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第十三話 浅倉紗子は動く

 それからも空回りは続く。何をしても裏目に出る。

 大好きだった本ももう何週間と開いていない。

 そんな日々を過ごすと、教師として、人としての自信が削れていくのを自覚して、さらに嫌になっていく。

 この気持ちに任せて教師を辞めてしまえば、きっと廃人になってしまう。だから地に足をつき、飛ばされないように最後の力を込め、踏ん張っていた。


「桂先生」

 突然肩を叩かれて、ゆっくりと作業の手を止める。

「山田先生、どうかしましたか?」

 山田先生は椅子に座ると、数秒、唇を何度かきつく結んでは緩ませたあと、覚悟を決めたといった様子でオレに言う。

「みんな心配してるよ」

「はい?」

「桂先生が二学期に入ってから元気がないって」

「……そうですか」

「先生方は事情知ってるけど、生徒は知らないでしょ? だから、訊かれるんだよ。『桂先生体調が悪そう』とか、『同じ箇所何度も読んだりしてる』とかね。今だって何度も呼んだのに、肩叩くまで気づかなかった」

「えっ、すいません」

「今日くらい定時に上がったら?」

「まだ仕事残ってるので、そういう訳には」

「じゃあ、それ……ホチキス留めてるけどさ、プリント上下逆になってるのもわざとやってる?」

「あ」

 慌てて、針を抜き取る。いったい何してんだろう。ため息をついてから、オレはプリントを引き出しに入れた。

「……山田先生の言う通りにしときます」

「そうしたらいいよ。お疲れ様」

 そう言うと、山田先生は微笑んだ。


 駐車場に着き、自分の車に近づく。すると、視界の端、車止めの後ろにある植え込みに人がしゃがんでいる。思わず飛びのき、よく見ると、

「あ、あ、浅倉⁉」

 オレは心底驚いているというのに、浅倉は真顔でこちらを見ている。

「何してんだ!」

「先生を待ってました」

「はぁ⁉ いつから⁉」

「かれこれ一時間ほどでしょうか」

「バカ! オマエ、また日射病になるぞ!」

「日差し強いなって思ったら、タオル被ったりして日よけに……」

「そういうことじゃねぇ! それじゃなくてもオマエよく倒れるのに……」

「ごめんなさい」

「――で、何の用だ?」

「先生のお家についていっていいですか?」

「カンタンに良いですよって言うとでも思ってんのか」

 浅倉は立ち上がり、スカートを手で整えたあと、オレの目をじっと見た。

「最後のお願いです」

「最後……?」

 予想もしてない言葉に動揺が隠せない。

「静江先生がいなくなった今、私はもう桂家に行くことは出来ないと思っておとなしくしていました。でも、先生と約束していたんです。私が高校卒業する時にあの台所好きに使って良いから、ワタシに何か作ってくれないか? って。まだ卒業してないけど、静江先生の台所で、静江先生が教えてくれた料理を作らせてほしいんです」

「お願いします」と深く頭を垂れる。オレは無言で車を解錠した。

「先生……あの」

「……さっさと乗れ。助手席でも後部座席でもいいから」

「あっ、ありがとうございます!」


 車を発進させ、学校を出る。浅倉ははしゃぐ様子はなく、静かに座っている。

「先生すいません。途中でスーパー寄ってもらってもいいですか?」

「おう」

 それくらいしか会話のないまま、指定通りスーパーに停車した。

「先生は降りないんですか?」

「車で待ってる。成人男性と女子高校生が一緒にいるのはいろいろマズいだろうが」

「そうですかね?」

「そうだよ。……ほれ」

 財布から一万円を抜き取る。

「お、お金なんて……!」

「おふくろのためになんか作るだろうけど、それ、オレにも食べさせてくれないか」

「もちろん、そのつもりですが……」

「それならなおさらだ。オレの食費から出させてくれ」

「わかりました」


 数十分後、買い物を終えた浅倉を再び乗せて、家に到着する。

 足元にゴミが散乱したりはしてないが、電気を点けると家具に積もった埃がやや目立つ。こういう細かいところの汚れは「来客時ほど気づいてしまって恥ずかしくなる」とよくおふくろが言っていた。

「仏壇、先に行くか?」

 浅倉は頷く。

 仏壇の部屋へ連れて行くと写真の中のおふくろを見て、「静江先生……」と小さく呟いた。一通りのお参りをしたあと、ロウソクの火は消しておく。

 その瞬間、彼女の頬に一筋の涙が流れたのが見えた。それを浅倉は気づかれないようサッと手の甲で拭うと、まっすぐ台所へ向かった。一八〇度見渡して、深呼吸し、

「お借りしますね」

 まるでそこにおふくろがいるかのように、優しい声で言った。


 オレは居間から、浅倉の背中を見つめた。髪形も、背丈も、何もかも違うのに、おふくろが生きていた頃が蘇ってくる。

 おふくろはいつも慌ただしく台所を動いていた。何をどうしていたのかわからない。けど、手際よく黙って作る背中は堂々としていてカッコよかった。何も入ってなかったはずの鍋からみそ汁やカレーが、フライパンからは肉汁たっぷりのハンバーグやステーキが、魚焼きグリルからはこんがりと焼けた魚たちが。魔法使いのようだなんて、小さい頃は思っていたっけな。


 それにしても、もう一人、誰かが家にいるって、なんでこんなに安心するんだろう。思春期の時は自分一人だけの城をいつかと夢見ていたのに。実際一人は飽きる。オレには一人が向いていないことをひしひしと感じていた。炊飯器から水蒸気が上がり、コンロと鍋が擦れ合って奏でる音、出汁や味噌の香り。ああ、腹が減った。久しぶりにその感覚が次々に湧き上がってくる。

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