を取るのも忘れて夢中に読んでいるのは、「北風と太陽」の絵本だ。何故か北風の肩を持ちたがっては譲らない弟に、メイは太陽のサイズだとか、対流圏との距離だとか、実際物語上でも敗北してるだろうだとか、夢のないことを根拠にして言い返している。
だがしかし今なら、確かに風に軍杯が上がることもあるかもしれないとさえ思える。実際、彼は強大な風のパワーを前に、叫ぶことが精一杯になっていた。
「もう少しです!」
ふと隣から飛んできたリュウカの声が、かろうじてメイの耳に入ってきた。メイが顔を開けると、光の道の果てから例の口が姿を現し、またしても2人を飲み込んだ。
「ああああああ何なんだ一体!」
まばゆい、それはもうまばゆい光の道がようやく開ける。
2人を包み込んでいた強風もぴたりと止んだ。まだ少し目がチカチカしているが、風が吹き荒れる音も、四方を包み込む光も、突然にして消えてしまったようだ。
毛糸造りの髪をチアリーディングのポンポンのようなボサボサヘアにされてしまったものの、ハッとなったメイは、両足で地面の感触を確かめる。床だ。クリーム色をした大理石の床が、確かに足に触れていた。
「着きました。大丈夫ですか?」
慣れているのか、リュウカはふらつきそうになることすらなく、サッと前髪を直すだけである。
肩で息をするメイは、まだ視界が点滅している中、リュウカの襟首を手探りでつかむ。
「い、今のは何だったんだ!あの木の怪物は何だ!図書館に行くって話はどうした!お前、俺をどこに連れていった!」
怒涛の質問攻めに飲まれようと、リュウカは涼しい顔をしたまま、メイの手にすっと触れて彼を落ち着かせる。
「ですから、ここがその図書館ですよ。特別な道を通らないと霊界図書館にはたどり着けません。あのイチョウの木は昔から、その道に続く扉になっているんです」
そう説明されるとメイはリュウカから離れて、まだうっすらと白みがかかっている目を擦す。徐々に視界が晴れていくと、彼の目には、何万冊もの本が飛び込んできた。
「ようこそメイ。ようこそ。ここが、霊界図書館です」
リュウカはそう言って両手を広げる。
まだ少し目の前が霞んでいたメイだったが、彼らを待っていた巨大な図書館の姿がはっきりと見えるようになると、高く高く見上げたまま立ち尽くしてしまう。
彼らが立つ大理石のロビーからちょうど放射状に広がるように、巨大な本棚、その隣に巨大な本棚、そのまた隣にも巨大な本棚といった具合で、無数の本たちが景色を埋め尽くす。はるか高い天井には本を持った天使の絵が100メートルに渡って描かれており、奥のフロアでも別の天使が訪れた者を見下ろしているようだ。
ちょうど正面には、ペンを掲げた男の像が立っている。羽衣を着た像にはどこか神々しいオーラがあり、彼を囲むように配置された本の巨塔も相まって、思わず息を飲んでしまう。
「これが……図書館、だと?こんな場所は見たことがない。神殿にでも来た気分だ」
そう言いながらメイは、一番近くにあった本棚に近づき、恐る恐るを手を伸ばして一冊取り出す。
数ページめくってみるが、なんてことのない、何の変哲もない普通の本である。表紙には英字で「指輪物語」と書かれていた。
リュウカはメイの後ろから声をかける。
「驚いたでしょう。霊界図書館は、世界に2箇所とありませんから。この階だけでも50万冊以上が集まっているんです。まあその分、目当ての本を探すのも大変ですが」
メイは本を閉じ、慎重に棚へと戻す。隣には指輪物語の次の巻。上下の段には、同じ時代に書かれたらしいファンタジー小説が何シリーズにも渡って貯蔵されている。
「行きましょう。ここはほんのエントランスにすぎませんよ」
リュウカはメイを連れて、巨像の下へと歩いていく。
カウンターがあるらしく、何人かの来館者が本を持って列を作っているのが見えた。とはいえその来館者たちも、一般人と呼ぶには奇妙すぎる姿をした者ばかりだ。
「ちょっと失礼。そこ通りますね」
そう声をかけてメイとリュウカの間をパカラ、パカラと通り過ぎていったのは、ギリシア神話の本を抱えたケンタウロス。さらに彼に続いて「待って待って」と言いながら、馬の頭に日本の足を生やした、妙ちくりんな怪物が通る。
ふと本棚に目をやれば、ワンピースを着た少女が何かを探して背伸びをしていた。しかしどれだけつま先を立てても届かない高さになると、今度は彼女の首が伸び始め、2メートル、3メートル、4メートルと、蛇のように高くなっていく。
その反対の棚から、「ねえここにあったよ」と彼女に話しかける少年の声がした。少年と言っても、セーターの下は蜘蛛の形をしていたが。
まさに”霊界”図書館と呼ぶに申し分のない様相を前にして、メイは「なるほどな」とつぶやく。
「つまり、普通の人間はここに入ることもしないわけだ」
「そういうことです。ここには、人間の社会からすれば危険な本だっていくつもあるわけですから。入れるのは人ならざる者たち、ただ知識を探求したいと思う者たちだけ」
そんな会話をしながら、2人はカウンターまでたどり着く。真ん中の受付には、四角くぽってりとしたコンピューターを睨みながら、一つ一つの盤がチョコレートのように膨れたキーボードをカタカタと弾いている、おばあさんの姿があった。
彼女の顔は、ついさっき2人を丸呑みにしてこの図書館まで連れてきた、あの大樹に浮かんだ顔とそっくりである。
「この腐れポンコツ!ちゃっちゃと動けって言うんだよ!中にクッキーでも詰まってるんじゃないのかい、この鉄でできたスットコドッコイの……あぁら!リュウカじゃないの!」
コンピューターを罵りながら何か作業をしていた老婆だったが、リュウカと目が合えば、への字だった口を逆さまにする。やはりリュウカの顔はよく知られているようだ。
「こんにちは鬼武羅さん。今日はこの方に、図書館を案内したいんです」
リュウカはそう言ってメイのことを指す。鬼武羅のおばあさんはまん丸なレンズのメガネをかけ、ずいっと身を乗り出して彼を観察した。
それにしても大きいおばあさんである。鷹のような目に、鷲の唇を思わせる尖った鼻もあって、メイは野鳥に睨まれたような気になった。
「メイ、この方は鬼武羅さんです。この図書館で司書をなさっている方で、ドアの管理も行っているプロフェッショナルです」
そう紹介されても、メイは、何だこの婆さんは!と、つい開いた口が塞がらないままだ。
ようやく身を引いた鬼武羅のおばあさんはメガネを外すと、とろけたようににっこりと笑う。
「そうかいそうかい、よく来たねえ。リュウカのお友達なら誰だって大歓迎さ。あっちのカウンターに行って手続きをしてきなさい」
まだ知り合ったばかりだと説明する隙もなく、2人は鬼武羅のおばあさんに肩を掴まれ、回れ右をさせられる。『はじめての方はこちら』と書かれた案内があり、別の職員らしきシルエットが、暇そうに足を組んでいるのが見えた。
「俺は本を探しに来ただけだ。特別長いする気もないんだが」
「あらあらあら本を探すのにもカードがいるんだよ。今のアンタが見られるのは、この図書館のほんの一部分なんだからね」
鬼武羅はそう言うとぐっと2人の肩を押して歩かせようとする。リュウカが
「したがってください。鬼武羅さんは怒ると、どんな鬼よりも恐ろしいんです」
と言ってくるので、メイは仕方なくカウンターまで移動した。
『受付』と書かれたボードの下、職員がパソコンで作業をしているのが見える。だがこちらも画面と睨み合いをしているのか、前のめりすぎて顔が見えない。
「夜千代さん。ちょっといいですか」
リュウカの方からそう呼びかける。どうやら受付をしている彼女とも顔見知りらしい。
と思ったのもつかの間、カウンターに近づいたメイはすぐに不和に気づいた。というのも、夜千代と呼ばれた職員には、首より上がなかった。つまりは見知る顔がなかったというわけだ。
「あーはいはい。わかったよ。今降りるから」
今度は、気だるげな声が上から降ってきた。
見上げれば、濃いめのアイシャドウに口元のピアスが目立つ頭が、天井のケーブルに長い髪を絡ませてぶら下がっていた。机に置かれたバニラシェイクのカップからは、長い長いストローが彼女の口元にまで伸びている。
「悪いね、ちょっと目を休めてたの」
「お休み中にすみません。カードを作って欲しいんです。こちらの方が本を探していまして」
リュウカにそう言われると、夜千代の頭は髪の毛を蜘蛛の足のようにしてカサカサ動き、本来いるべき首にすとんっと座った。
だが表情は変わらず、眉を持ち上げてだるそうにしているままである。
「はいはいはいカードね。じゃあここと、ここと、こことここに必要事項書いて。名前は正確にフルネームで」
彼女の話し方はエネルギーに不足ありといった感じで、加えて事務的だった。プリントアウトした書類を差し出し、眠たそうな目でパソコンを動かしている。
メイは何とも言えない気になったが、ひとまずは黙って、名前や生年月日といった情報を書いていく。
「てか、アンタ幽霊?それとも何かの怪人?」
霊界図書館と言われるだけあり、そんなことまで聞かれるらしい。メイは少し間を開けてしまったが、「人間だ」と返した。
夜千代はキーボードに向けた指を止めて、しばらくメイを見通す。少し怪しんだ様子ではあったが、問題ないと判断したのか、あるいは詳しく聞くのも面倒だったのか、追求するようなことはしてこなかった。
「メイ・アンデスレーさん、人間、と……職業は?」
「ゴーストハンターだ」
「あ、そういうのいいから」
「『そういうの』じゃない」
説明しようとするメイだったが、ふと後ろから何か大きな気配が近づいたを感じ、言葉を止める。
振り返ると、大きなマンゴーが四角い目と腕を生やしたようなフォルムをした奇妙で白い物体が、フワフワと浮遊しながらメイとリュウカの後ろに迫ってきていた。
リュウカもそれに気づき、小声でメイに耳打ちする。
「この図書館の警備ロボットです。貴方を怪しんでいるのかも」
「怪しむだと?俺は何もしてないが」
メイは不服に思うが、リュウカの言う通り、警備ロボットは正方形の目でメイを観察しているようだ。中からはカチャ、コトと、歯車か何かが動く音も聞こえる。
「ねえちょっと、メイ・アンデスレーって名前……本名じゃないでしょ?ソイツがエラーを発してる。魂に書いてある名前と、データに打った名前が合ってないって」
夜千代が警備ロボットを指しながら告げた。
ロボットは警告を見せるように、メイに数センチメートル近づく。ボディについたランプもじわじわ赤くなり始めた。
リュウカはもう一度メイに耳打ちする。
「正直に答えてください。つまみ出されてしまえば、本を探せないかもしれない」
メイは舌打ちをするが、誤魔化さずに話すしかなかった。
「書いたのは、俺が今使っている名だ。生まれ持った名前は別にある。メイソンだ。メイソン・ヘルシンガー。このラグビーボールにもそう伝えろ」
話を聞いた夜千代は「あっちに行きな」と言って警備ロボットに手を振る。ロボットは反対の方向を向くと、どこかに飛んでいってしまった。
「はいどうも。まあ登録は今使ってる名前の方にしておくよ」
夜千代はそうとだけ言って作業に戻った。一方リュウカは、『ヘルシンガー』という名前に反応し、何かを思い出そうとしているようにメイの横顔をじっと眺めている。
メイは鬱陶しそうに肩をすくめ、何も喋る気はないと態度で示した。
ほんの数分でカードができあがる。パッと見ただけでは何も変哲もない図書館の会員証だ。ただし先程のロボットに撮られたらしい、怪訝な顔を浮かべたメイの写真も貼られていた。
「はいどうぞ。裏に書いてある規約を読んで、館内を移動したいときは……ああめんどくせえな。アンタの連れなんだからアンタが案内しなよ」
夜千代はぶっきらぼうにリュウカに告げると、椅子にだらりと座り直して、ニットを深く被ってしまった。職務放棄として100点の出来である。
しかしリュウカの方は慣れっこな様子で「ありがとうございました」とだけ返し、メイについてくるよう手で示した。
「それで、何て本をお探しなんですか?さっき見たリストからして、何か呪いに関する本を探しに来たようですが」
一つ目の女や顔面のくっついた大車輪といった妖怪がごとき風貌の来館者たちを2度見さえせず、リュウカはつかつかと図書館の中を進んでいく。
けったいな来館者や職員に慣れないメイは何が何やらと思いながらも、リュウカの隣を歩いた。
「本当にここに『禁術白書』があるんだな?もう三千冊は探しつくした。日本まで来たのに何の収穫もなかったら、俺はどうなるかわからない」
メイは日本に渡る前に叩き潰した組織と、そこにいた予言の力を持つ霊能者のことを思い返す。骸骨のような風貌をした老いた男に
『イバラキに迎うのです。そう、イバラキです。イバラギじゃありません。白書は、イバラキで貴方を待っている』
などと言われたときは適当な言葉で誤魔化されたのかと思ったが、霊界図書館に足を踏み入れた今では、少しばかり予言への期待が大きくなっていた。
リュウカは本の名前を耳にすると、抱えていたカバンからヴォロホスの写本を取り出して返す。
「白書のことはこの写本にも書いてありました。他の古い書物でも目にしたことがある本です。実在する本であるなら、必ずこの図書館にあるはずです」
リュウカは写本をめくり、暗闇の中で光を放つ四角い物体の絵と、『呪いを解きたければ白書を探せ』という一節が記されたページを見た。偶然にも写本に白書のことが書かれていたのだ。
だが禁術白書というのはあくまでもあだ名のようなもので、正確な本のタイトルはまた別に存在し、作者ともども不明である。まずはヒントになりそうな本を片っ端から読んでみるしかありませんと、リュウカは膨大な本の数々を示しながら伝えた。
メイは久々の目の疲れを覚えて眉間をさする。とはいえ、ここまで来て帰るという選択肢は、当然ながら彼にはなかった。
「とりあえず探すしかないか。これだけ本があるなら、何かヒントも見つかるだろう」
「よろしければ私も手伝いましょうか?」
そう申し出てきたリュウカに、メイは考える素振りを見せる。しかし図書館のことを何も知らない自分一人で探すよりも、リュウカの力を借りた方が賢明であると思った。
「そう言ってくれるならお願いしたいな。手がかりひとつでも見つかればどんな礼もする」
「お礼なんていりませんよ。私はどんな本でも一度は読んでみたいんです。白書についても以前から興味がありました。それに、ヴォロホスの写本を知っている方なんて、中々お目にかかれませんからね」
そう話しながらリュウカたち本の海へと進んで行く。そんな2人の背中を、ひたり、ひたりと静かに歩く足音が、形も影も見せずに追いかけていた。