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思い出すのは



────ねぇ、いつかえってくるのかなぁ?

ただ漠然としたその質問を口にしたとき、目の前の女性が苦い顔を浮かべたことを憶えている。

その日がいつもと違うと知ったのは、次の日も、その次の日もそうだったからだ。まさかその日を境にこちらが日常になるとは思っていなかった。

当たり前だと思っていた日常は、ふとしたきっかけで崩れる。幼過ぎて気付かなかっただけだ。

あの時、声に出せていれば。言うことを素直に聞かなければ。結果は違っていたのかもしれない。それでも。

抱き締めてくれた温もりと、いつもみたいに泣き出しそうな声で話すその人を見たらそうせざるを得なかった。

暑い、暑い日。その背中を見送った。

祝いの日の朝、呪いの言葉を残して。





蝉の声が煩わしく耳に響く。気にしたくなくても容赦無く届くその現象に、美都は歩きながら顔を顰めた。

息を吐きながら歩を進める先は、常盤の家がある方面だった。羽鳥との話し合いが終わった後、直接多加江の元へ向かうことにしたのだ。

(暑いなぁー……)

8月が終わったのは昨日なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。これから季節は緩やかに秋へと向かっていくはずだ。それまでこの蒸し暑さが続くとなるとしんどいなぁとさえ思う。

そうして歩いているうちに目的地は段々と近付いていた。しかしそのまま向かうことはしない。何かしらで埋めないと顔に表れてしまいそうだったからだ。

期待していたピアノの音は聞こえない。それが少し、否、かなり残念だった。フランツ・リスト作曲、愛の夢第3番。あの時はまだ曲名を知らなかった。それでもあの音に導かれたのは間違いではない。高階の奏でる音よりもどこか物憂げに聞こえる、あの旋律に。

一人になるんじゃなかった、と後悔した。一人だと余計なことを考えてしまう。だがそれも中原家までの辛抱だ。自業自得ではあるものの、どうしても寄りたい所があった。

立ち止まり、その建造物を見上げる。まだ高い位置にある陽がステンドグラスを照らしていた。扉の方へ近付き、コンコンと指の甲で叩く。

「……こんにちは」

昨日もこうしてここを訪れた。しかし同様に菫の姿は見られない。彼女とはここ半月ほど会えていないのだ。元より「会いたいと思って会える人ではない」と言われていたためこの状況が普通なのかもしれないが、今日こそはと思っていた節もありやはり残念に感じる。

自分以外誰もいない教会はやはりどこか寂しく感じる。静謐な空間にただ一人自分だけが佇んでいる。ここの空気が好きだ。いつでも澄んでいて心が安らぐ。だからこそ度々訪れたくなるのだろう。目を閉じて前回菫と会話した時のことを思い出す。

『大丈夫です、美都さんなら』

その言葉を望んだのは自分だ。あの時はそれで自分を奮い立たせた。彼女の言葉には力があるから。それなのに。

────なんでこんなに不安になるの?

美都は胸の前で手を握り締める。

それは進路が決まっていない将来への不安か。もうすぐ現れる所有者のことか。それとも、今日がそういう日だからなのだろうか。

こんな時だからこそ、菫と話したかったのに。結局それは叶わないのだなと思い顔を顰める。

せめて、と思い息を吐く瞬間に天井を仰いだ。そのまま俯いてしまったらもっと気持ちが引きづられてしまいそうな気がして。

「──!」

不意に耳に届いた音に、ハッと目を見開いた。思わず踵を返し、教会から出る。

(ピアノの音──……)

間違いない。ピアノの音が聞こえる。それにいつもこの付近で耳にする音だ。違うのは曲だった。物憂げな音、というのは正しい。ただこれは『愛の夢』ではない。

美都は思わず数少ない知識の中から記憶を手繰った。

(これ……、『月光』……?)

好きな曲と似た曲名だからたまたま覚えていた。ベートーヴェン作曲、ピアノ・ソナタ『月光』。重厚な音の響きが頭に残っている。ドビュッシーの『月の光』とは全く違う。離れていても胸を刺してくるような低音に、また不安な気持ちになった。決して怖い曲ではないはずなのに。なぜこんなに心を揺らしてくるのだろうか。奏者はなぜこの曲を選んだのだろう。

心臓が大きく鳴っている。これまでピアノの音を聞いて、怖いと思ったことは一度もなかった。だからこれはもしかしたら間違った感情なのかもしれない。それでも今この瞬間に感じるのは恐怖だ。

ズシンと重く肩にのしかかる。だめだ、飲み込まれてしまう。ここから離れなければ。そう思うのに足が動かない。暑さからではない汗が額に浮かぶ。呼吸すら難しくなってきた。ちょうどその時だった。

「あれ? 美都?」

その声にハッとして息を呑む。声がした方に視線を向けるとあやのと秀多が道路脇に立っていた。

思わず大きな息を吐く。安堵の息だ。そして彼らの元へゆっくりと歩を進めた。

「何してるのこんなところで」

「二人こそ。ナベくんはみんなと一緒なんだと思ってたよ」

先ほどまでのことをまるで無かったかのように振る舞う。変な心配をさせてはいけないと思ったからだ。

「ちょっとだけ二人で歩いてきたの。ほら学校じゃあんまり大々的には出来ないからさ」

「逆にさ、お前らんとこはなんでそんな余裕なわけ? 学校でもあんま会話してないだろ」

あやのに続き、日頃からの疑問を抱いていた秀多が口を挟んできた。確かに彼のいう通り、端から見れば自分たちはそんなに対話していない。だがそれは学校での話だ。家に帰ればいつでも出来ることなので学校では互いに交友関係を優先している。だからこその疑問だろう。同居しているという事実はおおっ広げにしていないしするつもりもない。

「えーと……まぁ程々にコミュニケーションとってるよ……?」

目を逸らしながら彼らの疑問に答える。不思議に思われても仕方ないか、という距離感のような気はしていた。今後はもう少し学校での付き合い方も考えなければなと身につまされる。

「まぁ順調ならいいんだけどね。で、美都はなんで一人なの?」

「学校でちょっと羽鳥先生と話してたから。それと和真の家に行かなきゃいけなくて」

そう説明すると秀多が「あー、朝言ってたやつか」と納得した声を出した。そもそも和真が下手に口を出さなければこんなことにはなっていない。とは言えケーキを作って待ってくれている多加江に直接お礼も伝えたかったのでやぶさかではないのだが。

「というわけで、今から行ってくるね」

「おー。この後四季たちと合流するけどなんか言っとくことある?」

「ううん、平気。ありがとう。また明日ねー」

そのまま二人に手を振り、彼らの進行方向と逆に進み始める。ある程度距離が離れたところで美都は立ち止まり、息を吐いた。

二人が通り掛からなければ、あのままあの音に捕まっていたかもしれない。そう思い返すと背筋がゾッとした。あれは一体何だったのかとさえ感じる。形容し難い恐怖。あんなこと初めてだ。

あの重く響く『月光』が微かに耳に残っている。まるで自分に向けられているかのようなあの音が。

雑念を振り払うように首を横に振ると、美都は顔を上げて再び歩き始めた。





ベランダに出て煙草をふかす。ほとんどの生徒は帰宅しているため、いつもよりも静かだ。グラウンドで走り回る生徒もいない。

羽鳥は柵を背もたれにして大きく息を吐いた。下向きに出た煙が徐々に上昇して消える。

ポケットからスマートフォンを取り出した。生徒の保護者に電話をするのだから、職員室の電話を使うべきだとは弁えている。ただ、一概にそう出来ない理由があった。

連絡先を呼び出し、しばしその名前を見つめる。履歴からでも探せたのだがこちらの方が確実だった。発信ボタンに触れ、電子機器を耳に当てるとプツプツという途切れた音の後にコール音が続く。

『──もしもし?』

「私、第一中学で教師をしております羽鳥と申します」

『知ってるわよ。これ毎回やるつもり?』

そう言われると見越していただけに苦笑せざるを得ない。一応学校からかけているので必要であると言えば必要なのだ。

『で、電話かけてくるってことは何かあったんでしょ?』

「あー。まぁあったと言うか一応報告をね」

さすがに旧知の仲だけある。何も言わずとも用件を察してくれたようだ。と言うよりも最近自分が彼女にかけることは目下この件についてばかりだからかもしれない。

気を取り直して彼女にかけた用向きを伝える。

「三者面談、やりたくないってさ」

ありのままを伝えたところ電話越しで溜め息が聞こえた。その気持ちはわからないでもない。何とか説得を試みたがどうにもあの生徒の意志は固そうだった。

『理由は?』

「進路がまだ決まってないからって」

『……まったく、あの子は』

呆れた声で渦中の少女を詰った。身内だからこその反応だろう。自分としてもここまで肩入れするのは彼女が関わっているからだ。教師としては生徒には一律平等でなくてはならないと考えている。しかしあの生徒に至っては事情が事情だけにどうしても動向を目で追ってしまうのだ。

「進路のこと、あんまり深く話し合ってないんでしょ?」

『あの子の意志に任せてるの。こっちがとやかく言うようなことじゃないからさ』

「まぁ確かにね。結局決めるのは自分だし。あんたの言うことは正しいわ」

だんだんと手に持っている煙草が短くなり始めた。灰が落ちる前に灰皿へと手を動かす。

「でも、金銭的な面も気にしてたよ」

『遠慮すんなって……言ったんだけどね』

再び大きく溜め息を吐く。見ないでもわかる。恐らく彼女の表情は険しいはずだ。普通の家庭であっても、稀にそこを気にする生徒がいる程だ。あの生徒にとってはもっと恐縮してしまうのだろう。血縁関係ではあるものの、彼女は実母ではないのだから。

「甘えときなとは言っといたよ。それでいいんでしょ?」

『えぇ。助かるわ。ま、素直に聞くような子じゃないけど』

この評価は少しだけ不思議に感じる。やはり学校と家とでは性格に違いが出るのだなと感じるところだ。学校では素直さに定評がある。だが心許せる人間だと反発心が出るのかもしれない。その方が安心する。何せまだ子どもなんだから。

『他にはなんかあった?』

「んー?」

吸い殻を灰皿に捨てると同時に、ポケットから箱を取り出す。器用に耳と肩の間にスマートフォンを挟み、その箱から一本抜いてライターで火を点けた。

『ちょっと。教育的指導はどうしたの』

ライターの音に気づいたのか、電話越しの相手が渋い声で自分を諌めた。

「もう生徒は帰ってるからいいの」

紙筒で包まれた葉の味を吸い込んだあと、それを煙として吐き出す。生徒の前では吸わない。身体に良くないと自覚はしているがもはやルーティンみたいなものだ。または依存とも言う。

「……あのさぁ。あの子、ちゃんと見ててやった方がいいよ」

唐突にそう口にしてしまったのは、つい数時間前ここで会話した時の表情が頭から離れなかったからだ。おおよそ15歳の子がする表情ではなかった。大人びて見える中に、他者を拒絶するような深い瞳の色をしていたのだ。息が詰まる程に、似つかわしくなかった。

『──もちろんわかってはいるわ』

「理由はなんとなく察するけど。でもあの子……ちょっと危なっかしいよ」

『何でそう思ったの?』

不意に問われたことに、眉間にしわを寄せる。危なっかしく見えるのは決して素直さからだけでない。

どう言えば伝わるだろうか。あの生徒に感じる雰囲気。何か一つでも綻べば、瞬間足元から崩れてしまいそうな危ない橋に立っているかのようなのだ。周囲の生徒は気づいていない。だが親しい人間ならばわかるはずだ。これまで彼女のことを見てきた者ならば特に。

「度量が広すぎる。よく言えば包容力がある、だけど────あの子の場合はちょっと違う」

口にしていない煙草はじわじわと炎が滲んでいく。煙だけが宙に浮き上がっていた。

「優しさ故に、自分の心を押し込めているみたいに見える。今はまだいいけどこの先もし入り組んだ事態が発生したら……この学校にいる者じゃ慰められないよ」

電話口の相手は無言のままだ。肯定も否定もしない。だが否定しないと言うことはあながち彼女の見立ても似たようなところなのだろう。むしろ彼女の方が良く知っているはずだ。自分如きはまだあの生徒とそんなに深く関わってはいないのだから。

『……国語教師は心理カウンセラーか何かなの?』

「ま、著者の意図を汲み取りなさいって問題に出すこともあるくらいだしね。近いものはあるでしょうよ」

冗談交じりにそう返すと乾いた笑い声が耳に届いた。

「で、近いうちにあの子と話す機会はあるの?」

担任に出来ることは限られている。生徒と話したことを保護者に報告すること。それは今現在していることだ。後は保護者と生徒が話し合って答えを出す他無い。電話口の相手はその問いに呆れたように息を吐いた。

『今日電話するとは言われたけど──どうかしらね』

「何か気にかかることが? だって今日誕生日なんだろ」

『……誕生日だからよ』

思わず首を傾げる。誕生日だから電話するものでは無いのか。そもそも今日は午前中授業なので帰っても良さそうなものなのにと言う考えが働いた。しかし彼女の声色は、どうにも難しいものだ。そこには恐らく何か理由が存在するのだろう。だとしたらそれは外野が不躾に聞くものでは無い。

「──まぁ、私もあの子の動向はちゃんと見ておくからさ。あんたはちゃんと進路のこと話し合ってあげてよ」

『わかったわよ、先生』

追及はせず、ただ自分ができることを口にすると相手も理解したかのように応じた。そこに若干の茶化しを含ませながら。

こうして話していると、学生時代を思い出す。彼女とはしばらく連絡を取っていない期間もあったがまたこうして話し合えることが素直に嬉しかった。とは言え生徒の担任と保護者という関係だ。あの生徒の担任になったとき苗字を見てもしやと思った。血縁関係であることは察したがまさか彼女が保護者として連絡先に記載されているとは思わなかったのだ。なぜなら彼女は既に結婚して姓が変わっていることを知っていたから。名前を見た瞬間二つの疑問が浮かんだ。

「まさかこうしてまた関わるなんてね」

『私もびっくりだわ。でも、あんたで良かった』

一つ目は、なぜ別姓を名乗っている彼女が保護者なのか。そして二つ目は実の親はどうしたのか、と言うことだ。だがそれもプライバシーに関わることだ。何かがあったということしか判らない。前任の教師に聞いても詳しいことは不明と言う返答だった。教師が知れる情報など表向き、上辺だけのことだけだ。

今彼女に訊けば答えが返ってくるかもしれない。だがそれは、自分の方こそ踏み込むと決めなければ中途半端な位置に立ってしまうことになる。それを考えると現状は出来ない。

「ねぇ」

担任教師としてどこまで触れていいものか。それは未だに測りかねている。だがそれ以前に彼女とは昔からの友人だ。だからこれは友人としての自分の言葉だ。

「出来る限り協力はするからさ。何かあったら言ってよ────円佳」

それだけ言うと電話越しの彼女は一拍置いて「ありがとう」と口にした。




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