あの日の彼女との、再会
「ゴボッ、あ、はぁはぁ、ゴボッ」
息ができない。手が助けを求めて水の中から突き出し、沈み、また飛び出す。
苦しい。
死ぬってこんなに苦しいんだ。
でもどこかで冷静な自分もいて。
ああ。これで人生おしまいか。厳しい事もあったけれど、おおむね楽しい人生だったな。
僕の人生を彩った、たくさんの人の顔が頭に浮かぶ。
彼らとの別れ。
嫌だな。まだまだたくさん楽しい事が待っていたはずなのに。突然こんな事になって、お別れも言えずに去っていかなきゃならない。
みんななんて言うだろう。悲しんでくれるかな? こんな死に方してバカだって怒るかな?
自然をなめると痛い目にあう。
小学生の夏休みじゃないんだから、そんな事考えたらわかるだろうに。
男友達と川に遊びに来て、調子に乗って深みに足をとられ、流される。
絵にかいた様な展開だった。
そして・・・
・・・意識がなくなってくる。なんだか気持ちがいい。これなら、まあいいか。
そういえば、人間って死ぬときが一番快楽物質が出るって聞いたことがある。
これがそうなんだな。
と同時に僕は、本当に最後なんだ、と実感する。
みんな、バイバイ。
「あきらめないで!」
僕の意識を目覚めさせる、一声。
それは夢かうつつかわからない僕の心に、はっきりと聞こえた。
「ガハッ!」
意識の戻った僕は、再度抵抗を試みる。
足がつく! 立ち上がり、まだまだ流されそうになる体を、なんとか岸辺へと運ぶ。
「助かっ・・・た?」
信じられない思いで両手を見つめる。
どさっと土の上に横たわり、しばし呆然としていると、友人たちが青ざめた顔で走ってくるのが目に入る。
かなり流されたようだ。
おいおい、大丈夫かよ。
何やってんだよ。
バカだな、でも助かって本当によかったなあ。
そんな声をかけられて、生の実感が湧き上がってくる。
でも、あの声は?
女性の声の様だったが?
まわりにそのような女性は見当たらない。
死の間際に脳が見せた幻だったのだろうか?
わからない。
とにかく、僕はこうして生き延びた。
◇ ◇ ◇ ◇
僕はそれから何十年か生きて、そして死んでいく。
今回は納得ずくの死。
あれからやりたい事は何でもやってきた。
あの日、人生で後悔するのは嫌だと、身にしみて感じたから。
上手くいったこともあれば、その反対もある。
でも生ききった。
満足してる。
ただ、一つ心残りというか、やり残していることがある。
それももうすぐ終わる。
「ご苦労様」
彼女が僕に声をかける。
光の中に、彼女はいた。
童女のようで、若い女性のようで、老婆のようで。
光の中で、印象が次々と変わる。
「あの時は助けてくれてありがとうございました」
僕の体は、透明になっていた。
下を見る。
家族が必死で僕の体に触れて、声をかけてくれている。
感謝の念が沸き起こる。
その輪の中で妻は何も言わず、ただ手を握って僕の旅立ちを見守っていた。
「彼女たちと出会えたのも、あなたがあの時声をかけてくれたおかげだ。あなたは神様? それとも天使とかそういう??」
「ふふ。そんなだいそれた存在ではありませんよ。あの川の精というか、あの川そのものというか。まあそんな感じですね」
「それがなぜ、あの日僕を助けてくれたのですか」
「わかってるくせに」
そう言って彼女はおかしそうに笑った。
「ですよね。僕は利用されていたのですね。あの後、僕は川の環境汚染や、埋め立て運動に断固反対して、ずっと守ってきました。そういう役割だったのでしょう?」
「あなたがあの日亡くならなければ、地元の有力者になるとわかっていましたから」
「ひどいなあ。僕、あの日、きっとあなたに恋をしてしまったんですよ。あの声の主を一目見たいと、ずいぶん無茶なこともしましたし」
「あら、奥様がいらっしゃるじゃない」
妻の方を見る。
ちらっと妻がこちらを見た気がして、どきりとする。
だが、すぐに妻は手を握っている方の僕に視線を戻す。
「妻に会えたのは本当に幸運なことでした。あなたへの恋に夢中になっていた僕の心を覚ましてくれて、現実を見せてくれましたから」
そう言うと彼女は、
「まあ。ちょっと妬けますね、それ。私の事どうでもよくなっちゃったの?」
「ち、違いますって。でも恋のようなものから、もっと純粋な、親愛の感情のようなものに変わっていったことは確かですね」
「あら? ずっと恋しててもよかったのに」
いたずらっぽく笑った彼女に、僕も笑う。
「あ、そろそろ行かないといけないみたいです」
僕はその時が来るのがわかる。
「そう。いままで律儀に私を守ってくれてありがとう」
「いえいえ。お互いさまですから。あと、今日会いに来てくれてありがとう」
「本当はいけないんですけどね」
彼女がウインクする。
「じゃあ、さよなら」
「ええ、さよなら」
僕はもう一度、家族の方に目をやると、妻と目が合う。
わかるのかなあ? 不思議に思いながらも、先に行って待ってるよ。そう声に出さずに言って僕はその場を去った。