邂逅
その少女の名を聞いたとき奇怪なことだと思った。こんなことがあるのかと。忘れていた記憶が直ぐに蘇ってきた。
「──月代、美都」
暗闇の中、彼女の名前を口にする。直接顔を合わせたことはない。だが名前を憶えていたのは幸いだった。まさかこんなところで交わるとは。
「これが天命か」
あの聖女の顔が思い浮かばれる。彼女は本当に知らなかったというのだろうか。所有者であることをを知らずとも、関わりのある人間だとは気付いていたはずだ。守護者に任ぜられた時点で。彼女こそ名前を聞いた時点で把握していただろうに。
(いや──隠していたのか……?)
こちらにとって守護者は邪魔な存在でしかない。だから今まで守護者には興味がなかった。だが所有者となると別だ。その身の内に鍵を宿しており、それを使用する権限を有する。ずっとそれを探していたのだ。破壊の力を持つ《闇の鍵》を。そうしてようやく、ようやく見つけたのだ。それがまさか縁のある者だとは。あの聖女が隠したがるのも頷ける。何せ彼らの娘なのだから。少女がこれまでずっと鍵を所有していたのだ。
「……因果だな」
守護者だということには直ぐに納得出来た。だがよもや所有者まで兼ねるとは。イレギュラーとは言え、とんだ偶然だ。こんなところで邂逅することになろうとは。結局は巡り巡ってくるのかと。だからこれは恐らく偶然ではないのだ。あの聖女の言う通り神の思し召しだとするのならば、今この事態は必然だと言って良い。そうでなければ再び思い出すことはなかっただろう。
(────何の為に)
思い出さなくてはならないのだ。思わず奥歯を強く噛み締める。必要な記憶など無い。ただ憎しみさえ忘れなければそれで良い。そう考えるとあの少女も可哀想だとは感じる。ただ巻き込まれただけだ。鍵と言う物体を取り巻く因果に。恐らく彼女自身それを知らない。ただただ運命に翻弄されている哀れな少女だ。だが、と一つ息を吐く。
(容赦はしない)
ずっと探していたのだ。その為にここまで来た。所有者が誰であろうと構わない。闇の鍵を手にすることが出来るのならば。神が選んだスケープゴートだ。こちらにとっては都合が良い。非力な少女を手玉に取ることなど容易だ。だが。
(……まだだ)
まだ、この器に力が足りない。もう少し馴染ませる必要がある。急がないと言ったのはその為だ。最近になってようやく少しずつ記憶を覗けるようになってきたが十分ではない。この器を動かすには圧倒的な力が必要だ。現状それが不足している。そもそもこの身体は扱いづらい。力を宿すのに向いていない身体だ。それでもこれを選ぶしかなかった。
ちょうどその時。自分が放った宿り魔の気配が一つ消えたことに気付いた。
(衣奈──やはり失敗したか)
元より期待はしていなかった。ちょうど扱いづらくなって来ていたところだったのでタイミング的には悪くない。だが衣奈に憑けた宿り魔は、通常使役するモノよりも幾分か強力のものであったはずだ。それまで上手く立ち回っていた彼女を懐柔した、ということになる。そうなってくると守護者も侮れない。それ程の力をつけて来ているということだ。
正直衣奈のことはどうでも良い。むしろただの人間がここまでやれたことに驚いた。手駒としては十分な働きだ。所有者を見つけるのに時間をかけ過ぎたことだけが不服ではあるが。彼女の代わりならばいるのだから。
「────命ずる」
「はい」
言葉少なに、側に控えていた者が応答する。
「あの女に連絡を取れ」
すると今度は直ぐに反応が無く、その命令に一度声を詰まらせていたようだった。その理由も把握できる。
「もちろん水唯にはこの後役に立ってもらう。不満か?」
「──いえ。承知しました」
まさか言い返すことはないだろうとは思っていたが、動揺する姿を見せるのはまだ甘い証拠だ。それも仕方のないことだとは思うが。
彼女を呼ぶのは他でもない。あの少女に近づきやすく、且つ対象を弱らせることに長けているからだ。だがそれには彼女をその気にさせる十分な理由が必要だ。そうなってくるとあの少女をもう少し探る必要がある。その任は水唯に負わせる。彼女が納得するまでの理由を作り上げなくてはならない。それが面倒だとも感じるが使えるモノは使っておきたい。
すると今度は前方から静かに近づいてくる気配を感じた。
「水唯か」
「────はい」
名を呼ぶと短く返事が返ってくる。この少年は感情の起伏が乏しい。主人たる自分の前だから萎縮しているのかと思ったが先日珍しく己の意見を言う姿が見え少しだけ驚いたものだ。学校生活で何かに感化されたのだろう。だがそれも今この瞬間には戻っている。これまで通りの彼だ。
「衣奈が失敗したよ」
あるがままのことを口にする。恐らくは彼も知っているはずだ。暇を与えておきながら直ぐに呼び出される理由は察しがついているだろう。特に応答することもなく顎を引く姿が見て取れた。
「お前がやるべきことは分かっているね?」
「……はい」
衣奈が失敗したことによる引き継ぎ。元より鍵の所有者が判明した時点で水唯に命じていたことだ。それを衣奈が無理矢理遂行しようとした。結果失敗したわけだが。
「だが少しだけ待て。お前に頼みたいことがある」
「……なんでしょう?」
「あの少女を探れ。何でも良い。お前が知り得たことを逐一報告しろ」
彼女が興味を抱くような情報。それさえあれば動かすことが出来る。所有者であり守護者という異色な点に於いても交渉材料には成り得るがもう少し確実なものが欲しい。
「──期限はいつまでに」
現状、対象に一番接触しやすいのは水唯だ。彼がどこまでの情報を持って来られるかは不明だがこちらにも時間が要る。
「ひと月もあれば十分か?」
「承知しました」
「お前の働きに期待している」
水唯が鍵を持ち帰ることが出来るならば本来はそれで良い。だからこの期間は保険だ。そしてあの少女を見極める期間でもある。異質とも言える少女が果たしてどれ程の力量を持っているのか。所有者としても、守護者としても。鍵を使いこなすのに本当に値するのか。
逃すわけにはいかない。また鍵が受け継がれる前に必ず手にするのだ。
全ては、この世界に復讐するために。
◇
午前中、最後の受付患者の診察が終わった。「お大事に」と言葉を掛け診察室から出て行く患者を見送る。
瑛久はふぅ、と一息ついて肩を回した。
(さて……)
カルテを入力し終え、座りっぱなしだった椅子から立ち上がる。午後の外来開始までは少し時間がある。昼休憩を終えたら少しだけ専門科の勉強が出来るだろうか。総合診療科を選択した自分にとって、手広く対応できるようにならなければいけない。それには日々の勉強が大切になってくる。
ひとまず申し送りのためにとナースステーションへ向かおうと扉を出たときだった。
「あ、櫻医師!」
「? どうかしましたか?」
馴染みの看護師が半ば慌てるようにこちらに向かってくる。その様に只事ではないな、と少しだけ身構える。事情を聞くとどうやら病棟回診に行くはずの医師が諸事情で来られなくなってしまったとのことだった。なるほど、それで呼び止められたわけかと直ぐに納得する。
「外来終了直後で申し訳ないんですが……」
「大丈夫です。行きますよ」
ありがとうございます、と看護師が頭を下げる。とは言え病棟回診に出る前には結局ステーションに寄り状況を確認しないことには進まない。そう考えながらその看護師と歩き出した。
「どこの病棟ですか?」
「療養です。カルテはもう用意してありますのでそちらを見て頂ければ」
「了解しました」
療養か、と頭で考えながら到着したステーションでカルテをザッと確認する。療養病棟の入院患者は長期に渡る療養が必要であり、担当医師と顔馴染みのことが多い。専攻医の自分が行くことは稀だがこれも一つの勉強になるな、と思った矢先だった。
「!」
見知った苗字の患者が目に留まった。そうか、療養だったかと思い出す。カルテを頭に叩き込むと身体を捻り直ぐに病室へ向かった。療養病棟はほとんどが個室だ。問診に時間はかからないが移動のための手間があるのが難点だった。それでも一人一人患者と向き合うことが医師の務めだ。順番に個室を回り次がようやく該当の病室だな、と手前の病室を後にするとちょうど面会人がその扉から出てくるところだった。
(へぇ……)
30代半ば、といったところか。襟足が長いせいで若く見えるのかもしれない。患者の年齢を考えれば同年代だろう。友人か、もしくは──。
考えていたところでその面会人がこちらの存在に気付き頭を下げた。同じく会釈を返すと無言のまま横を通り過ぎる。何か予定があるのか心なしか駆け足だった。
その人物が立ち去った病室前に移動し、扉をノックする。内側から「どうぞ」という軽やかな声が響いてきた。入室の挨拶をして扉を開き患者の前へ進む。
「あら、随分若い医師なのね」
瑛久の姿を見ると驚きながらも柔らかい声でそう口にした。その感想に苦笑する。
「すみません、担当医が諸事情で……」
「いいえ。とってもお若くてびっくりしちゃったの」
ごめんなさいね、とベッドの上で座る女性が笑みを零した。若い若いと連呼されて更に苦笑いを浮かべてしまう。
「そんなに変わらないですよ」
「そうは言っても10歳くらいは違うでしょう?」
「まぁ……そうですね」
そう言われてしまえば否定は出来ない。だが彼女も十分若いのも事実だ。顔を合わせるのは今日が初めてだが、思っていたよりも話しやすい感じだ。ふむ、と思いながら問診を開始する。検温まで一通り終えた後再び彼女を見た。
「先程の方は……旦那さん、ですか?」
「えぇ。忙しいからたまにしか来られないんだけどね。でも感謝してるわ……私が動けないから色々迷惑かけてしまっているのだけど」
肩を竦ませながらそう目の前の女性が呟いた。やはり夫だったか、と瑛久は内心頷く。患者のプライバシーを訊くのは気が引けるがどうしても気になることがあった。
「お子さんもいらっしゃるんですか」
この答えによってはその人物が彼だという確定条件に近付ける。だが近付いたところでもしそうであるならば目の前の女性も関係者だということになり得るのだ。その場合今後注意が必要だが何分彼女は療養病床の患者だ。関係者であっても自ら動くことは難しい。否、だから彼を動かしているのかもしれないが。
するとベッドの上に座る女性がいきなりピースサインをこちらに向けた。その挙動に目を瞬かせているとふっ、と柔らかい笑みを浮かべた。
「息子が二人。最近会えていないけれど──元気にしてるかしら」
懐かしむようにそう言うと、その瞳の奥に面影を映し出すかのように目を細めた。
(二人……?)
思いもしなかった回答に瑛久は一旦口を噤む。どういうことだ、と考えようと思ったとき今度は女性から声がかかった。
「医師もご結婚されてるのね」
「え? あぁ──はい」
「あらあら。お子さんは?」
「娘が一人います。お転婆で大変ですよ」
薬指に嵌っている指輪を見逃さなかったようで今度はしばしこちらの話で盛り上がる。こう言った何気ない会話も患者との信頼関係を築くのに必要か、と自分に言い聞かせる。
「子どもはあっという間に大きくなっちゃうから──ちゃんと側で見ててあげてくださいね」
妙に説得力のある言葉に思わず声を詰まらせた。まるで彼女がそうであったかのように。
(いや……)
実際そうなのだろう。そうでなければこの説得力は生まれない。つまりは彼女の子どもはそれなりに年頃なのだと考えられる。だんだんと近付いてきた。だが今日はここまでだ。あまり一人の患者に時間をかけ過ぎると後で自分の首を締めることになる。名残惜しいが次の病室へ向かわなければ。
「それじゃあ何かありましたらコールして下さい」
「あら、もう行っちゃうの? またあなたがいらしてくれる時はあるのかしら?」
まるで子どものように残念がって眉を下げる女性に苦笑する。今日は本当に代打で来ただけだ。本来ならば病棟管理をする担当医がいる。だがこちらとしてもまだ彼女から聞きたいことはある。利害の一致、ということか。彼女は何も知らないだろうが。
「時折伺います」
「本当? 楽しみにしてるわね、櫻医師」
医師の訪問を楽しみしているとは。ただの健康管理のためではあるが一日中このベッドの上で過ごす彼女にとって、話し相手がいるということは貴重なのかもしれない。しっかりと名前も覚えられてしまった。
この若さで療養病床か、とふと思い至る。元気そうに見えても長期治療が必要な患者なのだ。それを忘れてはならない。
「では安静にしていてくださいね──星名さん」
その入院患者の名を呼ぶと、ベッドの上でニコリと微笑みを返した。
瑛久は病室から出ると一旦目を伏せる。そして呼吸を整えた後次の病室へと向かった。




