街の中では【他者視点】
エリアナが目を覚ましたその日の出来事だ。
街の平民の男の子、マルコは戸惑っていた。
「ママ、パパ、何を言っているの?」
「マルコこそ何を言っているの?お前も聖女様の誕生に大喜びしていたじゃないの。――聖女、デイジー様の誕生を」
違う、と知っていた。
デイジー様とか呼ばれるその女の人が聖女なわけがない。
だって、昨日まで聖女はエリアナ様だって、みんな言っていたじゃないか……。
マルコは確かに喜んだ。昔から憧れていた絵本の中の聖女様。
本物の聖女様が現れたんだって!素敵!どんな人なんだろう?
そして、みんなの話を聞いて思い出した。
もしかして、その聖女のエリアナ様って、あのお姉ちゃんじゃない?
(少し前、広場の近くで転んで怪我をした僕の痛いのを治してくれた、綺麗なお姉ちゃん)
マルコはよく覚えていた。だってすっごく嬉しかったから。
蜂蜜みたいな色のふわふわの髪の毛に、紫色の目がキラキラしてた天使みたいなお姉ちゃん。一瞬で大好きになった。マルコの初恋だ。だから間違うわけがない。ありがとうって言って最後にほっぺにちゅうをした。その日の夜はドキドキしてなかなか眠れなかった。
天使じゃなくて、聖女様だったなんて!
同じ髪色と同じ瞳の色の貴族の女性は全くいないわけではないが、平民のマルコは他に知らなかった。あんなに綺麗な色のあんなに綺麗な女の人は知らなかった。
だから聖女様がどんな人なのか聞いたとき、あのお姉ちゃんに違いないと思った。
憧れの聖女様が初恋のお姉ちゃんだと気付いて、マルコの胸は高鳴った。
なんだか自分のことのように誇らしくて嬉しかった。
それなのに……。
昨日までエリアナ様、エリアナ様と嬉しそうに言っていたはずの両親は、今日になって急にデイジー様と言い出した。
話してる内容は全く変わらないのに、突然名前だけ入れ替わってマルコは心底驚いた。
なんで?そんなのおかしいよ!
それなのに、何度言ってもママもパパもマルコがおかしなことを言っているような顔をする。その困った顔に、マルコはどんどん怖くなった。
おまけにマルコに聞こえないようにこっそり両親が話していたのを聞いてしまった。
「マルコが言ってるエリアナ様って、悪役令嬢って言われている例のご令嬢のことじゃないのかい?なんだってあんな悪女のことを聖女様だって言い張るんだか……」
「そのご令嬢、デイジー様に嫌がらせをしていたって噂のだろう?とんでもない人だよなあ」
『あくやくれいじょう』がどういう意味かはマルコには分からなかったけれど、両親があのお姉ちゃんの悪口を言っているのは分かった。
悲しくて悔しくて怖くて、怖くて、マルコは家を飛び出した。
******
その日も孤児院を訪問していたソフィアは困惑していた。
「何が起こっているの……?」
ソフィアが孤児院についたとき、ちょうどこれから朝のお祈りの時間と言う頃だった。
「クッキーのお姉ちゃんも一緒にお祈りしよう」という子供たちの可愛いおねだりに頷き、孤児院の中に作られた小さな礼拝堂に入り、席に並ぶ。
そして、初めて異変に気が付いた。
孤児院の院長を兼任するシスターが主導して子供たちとお祈りを捧げる。
「今日もまずは、悪い大魔女を倒してくださった、聖女様への感謝のお祈りを捧げましょう。さあ、私に続いて。聖女、デイジー様へアネロ様の愛のご加護がありますように」
(は……?)
「「「聖女、デイジー様へアネロ様の愛のご加護がありますように」」」
思わず絶句し、硬直したソフィア。
(デイジー・ナエラスが聖女?冗談でしょう?)
あの日、もちろんソフィアも入学式準備のために学園にいた。
安全に守られた校舎の中からだったとはいえエリアナが大魔女を討った瞬間もこの目で見たし、周りの生徒もそうだった。神官が聖女の認定を正式に宣言するのも確かに聞いた。
これまで聖女として扱われ、聖女としての待遇を甘んじて享受していたデイジー・ナエラス。
周りの異常な行動や、彼女を崇めるような雰囲気を訝しく思っていたソフィアは、大魔女がまっすぐに彼女を狙うような動きをしていたことにも気づいていた。デイジーは大魔女と関係があったのでは?と疑ってもおかしくない状況。実際ソフィアは、デイジーは怪しいと思っていた。
ジェイド殿下と共に連行されるかのようにその場から連れ出されたデイジー。
どんな処罰が下されることになるのかと、真実の解明を待っていたつもりだったのに。
(なのに、これはどういうことなの??)
驚き、すぐに孤児院から出て神殿へ向かったソフィアはその入り口で立ちすくみ、今度こそ呆然とした。
つい2、3日前にここに来たときは間違いなくエリアナの聖女お披露目のために神殿は準備していたはず。それなのに、この日は全員が当たり前のようにデイジーが聖女と認識しているようだった。
学園で感じていたデイジーを取り巻く周りの対応の異常さと全く同じだった。
(異常よ。それは間違いない。異常なのよ。デイジー・ナエラスは何かあるのだわ)
そう確信していても、ソフィアには何もできない。
何をすればいいかも分からないし、どうしても自分の行動で傷ついたサマンサ・ドーゼス伯爵令嬢の顔がちらつくのだ。
その時、蒼白な顔で立ち尽くすソフィアに声を掛ける者がいた。
「ソフィア様……?」
振り向いた先にいたのは、神官見習いの男爵子息ミハエル。
ソフィアが神殿や孤児院に通い始めて、よく話しかけてくれるようになった人物だ。
「まさかあなたも『聖女デイジー様』だなんて言いださないわよね」
どうせこの人も他の神官たちと同じく、頭がおかしくなってしまっているに違いない。
ソフィアはそう思ったからこそ、ミハエルを強く睨みつけ、皮肉を込めてそう言った。それはうんざりしたソフィアの八つ当たりのようなものだったが、それを聞いたミハエルはただでさえ悪かった顔色をさっと変えた。
「ソフィア様……あなたは正気のままなのですね?」
その言葉でソフィアはミハエルも自分と同じように異常に染まっていない1人なのだと気が付いた。よかった、そう思った。ミハエルのたった一言が、自分だけが取り残されたような気分になっていたソフィアの心をどれほど救ったか。
その時、出入り口に立ちすくむ2人の前に小さな男の子が現れた。
その子はボロボロと涙を零しながら必死の様子で2人に向かって言いつのった。
「うぅ、せ、聖女様じゃない……ひっく……デイジーなんて人は聖女なんかじゃない!本物の聖女様は、エリアナ様っていう天使みたいな優しいお姉ちゃんなんだっ!!!」
そう叫んだ後、男の子は声を上げて泣き出した。
ソフィアは慌ててその子に駆け寄り、そっと抱きしめた。
(この子も、まともなまま……異常な周りに気付いたのならさぞ怖かったでしょう)
男の子は、マルコだった。
勢いで家を飛び出した後、どこへ行ってもデイジーへの賞賛や、エリアナを中傷する言葉が聞こえてきて怖くてたまらなくなった。何が起こっているのか、大人が何を言っているのかきちんとは分からなかったけれど、全部がおかしいのだということは分かった。
いつだって大人は正しいと思っていた。
笑顔でおかしなことばかり言う大人が怖くてたまらなかった。
恐怖に飲み込まれそうな中、なんとか神殿に辿り着いた。
どうしても諦められなくて、他の大人に言ったようなことをそこにいた2人に向かって叫んだ。
小さなマルコの心はそこで限界を迎えて涙が止まらなくなった。
他の大人は真実を口にすると、悪魔を見るような目で自分を見たのに、そこにいた2人はそんなことはなかった。
抱きしめられながら、マルコはエリアナに抱きしめてもらった時のことを思い出していた。
ソフィアは少し落ち着いたマルコを抱きしめ続けながら、途方に暮れる思いだった。
エリアナ・リンスタード様……聖女様。
この異常な世界を、どうか元に戻して……。
ソフィアは自宅で療養しているエリアナを思ってそう祈った。
祈ることしか、できなかった。




