優しい殿下
朝食の席に向かうと、お兄様が待ってくれていた。
少し時間が遅くなってしまったので、お父様は仕事に出た後で、お母様の姿もなかった。
「エリアナ、元気になってよかった。あまり無理をしてはいけないよ」
私に甘いお兄様が心配そうに顔を顰め、髪をなでてくださる。
「ありがとうございます、お兄様」
お兄様の手が温かくて安心する。
この手はいつも私を守ってくれていた。
婚約破棄の、時だって。
お兄様と話をしながら朝食をとり、自室に戻る。
熱も下がり、ようやく落ちついた私は頭の中で情報を整理することにした。
とは言っても、現時点で分かることなんてほとんどない。
まず、やはり時間が巻き戻ったとしか思えないこと。
学園の入学が15歳で、婚約破棄を告げられた卒業パーティーの頃は17歳。
およそ3年間遡ったということになる。
夢だと片付けるには、3年の時は長すぎた。
そして、リッカや両親、お兄様の反応を見るに、今のところ逆行前の記憶を持っているのは私だけのようだということ。
しかしこれについては他にも記憶を持ったままの存在がいる可能性は大いにあるので、気を付ける必要がある。
なぜ時間が巻き戻ったのか、どうして私に記憶があるままなのか、何も分からない以上むやみに私の身に起こったことを話すべきではないだろう。
――気になるのは、熱に浮かされて見た夢。
あれはただの夢だったのか…。
いや、夢ではあるのだけど、何か意味があるような気がしてならない。
ほとんど話したことのなかったテオドール殿下の、意味深な言葉がどうしても気になる。
聖女とは、何か……。
聖女として神殿に認定され、ジェイド殿下の寵愛を得ていたデイジー。
ただ、聖女の伝承にはいろいろと謎が多い。そこに何かがあるのか?
そもそも、ジェイド殿下がデイジーに傾倒していく姿を見るのが辛くて、途中からはあまり深入りしないようにしていたこともあり、実は彼女のことをあまり知らない。
最初こそ諫めてはいたものの、いつしかそれも止めてしまった。
私は、私の身に起こったことの理由を、知りたいと思っていた。
入学式が終わり、本格的に学園が始まるまでに1週間の時間がある。
2日寝込んでしまったため、あと5日だ。
5日で何ができるだろうか。学園が始まった後はどう動くべきか。
考えなければならないことは山積みだ。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
ベッドの上で考え込んでいた私にリッカが声をかける。
「ごめんなさい、大丈夫よ。どうかしたの?」
「はい、第二王子殿下がお見舞いに見えています」
リッカは嬉しそうに殿下の来訪を告げた。心臓がどきりと音を立てる。
時を戻る前、最後に見た冷たい目が思い浮かぶ。
随分長い時間、私は殿下に冷たい態度をとられ、苦々しい表情ばかりを向けられていた。
「まあ、ありがとう!すぐに準備するわ」
しかし、会わずにいることはできない。精一杯嬉しそうな顔を作って返事をした。
ドレスに着替え、簡単に身支度をし、殿下のもとへ急ぐ。
客間で待っていた殿下は、私の姿を見ると笑顔で立ち上がった。
「エリアナ、元気になったみたいで良かった。調子はもういいのかい?」
「はい殿下、わざわざありがとうございます」
殿下が困ったように笑う。
「殿下などと。いつものようにジェイドと呼んでくれ」
その言葉を聞いてぎゅっと胸が痛む。
巻き戻り前、殿下に言われたのだ。ある時突然「今後は名で呼ぶのは控えてくれ」と。
学園で他の生徒の手前そのようにおっしゃるのだと自分に言い聞かせたけれど、思えばデイジーは名で呼ぶのを許されていた。必死で気づかないふりをしていたものの、そういうことだったのだと思う。
「……ジェイド様」
俯きそうになるのを堪えて声に出すと、殿下は満足そうに頷き、私の手を引いて自分の隣に座らせた。
扉の横にはリューファス様が控えていた。彼は殿下の乳兄弟で騎士でもある。将来は近衛として殿下をお支えするのだろう。
「入学式の後から体調を崩したと聞いて心配していたんだ。良くなったと聞いてすぐに来てしまった。本当にもう大丈夫かい?」
「ええ、もうすっかり良くなりましたわ」
「それならよかった。無理をしてはいけないよ。学園で何かあったらいつでも私を頼ってくれ。そうだ、リューファス」
殿下に声をかけられたリューファス様が他の護衛から何かを受け取って戻ってくる。
その手には小さな花束。
「王宮の庭園から選んできたんだ」
「まあ、殿下ご自身で?」
花束を受け取る。色とりどりの花が美しい。
昔はいつだって殿下から頂く花束は一色で揃えられていた。こんな鮮やかなものをいただいたのは初めてだ。
私の手を優しく握ったままの殿下の翡翠の瞳は、温かさを持ってこちらを見つめている。
こみ上げるものがあって、涙が出そうだった。
また、こんな風に殿下の優しい微笑みを向けてもらえる時が来るとは思わなかった。
「…エリアナ?」
私に久しく向けられることのなかった優しい声色に、つい堪えきれず涙が零れた。
驚いたように息をのむのが聞こえるが、顔を上げることができない。
その時、ふいに温もりに包まれる。気づけば私は殿下に優しく抱きしめられていた。
「ごめ、なさい…」
殿下は何も聞かず、ずっと私の髪をなで抱きしめ続けてくれた。
顔を上げられず、殿下の胸に顔を埋め泣いた。
その後しばらくそうして殿下の腕の中で泣き続けた。
私が泣き止んだ頃に殿下は帰って行かれた。なんでも、私の体調が心配で執務の合間に無理やり時間を作り会いに来てくれていたらしい。
最後まで、私がなぜ急に泣いたのか聞かずにいてくれた。
確かにこの頃の殿下はいつだって私に優しかった。殿下にしてみればいつものように私を甘やかしてくれただけだろう。
だけど、時を戻ったばかりの私の体感では随分久しぶりに触れる殿下の優しさ、愛だった。
殿下が帰って行かれた後も何度も思い返しては涙がこみ上げるのを押しとどめるのが大変だった。
抱きしめてくれた温もりも鮮明に思い浮かべることができる。
巻き戻る前の、あの悪夢のような日々は、やはり文字通りただの悪夢だったのではないか。
長い長い悪い夢を見ていただけではないか。そう思いたくなってしまう。
そんな風にしてやっと気持ちが落ち着いた頃。
「エリアナお嬢様、またお客様がお見えですが、いかがいたしましょうか…?」
涙は止まったものの目を赤くした私にリッカが控えめに尋ねてきた。
私の返事を待たずに、リッカの向こうから姿を見せたのは、カイゼルだった。