薄明の空の色は
今までに感じたことのない苦痛だった。
「……っ! ああぁ──!」
抉られるような痛み、耐え難い苦しみが絶え間なく襲う。声を抑えることが出来ない。
自分の中から何か大切な物が無理矢理取り出されるような感覚。今すぐにでも逃げ出したいのに腕に固定された水晶の塊がそれを許さない。
美都は苦しさに顔を背け、表情を歪ませた。その様子を眺めながら初音は笑みを浮かべる。
「ごめんね美都ちゃん。苦しいよね。でももうすぐだから、ね?」
俄かに優しい言葉で彼女がそう呟く。しかしその言葉の中に本心は見られなかった。
虚ろな意識の中届いた声に奥歯を噛みしめる。抵抗することも儘ならず空の手を握り締めようとした。しかしそれさえも上手く力が入らず神経が硬直する。ただひたすらに苦痛ばかりが襲いかかってきた。
(──だめ、だ……)
意識が、遠退く。視界もぼやけてきた。呼吸すらも危うい。必死に抗ってきたがもはや限界に近かった。
苦痛を堪える美都の声も段々と小さくか細くなっていく。初音はそのときを今か今かと待ち望んでいるのだ。声がかき消えれば、心のカケラが出現する。その瞬間のために。
頭も身体も重くなり、もはやここまでだというときだった。
『ギャアァッ!』
と目の前に佇む宿り魔が声を上げてのたうった。
美都の胸に食らいついていた刻印が離れる。同時に苦しみからも解放され、そのまま重力に引かれるように項垂れた。それでも意識は朦朧としており、何が起こったのかすぐには理解が出来ない。呼吸を整えるように肩で息を繰り返した。
同じく予想だにしなかった出来事に初音も驚いた表情を浮かべた。今何が起きたのかと。美都を襲っていた宿り魔めがけて何かが飛んできた。その何かの出所を確かめるため、飛んできた方を向く。
「……これは予想外だわ」
苦笑いを浮かべてポツリと呟く。彼女の視線の先に立っていたのは──。
「その子を離しなさい」
スポット内に凛とした声が響いた。それは鈴の音のように意識の中にスッと入り込んでくる。項垂れたままだった上半身を、何とか力を込めて首をもたげた。ぼんやりと映る視線の先に見知った人物の姿があった。その人物は普段とは違う格好で立っている。
(や……よい、ちゃん……?)
虚ろな瞳で、その姿を確認する。彼女の手にはその姿に似つかわしくない物が握られていた。だから最初本当に弥生かどうかの判断がつかなかったのだ。手にしている弓に矢を番え、背筋を伸ばし真っ直ぐに初音を見据えている。
「まさか──あなたも守護者だったりするのかしら?」
初音が弥生に向かって問いかける。代わりに弥生は宿り魔に向け、構えていた矢を放った。寸でのところで初音がそれを阻む。そして問いかけに応じなかった弥生にキッと視線を投げつけた。
「困るのよね、勝手に邪魔されると」
「勝手なのはあなたのその行為よ。絶対に赦されることじゃないわ」
「別に赦されようと思ってないもの」
咎める弥生の言葉に甲高く嘲笑うと、初音はそう口にした。続けて矢を番えていた弥生も思わず身を竦める。その言葉通り、彼女の行動からは全く自省しようとする気が見えなかった。むしろこれが当然だと言わんばかりに堂々としている。その姿に気味悪ささえ覚える程に。
「あなたは人間なんでしょう⁉︎ どうしてこんなことをするの!」
宿り魔憑きの少女。初めて対峙する相手に、弥生は抱いた疑問を投げた。すると初音はつまらなそうに息を吐き、薄目のまま弥生を睨みつける。
「その質問は……この子から嫌という程聞いたわ」
言いながら項垂れたままの美都を示唆するように見遣った。尚も肩で息をし、苦しそうに俯いている。
「鍵が必要だからに決まっているでしょう? それ以外の答えはないわ」
「その為なら誰を傷付けてもいいと言うこと⁉︎」
「──くどいわね」
弥生の返しに若干の苛立ちを孕んだ声でポツリと呟いた。初音の目は据わっている。その眼差しに思わず肩を竦めた。およそまだ年若い少女がする目つきではなかったから。すると初音は手を前に掲げ、弥生に向かって気砲を放った。
「っ!」
彼女の行動に気付き、弥生は構えを解いて攻撃を避ける。再び初音と向かい合うと彼女は飽き飽きといった表情を浮かべ大きな溜め息を吐いた。
「鍵を持っているなら誰でも構わない。誰を犠牲にしても私には関係のないことよ」
その冷たすぎる声に息を呑んだ。彼女は本気だ。そう感じざるを得ない。彼女を改心させることは難しいと瞬時に感じてしまった。
すると初音はその反応を見越したようにふっと笑んだ。
「あなたはこの子に似てる思ったけど──この子よりは弱いわね。何もかもが」
まるで吐き捨てるようにそう言うと再び気砲で威嚇を始める。先程よりも間を空けずに繰り出される攻撃に弥生も防戦一方になった。武器を構えることが出来ず、気砲を避けることで精一杯だった。その姿を見て初音は薄ら笑いを浮かべる。
「見たところその守護者の力……そんなに使えないんでしょう? なら──」
「──⁉︎」
バツンという音がスポット内に響く。初音が空間を分断したのだ。弥生の周りを囲むようにガラスのような透明な壁が現れる。予期せぬ事態に弥生はハッと驚いて目を見開いた。
「私が作る結界はそんなに強くないけど、あなたにはそれで十分ね。守護者の力も大したことないのね」
「っだめ! 美都ちゃん!」
ようやく煩わしいことを終えたといった感じで初音が弥生に背を向ける。そして再び美都と向き合った。
壁伝いに弥生が美都の名を叫ぶ。このままでは、と言う焦りが声に現れていた。
「やよい……ちゃん──っ……」
意識の端で呼ばれた名前に、美都はか細い声で応えた。身体が重い。上手く呼吸することが出来ず、途切れ途切れに彼女の名を呟く。何が起こっているのか把握出来ない。弥生は一体どうなったのか。すると今度は程近くで初音の声が耳に届いた。
「さてと──それじゃあ再開しましょうか。いけるわね?」
『はい』
続いて人外の重く響く応答がされる。弥生との交戦中に英気を整えたようだ。離れていた宿り魔の気配が近付いた。再び迫り来る脅威に項垂れたまま顔を歪ませる。ただ、悔しいと。守護者である自分が、自分を守ることが出来ないだなんて。これまでもそうだった。対象者を守り切ることが出来ない不甲斐なさ。新しい力も上手く扱えず、初音に対して説得も出来なかった。それは自分が弱いからだと、そう感じる他ない。
力が入りきらない手を握りしめようとした。何も出来ないということが、こんなにも辛い。得体の知れない恐怖をただ受け入れるしかないのだ。
美都の前に再び宿り魔が立ちはだかる。気配は感じるのにもう顔を上げることが出来なかった。
『今度こそ楽にしてやろう──』
「っ! うああぁ……!」
制服のリボンが揺れる。宿り魔の刻印が胸の奥を抉るように食らいついたのだ。耐え切れず美都から悲鳴が上がる。
心のカケラは、心臓とは違う。普段は知覚出来ないものだ。しかしその機能は、精神を働かせるもの。つまり心のカケラを結晶化して取り出す行為は魂を引き剥がす行為と同等だ。だからこそ相応の苦痛を伴う。初音は十分にそれを理解していた。だが鍵が必要なのだ。もはやこの意識は執着に近い。理由などどうでも良くなる程には。
「──まもなくね」
対象とした少女の声が段々と小さくなってきた。これまで学校では唯一の「友人」として接してきた少女だ。あどけなく無垢な子。自分とは決して似つかわしくない。それでも彼女に惹かれた。それは恐らく何もかも違ったから。
「あ……っ、ぅ……あ……」
初音はその少女の胸元に目を遣る。心のカケラを確認するために。そして身を乗り出した。
「──……っ、は──あはは……!」
驚いて目を見開き、思わず乾いた笑いが出た。
長い苦痛を経て出現した、美都の制服のリボンの前に浮かぶ宝石のような物体。
既に意識を失くし、身体をぐったりとさせた美都にはもう見えていない。
見方によって変わる、薄明の空の色のような心のカケラ。その中に。
「ようやく見つけたわ──……!」
まるで光の中に守られるように、心許無く中央に浮かぶ銀色の物質。
初音はそれを己の目で確かめるとそう呟いた。
「闇の鍵の所有者……!」
◇
為す術なく、弥生は結界の中で口を押さえた。
まさか、そんな。あれが本当に? あんな心許無い小さなものが鍵だと言うのか。そしてそれが美都の中から現れるだなんて。
ぐったりと項垂れたまま微動だにしない彼女を見つめる。信じられるはずがない。守護者が所有者を兼ねるなど。
スポット内に初音の笑い声が響き渡る。弥生はまだ現実を受け止め切れず、小さく首を横に振った。
「なんて綺麗……」
噛み締めるようにそう言うと初音はゆっくりと美都の元へと歩を進めた。そして胸の前に浮いたままの心のカケラを大切そうに手に乗せる。まるで宝石のようなそれをうっとりと見つめて彼女は笑みを零した。
「──やっぱりあなただったのね」
蒼白とした美都の顔に触れる。核となる心のカケラを奪われた彼女の身体は動くことはない。もちろんその言葉も彼女には届いていない。ただ止まるか止まらないかの瀬戸際で呼吸を微弱に繰り返すだけだった。
弥生は透明な壁に手を当て、力無く俯く。目の前の事実を反芻しながら顔を歪ませた。あれが本当に鍵ならば、その鍵が良くない者に渡ってしまう。何よりも心のカケラを美都へ戻すことが出来なくなってしまう。それは彼女が目覚めなくなると言うことだ。それどころか──。
耐え切れず目を瞑った時、程近くで銃声音が耳を裂いた。ハッとして顔を上げると初音の手から心のカケラが零れ落ちたところだった。近くで動く人影に視線を向ける。
「四季くん……!」
間髪入れず銃を手にした四季が初音に発砲する。不意を突かれた彼女は、心のカケラを拾い上げることも出来ずその銃弾を避ける他なかった。舌打ちしながら距離を空ける。
「遅かったわねぇ。あなたの大切なお姫様は随分苦しんでたわよ!」
「──っ!」
四季を挑発するように、初音が高笑いを響かせそう言い放った。その間も手を止めることなく攻撃を続ける。その表情はもはや冷静さを欠いていた。目の先で項垂れたままの美都を見つけてしまったから。
「天浄清礼‼︎」
無我夢中で退魔の言を結ぶ。光を帯びた銃弾は初音の横で佇んでいた宿り魔を貫いた。直後宿り魔から断末魔が上がる。久方ぶりに耳にする仰々しいその声に弥生は肩を竦めた。
宿り魔の力によって拘束されていた美都の身体が自由になる。地面に倒れる手前で駆け寄った四季が彼女の身体を受け止めた。尚も銃口を初音に向けたまま彼は怒りの表情を彼女へ向ける。
「まぁとりあえずは、所有者が判っただけでも良しとするわ」
「なに……⁉︎」
「あら気付いてなかったの? その子の心のカケラをご覧なさいな」
初音の言っている意味が分からず耳を疑った。ハッタリかとも思いながら視界の端で捉えた落ちたままの彼女の心のカケラに目線を動かす。いつもと違うその輝きに思わず目を見張った。
「……!」
何だ、あれは。心のカケラの中に、何かがある。心音が一つ大きく鳴った。銀色に輝く物体を見つめる。まさかあれが。
「それが鍵よ。それも──闇の、ね」
その言葉に更に目を見開いた。
──闇の、鍵? その所有者が美都だと言うのか。
無意識に抱きとめたままの彼女の身体を支える手にグッと力が入る。理解が追いつかず目を白黒させた。理解出来るわけがなかった。何故なら美都は自分と同じ守護者なのだ。そんなことがあり得るのか。
「四季くん!」
「!」
弥生に名を呼ばれ、ハッとして敵である初音に向き直る。否、もう初音と言うべきではないのかもしれない。目の前に佇む少女はいつものようにキツネ面をつけていない。同じ学校の女子生徒だ。それも美都と親しくしていた友人の一人。四季はその少女に躊躇いなく引き金を引いた。乾いた音がスポット内に響く。しかしいつものように彼女はそれを飄々と交わし更に後方へと距離を取った。
「今日のところは退くわ。またチャンスはありそうだし。彼女とちゃんとお別れも言いたいでしょう?」
「っふざけるな!」
クスクスと冗談混じりで笑う少女に向かって続けて発砲する。彼女にとっては冗談ではないのかもしれない。そのことが更に四季の神経を逆撫でた。
「それじゃあ、また明日学校でね。向陽くん」
ニヤリと口角を上げそれだけ言うと、少女はそのままスポットの闇に溶け込むようにして姿を消した。奥歯を噛み締め一拍彼女が消えた方面を見つめる。だがそこには既に闇しかない。四季は視線を、抱えたままの美都へと移した。
自分が駆けつけてから、美都は一度も身動きをしていない。それどころか呼吸さえしているか怪しい。それは彼女から心のカケラが取り出されたからだ。その事実に胸が詰まる思いだった。
守れなかった。あんなに近くにいたのに。後悔だけが自分を苛む。否、そんなことよりも──。
目の端に映っていた心のカケラを弥生がそっと拾い上げた。初音が消えたことで弥生を隔離していた壁も消えたらしい。彼女はそれを手にして二人の元へと駆け寄る。
「これ──……」
そう言って差し出す弥生の手は小刻みに震えていた。彼女の手に包まれている美都の心のカケラを改めて直視する。角度によって色を変えるそれは紫や薄桃色に見えた。澄んだ宝石のように輝くカケラの中央に浮いている銀色の物体。紛れもなくその単語の形をしている。
「っ……これが、鍵──なんですか……? 美都が、本当に──?」
信じがたい。信じられない。信じたくない。ずっと探していた所有者が本当に美都なのか。そんなことが受け入れられるわけがない。彼女にどう説明すればいい?
弥生は四季が呟いた言葉に何も言えずただ顔を歪ませた。彼女も同じ思いだったからだ。嘘のような真実が、ただ苦しかった。今からでも嘘だと思いたい。それでも少年に抱えられている美都の顔が蒼白で、これが事実なんだと受け止めざるを得ないのだ。
「──美都ちゃんに、戻してあげて」
このままでは彼女の身体が危ない。何よりもぐったりと項垂れる美都の姿をこれ以上見ていたくなかった。
ハッとして四季も思考を戻す。手にしたままだった銃を指輪に戻し、美都の身体が仰向けになるよう体勢を変えた。改めて正面から見る彼女の顔に息が詰まる。まるで正気を帯びていないその表情に心が苦しくなった。これが、自分の不甲斐なさが招いた結果だ。
美都の小さい肩を抱きながら顔を歪める。すると弥生がゆっくりと膝をつき、手に包んでいた彼女の心のカケラを制服のリボンの上にふわりと落とした。カケラはいつものように微かな光を放ち、少女の胸の中へと溶け込むように消えていく。例え鍵があっても戻り方は同様なのだ。
ようやく美都の顔色が、血が通い始めたように戻っていく。呼吸音も先ほどより聞こえ始めた。心のカケラがいかに身体の機能を左右するものかが解るようだ。
小さく呻き声が聞こえる。彼女の意識が戻り始めた証拠だ。一度安堵の息を漏らした後、四季の表情は再び強張る。どう、彼女に伝えれば良いのか。必死に考えを巡らせた。
風が強く吹いた。祈るようにしてその場で佇んでいた凛は顔を上げる。するといつの間にか目線の先に数人見慣れた人影が見えていた。
「!」
何も発することなく、その場に座り込んでいる彼らに駆け寄る。四季に抱えられているのは紛れもなく親友の姿だった。眠っているかのように動かない美都の顔を見て一気に不安が増す。一体何があったのかと。だがそれを問いたくとも、肝心の四季の表情が掴めない。ずっと俯いているからだ。
弥生は凛が近付いてきたことに気付き立ち上がって場所を譲る。彼女がずっと心配していると知っていたからだ。だがこの後の状況によっては更に彼女は動揺することになるだろう。
「弥生」
近くで呼ばれた声に応じるように目線を動かすと瑛久の姿を見つけた。やはり彼も駆けつけてくれていたのかと安堵の息を漏らした後、目を逸らして彼の元へとぼとぼと向かう。彼女のその様子から只事でないと察知した瑛久は気遣うように声をかけた。
「何があった──?」
「……っ!」
自分からは何も言うことが出来ず、俯いてただ唇を噛み締める。間も無く美都が目を覚ますはずだ。そうすれば四季が彼女に真実を告げるだろう。その真実が酷なものであると知ってしまった自分には、言葉を紡ぐことが出来なかった。ギュッと手を握り締める弥生を見て、瑛久は無言で彼女の頭に手を乗せる。相応のことがあったのだろうと労いの意味も込めて。
「──、ぅ……」
四季の腕の中で、美都が小さく声をあげた。瞼を震わせてゆっくりと目を開く。
「美都……!」
ようやく身動きをした少女の名を、凛がなぞった。未だに状況は掴めていないが良かったと安堵の息を吐く。
名を呼ばれた美都はぼんやりとしたまま静かに呼吸を繰り返した。現実を確かめるように視線を目の前に置くと、四季の存在がすぐ側にあることに気付く。
「しき──……、凛……?」
あぁ、自分は抱えられているのかと少しずつ把握した。目の前に四季の顔がある。そして視界の端から凛の声が聞こえた。だんだんと戻ってくる意識に逆らうことなく、重い頭をもたげる。くらりと眩暈がしてこめかみに手を当てた。一体何があったんだっけ、と意識が途切れる前の記憶を手繰る。
この公園で再びスポットに巻き込まれた。なぜ、誰が。そう考えたときにハッと思い出した。
「──っ……!」
目を見開いて身体を起こす。そうだ、あの時。自分をスポットに引き込んだのは、衣奈だ。頭の中を整理しなければ。衣奈が初音だったのだ。スポットに引き込まれた後、彼女と対峙した。しかし自分は捕まって、それで──。混濁とした意識の中弥生の姿が見えたのは覚えている。問題はその後どうなったのかだ。
「衣奈ちゃん……──初音は……⁉︎」
ここはスポットではなく現実だ。ならば如何様にしてスポットから出たのか。何にしろ四季が宿り魔を退魔してくれたことは確かだ。しかし衣奈はどうなったのかが気がかりだった。
突然クラスメイトの名が出てきょとんとする表情を浮かべる凛に対して、四季は俯いたままだった。その様子に首を傾げる。
「四季……? どうしたの──?」
何も答えない彼にその理由を訊ねた。明らかに様子がおかしい。とにかく一旦体勢を整えようと、支えてくれている四季の腕から身体を離した。しかし上手く力が入らず立ち上がるまでに至らない。仕方なく膝をつき正面から彼の顔を覗き込もうとした。
「し──、っ……⁉︎」
「────お前だった」
四季が思いきり美都の肩を抱き寄せる。その行動に驚いていると耳元でポツリと彼が呟いた。一瞬垣間見えた彼の顔はとても苦しそうで。何のことを言っているのかよく分からなかったが決して良いことではないのだということは察知した。一体自分がどうしたのか。すると四季が次に口にする言葉で更に混乱することになる。
「──鍵の所有者」
「……え?」
その単語を耳にして目を瞬かせる。彼は今何を言ったのかと。鍵の所有者がどうしたのか。上手く結びつけることが出来なかった。同じように凛も目を白黒させている。
側でその様子を見ていた弥生は更に顔を歪ませた。彼が彼女に告げる、その真実に。瑛久はそこまで聞いて理解したようだ。だから彼らから目を逸らしたのだろう。苦い顔をして口に手を当てている。
美都の肩に置かれている手に力が入った。肩越しに彼の顔があるせいで表情が見られない。一気に不安が押し寄せる。果たしてこの心臓の音は一体どちらのものなのか。
耳元で息を吸う音が聞こえる。そして四季がようやく口を開いて言ったことは。
「美都が────闇の鍵の所有者だったんだ」
心臓がドクンと一つ大きく鳴る。
美都は彼が放ったその言葉に、ただ息を呑んで目を見開いた。
────闇の鍵の、所有者?
「わたし、が──……?」
声が上ずる。上手く発することが出来ない。
その事実を飲み込むことが、出来ない。
ずっと探していた鍵の所有者。それが──自分だったのだ。
◇
「まだかなぁー……」
陽が傾く中、リビングにある机に突っ伏しながら那茅はポツリと呟いた。
実は彼女にとって留守番という行為は初めてだった。広い部屋に自分一人なのが不思議な感じがするようだ。
弥生が幼子一人に留守番を任せた理由。それはもちろん美都のことであった。しかし那茅はそのことを知らない。ただ母親から慌てた様子で「しばらく良い子で、一人で待てる?」と問われたため彼女の期待に答えたくて思いきり肯定したのだ。今になって「しばらく」とはどれくらいなのか考えるようになった。いつまで待てば弥生は戻ってくるのかとやきもきしてしまう。
「! そーだっ!」
ただ待つことにも飽きてきたのでお絵描きをしようと思いついた。テレビラックの下に仕舞ってある画用紙とクレヨンを引っ張り出す。
幼子は鼻歌を歌いながら画用紙に絵を描き始めた。大好きな父と母。そして隣に住む歳の離れたともだち。今週末にはそのともだちのパーティーがある。
「たのしみだなぁ!」
画用紙には机を囲む楽しそうな皆の姿が絵が描かれていく。
那茅は無邪気に、数日後の未来のことを考えながら微笑んだ。