3-暇人
「あれ、クロウさん」
「ん、海音?」
クロウ達が政所の執務室から出て、鬼人の里へ出発しようと御所の出口に向かっていると、しばらくして横から声をかけられる。
彼が聞き覚えのある、澄み渡った水辺のように涼やかな声の方向に目を向けてみれば、そこにいたのは予想通りの人物。
幕府の3つの機関の1つ、問注所の長官をやっている聖人――天坂海音だ。
彼女は珍しく普通に事務作業でも任されていたらしく、両手に大量の書類などを抱えたまま彼らの方に歩み寄ってきた。
もっとも、任されているのはその書類などを運ぶ作業のみの可能性の方がかなり高かったが。
「御所に来るのは珍し……くもないですが、久しぶりですね。
今日はどうしたのですか?」
「あぁ、雫さんに捕まっちまってな……」
かなりの量の書類を運びながらも、その類まれなる身体能力によっていつもとそう変わらない歩みを見せる彼女は、現在自分の家に居候している彼がいることに随分驚いた様子だ。
普段から表情の薄い彼女だが、さっきまでは幾分目が大きく開かれており、今もかすかに不思議そうに細められている。
クロウの返事を聞くと、訝しむように彼の隣に立つ女性に目を向けていた。
「はぁ、捕まった……」
「い、いいえ、別に捕まえてはおりませんよ、海音様。
クロウさんも、人聞きが悪い言い方はよしてください。
紅葉さんと環さんにも同行していただいている通り、少しばかりお手伝いをしてもらうだけです」
海音からの訝しむような目が変わらず、さらに困惑したようにつぶやかれた雫は、やや慌てた様子で環達を手で示す。
彼女達は海音が現れたことには興味を持っていなかったが、そこにはたしかに卜部紅葉、環姉妹がいた。
鬼人特有の鱗などを見せていなかった上に、背を向けていたことで2人に気が付いていなかったらしい海音も、顔見知りではあるので示されればすぐに気がつく。
心なしか優しげな眼差しになって、納得したようにうなずき始める。
「あぁ、なるほど。……ただ、それでもやはり捕まったと言われたとしてもしっくりくる面子ですね」
「実際、厄介な依頼に捕まってはいる」
「あ、あの……からかうのはやめていただけませんか?
これでも一応、私は仕事として動いていますので……」
自分の上司と国の大切な客人であり、両者ともに神秘である海音とクロウの軽口を受けると、雫は目を泳がせる。
比較的落ち着いていて、しっかり者といった雰囲気の彼女だが、流石にこの軽口にはついていけないようだった。
神秘は山や海、風のような自然そのものと同義であり、雫のような仙人はあくまでもそれを普通の人より上手く扱える……言うなれば半分だけ神秘に染まっただけで、まだ人でしかないのだから無理もない。
彼女と彼らは元々は同じ人間で、今の見た目も同じ人間だ。
しかし、確実に本質が違ってしまっている彼らのからかいに、所詮仙人でしかない彼女が耐えられるはずがなかった。
もっとも、海音に限って言えばからかいというよりは、本当に思ったことをつぶやいただけなのだろうが。
「ふふ、すみません。それで結局、お手伝いとは?」
仕事ができないことで有名でありながら、仮にも上司として雫と接してきている海音は、それをすぐに察して薄く微笑みかける。
海音に謝られた雫はまたもたじろぐが、合わせて質問もされていることですぐに表情を取り繕い、口を開いた。
「はい、実はですね……」
いつまで経っても歩き始めない俺達に痺れを切らした環が、ロロと廊下を駆け回っている中。雫はついさっきクロウ達に説明したのと同じ内容を語っていく。
ただし、クロウ達が幕府の客人に過ぎないのに対して、海音は八咫幕府の首脳部の一員だ。当然彼らよりもこの国の現状についてはよく知っているはずであり、かなり省略した内容だった。
「なるほど、そのようなことが……」
「知ってたか?」
雫達がしようとしていることを聞いた海音は、大量の書類を持ったまま感心したように頷く。
かなりずば抜けたバランス感覚でほとんど落とすことはないが、見ていて気持ちの良いものではないので、クロウはハラハラとした面持ちで手を伸ばしながら問いかけた。
「悪夢と幻については、たまに訴えられていました。
どうしょうもないのですが、どうにかしてくれと。
ただ……鬼人の暴動については、彼らが私を見るとすぐに逃げてしまうので、初耳ですかね。噂程度です」
「めっちゃ怖がられてんじゃねぇか、すげぇな」
以前死線を共にして、今では仲間たち全員まとめて居候させてもらっているような仲なので、クロウの言葉には遠慮など一切ない。
名誉なのか不名誉なのか、喜ぶべきなのか悲しむべきなのかわからないような内容に、容赦なくズバッと切り込んでいく。
通常であれば人間よりも強い神秘である鬼人に、怖がられている。たしかに彼女達は神秘であるが、そうだとしても対等でしかないので、恐れられるのは異常だ。
本人としても、怖がられているというのは聖人としても女性としても受け入れがたいことだったのか、彼の言葉を聞いた海音は微妙な表情を浮かべていた。
「その凄さは、別に欲しくはないのですが……」
「そうか? まぁ、避けられるのは悲しいかもしれねぇけど、それ以上に誇れることだと思うけどなぁ。
お前はそれだけわかりやすく強い力を持ってるってことだし、俺には運しかないから正直憧れる。その力があればみんなを守れるから。無茶苦茶するとこは直してほしいけど……」
「わかりやすく強いせいで、鬼の子なのですが……
まぁいいです。慣れていますし、私は私を貫きましょう。
残念ながら直せませんし、せめて貴方の憧れで居続けます」
最初は心なしか不満げな海音だったが、クロウと話しているうちに段々とそれは微笑みに変わる。
鬼人に避けられていても、人間に恐がられたことがあっても、聖人という人から外れた存在にとっては、彼のような同類の方が心安らぐ存在なのだ。
人間とは違って完全に同じ種族だと言える彼女達は、場合によっては家族とも感じられる信頼で笑い合っていた。
「こほん。仲睦まじくされておられる所、お邪魔して申し訳ないのですが、そういうことで私達は先を急ぎますので」
とはいえ、神秘ではない雫にとってはそれもあまり馴染みのない感覚だ。神秘に成った者からは寿命がなくなると知っていても、彼女はそのまともな生命から外れたモノではない。
せっかくわかり合えたはずの鬼人たちが暴れているという、それなりに急ぎの問題が起きていたこともあって、遠慮なくその空気に割って入った。
「待ってください。私も行きたいです」
「えぇ……?」
しかし、海音は海音で引きはしない。
幕府内にいる彼女達の同類――神秘は、みんな寝込んでいるか忙しくしているかのどっちかだ。
クロウに出されたのが依頼だというのなら、自分の仕事から逃げることも容易いこともあって、同行を申し出た。
上司の珍しい主張に、もちろん雫は戸惑うばかりである。
「貴方様が仕事を放り出すだなんて、一体どうしたのです?
執権代理は喜びそうではありますが……」
「いえ、その……鬼人との融和のお陰で、最近は街を警備する頻度も随分と減り、事務はこうして運ぶ以外はできず、少しばかり心苦しく思っていて……」
「あぁ、なるほど」
当然理由を聞く雫だったが、海音の言葉を聞くとすぐに納得した。鬼人との融和前は、本来の執権を除けば唯一真面目に仕事をしていた神秘の彼女だったが、現在は求められる仕事の内容が変わってしまっている。
今やるべき仕事が明らかに彼女に不向きなものなので、仕事から逃げ出したくなっているようだ。
たまたま後ろを通った一般の役人も、海音の発言を耳にして微妙な顔をしている程である。
雫自身も海音が起こす問題や苦情を理解していたので、すぐに同行を受け入れて話を進めていく。
「わかりました。その書類を運んでからですよね?
玄関で待ちますが、迷わずに来られますか?」
「……私を何だと思ってるんです? 雷閃さんではないのですから、迷子になんてなりませんよ」
「一応言っておくけど、壁を突き破って来るのはなしだからな? ちゃんと廊下とか通って来いよ?」
雫からの酷い言われようにまたも不満気になる海音だったが、すかさずクロウが釘を刺すとピタリと動きを止める。
どうやら、迷子にならない自信はあっても、壁を突き破って移動しない自信はないらしい。
あからさまに目を泳がせて、腕に抱えた書類を危なっかしく揺らしていた。
「……なし、ですか」
「自信がないのであれば、私もお手伝いいたしますよ。
クロウさん達には、御所の前で待っていてもらいます」
「あの、その……お願いします、雫」
「わかりました。これはどちらへ運べば……?」
かなり申し訳無さそうにしながらも、海音は雫の提案を受け入れる。彼女達は待たせないように急いで書類の運搬を開始し、クロウは苦笑しながらロロや鬼人の2人と出口へ向かっていった。




