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第四話 桂仁志は思い出す

 ある日曜の夕方。二人の様子を横目に、晩ご飯まで本を読んでいた時だった。

「あっ!」

 とおふくろが大きい声を出した。慌てて台所に駆けつけると、

「ワタシとしたことが買い置きし忘れてたなんて……」

 二人して空になったしょうゆのボトルを眺めている。

「紗子ちゃん、申し訳ないけど、ちょっと待ってて。買って来るわね」

「それならオレが買いに……」

「いいわよ。アンタに頼んだら薄口と濃口間違えそうだから」

「しょうゆなんてどれも一緒だろうが」

「全然違うって何回も言ってるでしょ! だからワタシが買って来る。アンタは紗子ちゃんと仲良く待ってな」


 財布だけを持って、おふくろは出て行った。ピシャリと戸が閉まる音が聴こえて数秒後、オレは居間を通り抜け、縁側に出る。浅倉と二人きりになるのは気まずく耐え切れないと判断して逃げたのだ。

 そのまままっすぐ歩いていると、二人分の足音が聞こえる。

「なんでついてくんだよ。台所いろよ」

「せっかく先生と二人でお話しできるチャンスなので」

「テストの内容は言わんぞ。テストの原本も学校にあるから探しても無駄だからな」

「勉強には興味ないです」

「興味ないはダメだろうが」

「むぅ……」

 唸り声をあげつつも、まだついてくる。

「便所だったらどうするつもりだ」

「こっちにはないじゃないですか」

「例えばの話だ」

「そうだったなら、近くで待ってます」

「あのなぁ……」

「大きなお家で一人で待ってるの寂しいじゃないですか。あと、一応私、お客さんです。放置するのもいかがなものかと」

「……仕方ねぇヤツだ」

 立ち止まり、目の前のふすまを開ける。こないだおふくろが掃除してくれていたのに、二人とも咳きこむほどの埃とカビっぽい臭さ。

「今電気つけるから動くなよ」

 ゆっくり床を探るように足を進め、ぶら下がる紐を引いて、灯りを点ける。照らされた部屋を見て、

「ほ、本ばっかり!」


 浅倉は叫ぶとまた咳きこんだ。

 四畳半の部屋には本棚と入りきらなかった本が高いところだと腰辺りまで山積みになっている。文庫、単行本、図鑑、雑誌……。足の踏み場はほとんどなく、入り口から電球の紐までのルートしか確保されていない。ちょっとでも身体が当たれば一瞬で雪崩れ、この通り道さえすぐになくなるだろう。

「ここ、先生のお部屋ですか?」

「いいや、ここはオヤジの部屋だ」

「お父様の……」

 浅倉は途中で言葉を切る。きっとおふくろからあらかた話は聞いているのだろう。

「死んだオヤジ、見ての通りめちゃくちゃ本が好きで、それが高じて国語教師なったような人だったらしい。こんな環境遺してくれてたからさ、オレも自然と本が好きになったし、国語教師やってるってワケだ」


 オレの物心がついた頃にはもうオヤジはこの世にいなかった。おふくろやお参りに来たオヤジの友達から聞かされた話でしかオヤジのことを知らない。『一通り怒ったあとは機嫌がなおるまでひたすら黙り込む』とか、『いないと思ったら、部屋の隅で静かに本を読んでいた』とか。まだ小さかったオレにアルバムを開きながら、みんな懐かし気に話してくれた。生きていたなら、とてつもなく真面目で厳しくて頑固なオヤジだっただろうなと思う。


「先生も、ここの本は全部読んだんですか?」

「全部じゃないが、それなりには」

「すごい……」

「おふくろは元々学校の教師として働いててよ。帰宅遅くて、一人でいる時間が長かったからな。今のようにゲームもねぇし、少ない小遣いじゃ満足に本も買えなかったし。だから、おふくろが帰って来るまでに宿題済ませて、この部屋で本を読むのが楽しみだった」


 その場に胡坐をかき、本の背表紙を撫でる。

 江戸川乱歩や横溝正史、アガサ・クリスティーなどのミステリ小説が積まれている山。その後ろには、芥川龍之介の作品だけで出来た山や、詩集の山、海外文学の山もあったっけ。本棚はその人の思考や好きなことを凝縮した、人生の縮図だ。亡くなってもこうしてオヤジが生きていた記憶がここに残っている。そして、ここにはいつもオヤジがいてくれている気がして落ち着くのだ。


「なんだか不思議。本屋さんや図書館とは違う空気があって、見たことない外国の本までありますし。私の本棚にはマンガが数冊なので、別世界の本棚のような……」

「浅倉は小説読まないのか」

「なかなか手が伸びないんですよね」

「文字を追って、脳内で場面を描き出すのはマンガとはまた違う面白さがあるぞ。難しい内容のものを読みきった後の達成感や、自分の知らなかった世界を知ることが出来た時の感動は何度味わってもたまらん。あと、人によっては国語の成績も上がるんじゃないか? 浅倉は提出物の誤字脱字が少し目立つからな」

 少し意地悪で言うと、浅倉は頬を膨らませた。

「そんなこと言うんなら……先生のおすすめ本ってありますか? もうすぐ読書感想文の宿題も出ることですし。教えてくださったら、私、それを読みます」

「人におすすめ聞くより、自分で探した方が楽しいと思うが? そんなの深く考えなくていいんだ。読みたいと思った本でいいんだから」

「その……読みたい本というのがなくて……」


 その一言にオレは無言になり、思わず顔をしかめてしまった。

 たしかに読んだ本について、感想を書くというのは難しい。

 だが、そもそも読みたい本がない?

 友人やかつての恋人にもよく言われたが、いつも返答する言葉を失ってしまう。

 オレは読みたい本が山ほどあるのに安月給で満足に買えず、買っても仕事に追われ、読む時間もロクに確保できずにいるというのに。


「読書感想文、いつも本が決まらなくて結局毎年最後に残しちゃうんです。でも、桂先生なら、私でも楽しく読みきれる本をご存じかなと思って」

「本が好きだってのと、本を勧めるのは別次元なんだよな……」

 後頭部を掻く。

 人となりを知らないと本を勧めるというのは難しい。この考えは勧めてほしい側の人間になかなか理解してもらえない。

「あなたが面白いと思った本を勧めてくれたらそれでいい」の言葉を真に受けて、純粋に好きな本を勧めてみたとする。良い感想をもらえたなら万々歳だが、「面白くない」「合わない」と言われてしまえば顔には出さないが内心深く傷ついてるのが本音だ。

 それに浅倉の場合はこの読書体験でこのまま本を読み続ける……とまではいかなくても、少しでも本に興味を持つかの瀬戸際。気まずいからといって、間違ってもここで適当に勧めて逃げるのは国語教師として今後が問われかねない。


 これは本気を出さねばと、腕を組む。

「先生……?」

「浅倉、今までどんな本が面白かった?」

「そうですねぇ……あ、その面白かったっていうのはマンガでもいいですか?」

「文字だけの作品で、だな」

「うーん……」

「つまりは、小説で面白いと思ったことがないということか」

「はい……」

 困った。とっかかりがないと難しそうだな。そういえば、最近、書店でアニメっぽいものや、目がやたらと大きく、キラキラした男女が描かれた表紙の文庫本を見かけるが、それは少し違うよなぁ。

「それなら、映画は見るのか?」

「家族や友達とたまに映画館に行く程度です」

「一度映像で見ているなら追体験で読みやすいかもしれん。『時をかける少女』や『セーラー服と機関銃』は……世代じゃないか。オマエと同じ女子学生が主人公の方なら読みやすいと思ったが」

「でも、題名は知ってます」

「まぁ、映画やってたのは、オレがまだ中学生の頃だもんなぁ。もう十年ほど前……そんなに経ってるのか」


 一九八〇年代、角川文庫を原作にした「角川映画」はテレビでばんばん広告をうっていたし、主演の女優は当時のオレたちと年齢も近く、総じて可愛いかったこともあり、アイドルを追いかけるかのごとく熱狂的な応援をしている同級生は山ほどいた。


「先生は映画も小説もご覧になったんですか?」

「ああ。『時をかける少女』は両方な。当時付き合ってた彼女が文庫貸してくれて、映画観に行く前に読んで行ったっけな」

 と言うと、思い出に深く浸る暇も与えず、

「元カノ、どんな子だったんですか」

 険しい表情で問い詰めてくる。

「どんな子って……。別に普通の本好きの女の子だよ。あの時はまだ中学三年か……。手さえつないでないし、デートは『時をかける少女』観に行って、帰りにハンバーガー食って帰った一回だけ。それでも本の貸し借りずっと続けて。でも、卒業と共に自然消滅っていう、学生時代によくある感じだ」

「ふーん」

「訊いておいてその返事かよ。オマエだってそんな経験あるだろ?」

「まだ誰かとお付き合いしたことはない……です」

「ほぉ、意外だな」

 浅倉なら、すでに彼氏の一人や二人いてもおかしくないと思ったが。

「ないからこそ、良いなぁと思いました。私も先生と同い年だったらよかったのに。進路が違っても絶対別れたりしませんけどね」

「常々思ってたことだけどよ、オレのこと好きだという割に、オレと共通するような趣味も話題もねぇよな?」

「それは……そうかもしれませんけど……。それでも好きなんです。先生のこともっと知りたいんです!」

「そんなにオレを振り向かせたいんなら、たくさん読書して、国語の成績あげるこったな」

「そう言うならやってみせますから」

 浅倉は強気に笑ってみせた。彼女の恋心を――と表現するのはオレは納得できないが――焚きつけてしまっただろうか。しかし、国語の成績が上がることは、彼女の将来にとっても役立つだろうし、良いことしかない。

「とにかく今回は映画やドラマになった作品で挑戦してみたらどうだ? 観てから読むか、読んでから観るか。それはオマエの好きにしたらいい」

「アドバイス、ありがとうございます。これで無事に書けそうです」

「言ったな? 夏休み明け、ちゃんと提出しろよ」

「もちろんですよ!」

 何か教師っぽいことが出来た。妙な達成感を感じ、頬が緩む。

 玄関の引き戸が開く音がした。

「帰って来たみたいだな。ほれ、早く台所戻っとけ。オレはまだ少しここに用がある」

「わかりました」

 一人、この部屋を見渡し、少し山をかき分け、本棚から一冊の本を取り出す。『時をかける少女』の文庫本。本当はここにある。

 一度は返したが、卒業前に「もう一度読みたい」と願い出た。希少な本好き仲間だったから、卒業しても会うための口実にしようとした部分もある。すると彼女は「そんなに気に入ったならあげるよ」とくれたのだった。そして、進路先が違えば生活リズムも少しずつズレが生じて、疎遠になった。元カノのものということもあり、自室に置いておくのもなんだかなーと感じ、オヤジの部屋に隠しているのだ。

 せっかくだし、読み直すか。

 

 夏休み明け、浅倉は『時をかける少女』を題材に読書感想文を書き上げてきた。

『もし私がタイムリープの力が持てるのなら、大好きな人の高校時代に飛んで、そのまま一緒に過ごしていきたいです』

 と書かれていた。オレしか読まないとわかっているから書ける一文だ。勧めた作品を誤ったかもしれんと若干後悔した。だけど、

『これからも少しずつ本を読んでみようと思える、きっかけの一冊になりました』

 という一文は素直に嬉しかった。

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