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黄昏を呼ぶ



午後の授業が終わった。美都は係の仕事のため職員室へ赴いていた。もちろん、職員室の外では四季が待ってくれている。

すれ違う教師に会釈をしながら高階の元へと向かった。彼の席は羽鳥の前だ。高階は自分の存在に気付くと身体を捻り迎える体勢を取ってくれた。

「こんにちは月代さん」

いつも通りのその笑顔に安心する。自然と顔が綻ぶのも高階の柔らかい雰囲気あってのことだろう。

「合唱コンクールお疲れ様でした」

「いえいえ。僕は特に何もしていませんから。銀賞おめでとうございます」

合唱コンクールでの高階の仕事振りを労ったところ、謙遜する言葉が返ってきた。次いで7組が獲得した賞に関して祝辞をもらう。そして明日から始まる2学期の授業内容のための持参物を訊ねる。合唱コンクールが一段落したのでここしばらくは楽器を扱う授業になるようだ。

「それとクラシックについても。少しだけ扱おうと思ってます」

「! そうなんですね。楽しみです!」

「月代さんみたいな子が増えるといいんですが」

困ったような笑みを浮かべ、高階は肩を竦ませた。クラシックはどうしてもこの年頃の生徒には馴染みがないものだ。それは巷で流行っているポップスやロックとは違い、耳に残るボーカルがないことが要因だろう。クラシックにも主旋律というものは存在するが、歌詞がないため印象が薄くなる。自分は高階の影響で興味を持ったのだ。否、元を辿れば家の近くで『愛の夢 第3番』を聞いたからだ。

ふと昨日の出来事を思い出す。同じ場所で聞いた違う曲のことを。高階ならば詳しく知っているかもしれない、と思いその曲名を口に出した。

「先生は……『月光』について詳しいですか?」

「月光……ベートーヴェンのですか? 月の光ではなく?」

「はい」

さすがに意表を突かれたようで高階も美都の言葉に瞬きをした。確かにいつも話題に出すのはドビュッシーの『月の光』の方だ。だから不思議に思ったのかもしれない。そもそも『月光』は美都の好みから大きく外れるのだ。彼は美都の疑問に答えるべくしばし無言で何かを考えていた。

「──ピアノ・ソナタ、ですね。『湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう』──ドイツの詩人がそう評したことからその名が付けられたのだと言われています」

美都は黙ったまま、高階の解説を耳に流す。それだけならばただ幻想的な雰囲気であることもわかる。だが自分が感じたのはそうではない。あの重々しく心臓を掴まれるような響きだ。

「重々しく響く第1楽章はまるで夜の水辺を彷彿とさせますね。ドイツの詩人が評したように、湖に月の光が照らされているイメージでしょうか。ベートーヴェン自身は月光と呼ばれていることを知らなかったようですが」

調べてもいないのに次から次へと曲に対する由来が話される。高階はさすがに博識だ。しかしこれまでの解説で気にかかる点はない。重々しく響く、という解釈はそうだが、それはただ聴く人それぞれに与えられるイメージだ。ならば自分の杞憂なのだろうか。そう思った矢先、高階の顔が少しだけ陰った。

「この曲は──ベートーヴェンにとっては苦しいものとなりました。彼はその一年後に遺書を書いていますから」

「遺書……?」

「ベートーヴェンは聴覚障害に苦しんでいたんです。彼はある時期を境に全聾になりました」

高階が話す内容に思わず声を詰まらせた。作曲家に取って、聴覚を失うことがどれほどの絶望なのか。想像しただけで胸が苦しくなる。眉間にしわを寄せて、その痛みを脳内の響きで思い出した。

「死を意識する程、追い詰められていたはずです。だから少しだけ、僕は怖いと感じることがあります。彼の心の嘆きが旋律となって表れているようで……」

普段よりも歯切れが悪く、高階はその曲に対する印象を述べた。

そうか、とようやく納得した。ならばあの時感じたことは間違っていないのかもしれない。高階でさえ畏怖の念を抱くのだ。旋律が身体を縛り付けるような感覚。あれはこの曲の中に嘆きが詰まっているからか。だとしたら本当にそれはベートーヴェンのものだけだったのであろうか。あの響きはまるで奏者の感情のようにも思えた。

高階の解説を心に落とし込んでいると、彼が恐縮するように自分に声をかけた。

「すみません、怖い話になってしまいましたね。でもどうしていきなり月光の話を?」

「えっと……昨日たまたま聴く機会があって。それで──わたしもちょっと怖いなって思ってしまって……」

ありのまま感じたことを伝えた。高階はその感想を否定するでもなく、なるほどと言うように頷く。先ほど彼も同じような感想を抱いていたからかもしれない。

「──『月光』は、旋律自体は重い響きに聴こえるかもしれません。特に良く耳にする第1楽章は分散和音ですから。ゆっくりと進む旋律は、音が途切れないようにという指示もあります。愁情(しゅうじょう)を思わせる曲ではありますね」

愁情、という耳馴染みのない単語に首を傾げる。すると不意に背後から解説が飛んできた。

「悲しみや憂いのことだよ。メランコリー……っていうとまたややこしいか」

「羽鳥先生!」

さすがは国語教師というべきか。前者の解説で意味合いは理解できた。

「外で待ちぼうけてる奴がいたよ。あんたの連れだろ。行かなくていいの?」

すかさず羽鳥にそう指摘され「あっ」と思い出した。そういえば四季を待たせていたのだと。

慌てて高階と向き直り礼を伝える。

「ありがとうございました、高階先生」

「いえ。また何かありましたらいつでも」

「はい! それじゃあ明日よろしくお願いします」

頭を垂れた後、そそくさと踵を返し職員室を退室する。その様子を見ていた教師二人は改めて会話を再開した。

「すみません高階先生。話の腰を折ってしまって」

「とんでもないです。僕も話し込んでいたので」

互いに自分の対応に恐縮しながら困ったような笑みを浮かべた。実のところまだまともに会話したことがない。歳も離れており特に授業内容でも干渉はしないからだ。ここで「意外だな」と思ったのは羽鳥の方だった。

確かにこの年若い音楽教師は生徒からウケが良い。生徒と歳も近く容姿も整っており何より人当たりが良いことが高評価となっているようだ。しかし彼が特定の生徒と親しく話をしている姿を見たことがなかった。だから驚いたのだ。教え子もあんなに熱心にクラシックが好きだったとは目から鱗だ。そう考えていたところ、不意にその教師から名を呼ばれた。

「彼女……何かあったんでしょうか?」

「月代、ですか? 特に何も聞いてませんが──……」

先程とは打って変わって、怪訝な顔でそう問われ羽鳥もつられるように眉を顰めて応答した。昨日進路のことで話はしたが、今日も至って普通であった。特に体調が悪そうな素振りもなかったし二学期の最初の授業を集中して受けていたように思える。

「そうですか……」

「……逆に何か気掛かりが?」

どうにも腑に落ちていないような高階の呟きに首を傾げ、似たような質問を返した。一拍置いた後、尚も口籠もりながら彼は己の思ったことを素直に話し始めた。

「──なんとなくですが、いつもよりも雰囲気が違ったように感じまして。何かを警戒しているような……上手くは言えないのですが」

急にすみません、と付け加えて高階は苦笑いを浮かべた。彼の所感を受けて羽鳥も考える。

警戒というなら向陽の方だと。彼は今日一日、ずっとピリピリとしていた。それには確実に月代が関わっている。だが先程の様子から見るに喧嘩をしたわけではなさそうだ。だとしたら何か他に理由があるのだろうと考えられるがそれはあくまで向陽の方の話だ。月代に関しては大きな変化は無い。彼女が警戒心を持つことの方が稀だ。ふむ、と高階の考察を加味して羽鳥は一度頷いた。

「ありがとうございます。明日また気をつけて見ておきます」

「よろしくお願いします」

高階はそう言うと担任に引き継げた安心から、再び己の机に向き合って作業を始めた。

とは言えあの少女が翌日まで引きずることも滅多に無いことだと思う。もし明日異変を感じるようなことがあれば改めて声を掛けよう。それは担任としての義務だなと落とし込み、羽鳥も同じように自分の机へと向かった。





普段、あまりこういった気配は感じない。それは恐らく警戒心を持っていないからだ。加えて特段自分を気にする者も心当たりがない。

しかし今日に限っては違う。思い込みも大いにあるだろう。だがそれ以上に誰かに見られている感覚がずっとあった。それはもう気味が悪い程に。

さすがに得体の知れない視線に気持ち悪さを覚え、美都はその場に立ち竦み怪訝な表情を浮かべた。

「! どうした?」

「──……っ」

隣を歩く四季も、所作に合わせるように立ち止まって彼女の顔を覗き込んだ。

この気持ち悪さを如何にして表現すれば良いのかさえ迷う。ずっとこちらの様子を窺っている。いつ隙が出来るかを狙っているかのように見えない影が付き纏っている感覚があった。だからいつもより心臓が煩いのかも知れない。

「……たぶん、近い」

五感を研ぎ澄ませることは滅多に無い。だからわかる。何者かの強い念が。恐らくは初音のはずだ。だとしたらあまり長引かせるものでは無いように感じる。彼女と直接向き合えば、この気持ち悪さは解消されるだろう。しかしそれは同時に自分の身を投じることにもなる。

美都は口元を手で押さえ、どうすることが最善なのかを考える。このままこの視線をかわし続けたところで状況は良くはならないだろう。向こうが諦めない限り。だとすれば、という思いで自分を支えてくれている四季を見上げた。

本音を言えば、彼を巻き込むことも気が引ける。しかし現状自分だけの力では如何しようも無い。それに守護者は二人一組、そこに優劣はない。そう自分の中に落とし込み、美都はグッと息を飲んで四季の手を取った。

「──こっちに」

下校途中。いつもの帰り道だ。普段となんら変わりない。ただ空気だけが異様に張り詰めていた。

四季は突然走り出した美都に目を丸くしながらも、何も言わずにただ引かれる手に足を動かした。少なからずこの行動の意味を理解してくれたらしい。

まもなく黄昏時だ。黄昏時はまたの名を逢魔が時とも呼ばれる。それは文字通り、古より魔が出現しやすい時間帯だったからだと言われている。陽が沈む際、顔の識別が難しくなるからだ。

駆け足で近くの公園へと駆け込んだ。初音の狙いが自分であるのだとすれば、恐らくはスポットを張るはずだ。その時に十分な空間が必要になる。道の往来でスポットを張るとは考え難かった。これまで交戦してきた経験から、彼女は曲がりなりにも最低限の常識があるように思えたのだ。否、これは常識とは言わず格式のようなものかと口の中でひとりごちる。

「……っ!」

走ったせいなのか、それとも気味の悪い緊張感からなのか。心音が煩いくらいに響いている。どんどんと大きくなっていくのがわかる。しかしこの状況のままにしておくわけにもいかなかった。

背筋に悪寒が走る。美都と四季は互いに直ぐにでも戦えるよう構えをとった。昨日使われた憑代はシャープペンシルだった。宿り魔の発動条件は未だ解明できていない。しかし何かの無機物に胚が宿り、魔が人型を象る。人外の化け物だ。その化け物が人間の指示で同じ人間を襲う。ひいては心のカケラにあるとされている鍵のために。

美都は息を整えるために深呼吸を繰り返した。

狙いが自分であるのだとすれば、出現した宿り魔はまず間違いなく自分に向かってくるはずだ。それならば話は簡単だ。拘束される前に退魔の言を結ぶ。それしか方法は無い。しかしこれはイタチごっこにしかならないのでは無いか、という懸念点もある。ならばやはり大本を叩くしか無い。

(────初音と、戦う……!)

喉をグッと引き絞る。話が出来ないのであれば、彼女に憑いている宿り魔を祓うしかない。だがそれが容易ではないことは理解している。これまでも四季が何度か彼女に攻撃を仕掛けたが、その度に上手く躱されている。身体能力が高いのだ。そして頭の回転も早い。苦戦を強いられることになるだろう。

それでも戦うしかない。初音を止めなければ。彼女のしていることは決して許されることではない。だから──。

瞬間、風向きが変わる。突如変化したその雰囲気に二人は息を呑んだ。

────来る。

宿り魔の気配が濃くなった。視線を動かしあたりを見渡す。その時カシャンという小さな音が耳に届いた。

「──……!」

カバンに付けていたキーホルダーが突如外れたのだ。驚いたのはそれだけではない。そのキーホルダーが凛とお揃いで買ったものだからだ。

まさか、そんなと半信半疑だった。だがこれ程わかりやすいものはない。これは誘導だ。

四季と視線を交わし互いに頷く。宿り魔の発動条件。解明は出来ていないが予測は出来ていた。対象者が宿り魔の憑いた無機物に触れること。

そして美都は、キーホルダーへゆっくりと手を伸ばした──。





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