意志なき者
袖を通り抜ける風が妙に生温い。こんな時は良くないことが起こる。
菫はこれまでの経験からそのことを十分に解っていた。
教会の重い扉を開きながら彼女は息を吐く。身体が重いと感じるのはその前兆か。
ふと以前この場所で会話した少女の存在が脳裏に過ぎった。彼女とはここ半月程すれ違っている。前回来たときは随分思いつめていたようだったがその後大丈夫なのだろうかと。
「──……」
彼女は強い。そして同時に弱くもある。それは彼女が誰よりも優しいからだ。優しいから他人を傷付けることを良しとしない。結果、己で痛みを抱え込む。それがずっと気がかりだった。優しすぎる彼女に、果たして守護者が務まるのかと。
それでも、指輪が選んだのだ。彼女が守護者であるべきだと。ならば自分はそれに従うほかない。それが天命なのであれば。
あどけなく笑うまだ幼い少女。世界の命運を左右する鍵を守護するという使命は、子どもたちにとって酷なことだと解っている。それでも、誰かがやるしかない。そう理で決められているのだ。そして自分には、選ぶ権利はない。ただありのままを伝えるだけしか出来ることはない。
今、この世界は岐路にある。それを知る者は少ない。様々な思惑が動いている。だが自分に出来ることはない。自分は意志なき者なのだから。
瞬間、パキンと前方で何かが割れる音がした。同時に彼女の脳内にある情報が流れ込んでくる。不意を突かれ、菫は思わず眩暈のようなものに身体を屈ませた。
「……っ、──!」
礼拝堂の中央で目を見開き、浅い呼吸を繰り返す。
たった今、所有者が判明した。破壊の力を持つ、《闇の鍵》の所有者だ。
「そんな……!」
考えなかったわけではない。それでも前例がなかった。だからあるはずがないと思い込んでいたのだ。
所有者は守護者に守られるもの。だから所有者には自身を守る術を持たない。守護者には所有者を守れるようにと強い力が与えられるのだ。だがこれではまるで──。
「あぁ……主よ──!」
菫は顔を上げて正面の十字架を見る。
これが天命だと言うのですか。そう問いたくなってしまった。
守護者であり所有者。あまりにも過酷な天命。それを一人の少女が背負うなど。
「美都さん……っ!」
その運命を背負わされし少女の名をなぞる。
礼拝堂の前方にある、天使が描かれているステンドグラス。
そこにはまるで、全ての希望を絶つように真新しいヒビが入っていた。