1:新学期
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4月になった。
コーキは大学三回生に進級した。
進級したと言っても特に何かが変わるわけでもないのが大学というものなのだが、もう二年もこの町で過ごしたのかと思うと、いささか感慨深い。
二年間大学で勉強して、果たしてどれほどのものが身についたのだろうか?
そんなことを考えると暗澹たる気持ちになってしまう。
「すみません兄さん、遅くなりました」
声がした方を振り向いた。
そこには、みのりの姿があった。
落ち着いた緑色のツーピースのドレスに、薄いジャケットを羽織ったみのりの姿はひどく大人びて見えた。
「すみません兄さん、これから同級生になる方たちに捕まってしまって、なかなか抜け出せませんでした」
みのりが待たせたことを詫びる。
コーキは首を横に振った。
「僕よりそっちを優先した方がいいんじゃないか? 4年間一緒に過ごすことになるのかもしれないんだよ?」
「4年間あるなら最初の一日くらいすっぽかしても大丈夫です。それに、用もないのにわざわざ兄さんに来てもらったのは私の方ですから」
みのりの背後をがやがやと新入生たちの一団が通り過ぎる。
着慣れないピカピカのスーツを着た一回生たちの顔はこれから始まる大学生活に対する期待と不安できらきらと輝いており、まるで自分がひどく場違いな場所にいるような感覚を抱かせた。
実際、三回生にもなって、みやこめっせ――入学式の会場にまで足を運んでいるのは、サークルの勧誘以外だったら自分くらいかもしれない。
「兄さん?」
「いや、何でもないよ」
みのりは不思議そうな顔をして首を傾げた。
コーキは気を取り直し、優秀な従妹に手を伸ばした。
「とりあえず、入学おめでとう」
「ありがとうございます」
みのりはまぶしい笑顔でコーキの手を握りしめた。
みのりは無事大学に合格した。
「まあ落ちる心配はしていませんでしたけれどね」
みのりがうそぶくが、みのりの場合は案外本気でそう信じているのかもしれなかった。
「なんにせよ、受かってよかったよ」
「そうですね。これで私は正真正銘兄さんの後輩です」
「え? ああ、確かにそうなるね……これからは先輩って呼ぶ?」
「先輩」
間髪入れずにみのりは言った。
呼ばれ慣れていない呼称は着慣れない服のようにどこかくすぐったく感じた。
それはみのりも同じようで、
「……なんだか変な感じです」
と、呼んだ本人が神妙な顔をしていた。
「兄さんは兄さんなので、やっぱりこれからも兄さんと呼ぶことにします」
というか正確には従兄なので、兄ではないのだが、コーキは細かいことは突っ込まなかった。
「とりあえずご飯食べる? おごるよ」
「え」
年若い女性は目を輝かせてコーキを見る。
意外と単純だなあ、とコーキは微かな笑みを浮かべた。
2
大学近くの洋食屋でランチを済ませ、コーキはさっそく切り出した。
「それで、そろそろ本題に入っていいかな」
「本題? ランチの後はコーヒーにするべきか、紅茶にするべきかと言う議題ですか?」
「そうじゃなくて……例の事故物件登録サイトについて」
コーキは事務的な声音で切り込んだ。
みのりは少しだけ表情を減らし、それから黙って頷いた。
二月の終り、コーキとみのりはある事故物件登録サイトに、未来の事故に関する物件が登録してあることに気が付いた。
気になって「予言」(書き込みだから、「予書」とでも書いた方が正しいのかしれない)が正しいのか確かめに行ったコーキたちは、予言通り事件が発生する場面に立ち会った。
予言は正しかった。
事件の後、みのりはコーキの住む下宿に新しい予言が書き込まれていることに気が付いた。
予言通りなら5月8日にコーキは死体となって発見されるらしい。
いやはや、困ったものである。
「困ったものって、兄さん」
とりあえずざっくり現状をまとめると、みのりは非難するような目でコーキを見た。
「現状を正しく認識しているのですか? このままだと兄さんは来月の頭には死んでしまうのですよ?」
「まあ、予言が正しいならそうなる」
コーキはあっさりと頷いた。
呆れたようにみのりが言う。
「じゃあなんでそんなひょうひょうとしていられるのですか?」
「なんでって、別にまだ具体的に何か被害を受けたわけではないからね」
あれから一月が経過した。
あたりまえかもしれないが今のところ、コーキの周りでは特に変わった出来事は起こっていない。
「本当ですか? ラップ音が鳴ったり、夜中に変な声が聞えたりしていませんか?」
「うちの安下宿は壁も薄いし夜中に声が聞えるなんてしょっちゅうだよ……でもそういうのも含めて、特におかしなことは起こっていないと思う」
「そうですか……」
みのりは残念そうに肩を落とした。
なぜだろう。
ラップ音が起こっていた方が良かったのだろうか。
気を取り直したみのりは続けた。
「でも、だからって安心はできません! 今はスランプでクールなライムが思いつかないからラップバトルを挑めないだけかもしれません!」
「ラップってそっちか」
「あるいは兄さんを呪っている霊がただ単に奥ゆかしいくてラップ音やポルターガイストを遠慮しているのかもしれません!」
「遠慮するくらいなら呪いなんてやめればいいんじゃないかな」
「そんなことしたら幽霊の存在意義がなくなるじゃないですか!?」
みのりが愕然としてコーキを見る。
なぜそこまで驚けるのかコーキには分からなかった。
というか幽霊の存在意義ってなんだ。
「だいたい、別に犯人が霊って決まったわけじゃないだろう」
コーキは呆れたようにみのりに言った。
「でも兄さん! 未来の不幸を予言するなんてきわめて霊的な現象だと思いませんか?」
「そうかな。予言って聞くと件とか、妖怪のイメージの方が強いけど」
「妖怪が事故物件サイトなんてハイテクなもの使うわけないじゃないですか」
「それだったら幽霊だって同じような物だ」
「最近の若い幽霊ならネットどっぷりでもおかしくないはずです!」
「確かに……」
それはそうかもしれない。
コーキは妙なところで感心した。
「「確かに……」じゃないですよ……」
みのりはへにゃへにゃとテーブルの上に突っ伏した。
コーキは何だか申し訳ないような気持になった。
コーキのことでここまで本気で心配してくれているのに、当の本人にまるで危機感がなければみのりだって張り合いがないだろう。
けれど、コーキにはどうしてもみのりのような危機感を抱くことが出来なかった。
外は春で、桜はゆっくりと散っていて、空は青いのに、来月死ぬなんて言われても、正直信じられない。
もちろん事件の直後は驚きはしたが、ひと月も安穏と過ごしているとその驚きもだんだんと薄らいでいく。
あの日のことは、全部、悪い夢だったんじゃないか。
そんな風に感じてしまうのもある意味仕方がないだろう。
「それで、兄さん……これだけ落ち着き払っているというのなら、それなりに対策は考えているのですよね? 何も考えていないのでしたら、さすがの私も怒髪天を突きますよ?」
この従妹が怒髪天を突く様子はそれはそれで見てみたい気もしたが、これ以上機嫌を損ねてしまうと、来月になる前に僕の死体が五条河原にさらされることになってしまうかもしれない。この時代に近藤勇みたいな最期は避けたい。
それにこの一か月全く何もしてこなかったわけではなかった。
「え、本当ですか?」
コーキがそう言うと、みのりは驚いたようにコーキを見た。
「こんなことで嘘を言っても仕方がないだろ」
「いやまあそうなのですけど、なんだかすっかり私が空回りしている感じだったので……それで、何をしてきたんですか? 神社でお払いですか? それとも著名な霊能力者に連絡を取ったり?」
みのりは期待に満ちた目でコーキを見る。
コーキは苦笑いを浮かべた。たぶんみのりの期待には応えられないだろう。
「そういうのじゃなくて、とりあえず、あのサイトがどんな風に運営されているのか調べてみたんだ」
「サイトの運営ですか?」
みのりがちょこんと首をかしげる。
そういう芝居がかった仕草がいちいち絵になる女性なのである。
彼女のような女性がうちの大学に入るのは大変珍しい。
向学心に燃える学生に貴重なサンプルとして捕獲されなければいいと切に願う。
「運営と言うと、ウェブページの代表とか、そう言うのですか?」
「それも含めて、もう少し広めに調べてみた」
コーキは何食わぬ顔で頷いた。
「誰が代表で、どこにサーバがあるのか。どうやって事故物件を登録するのか、他にどんな事故物件が登録されているのかとか、そういうの」
コーキはカバンからA4のキャンパスノートを取り出しながら続けた。
「ていうか、僕も事故物件を登録してみたんだ」
「まあ」
みのりは目を大きく見開いた。
きっといかがわしいサイトに関わるなと言いたいのだろう。
普段だったら同意しないこともないコーキだが、今は場合が場合である。
道徳にはしばらく目をつむってもらうしかない。
「それで分かったんだけど、このサイト、本当に誰でも物件を登録できるんだ」
「誰でも? 私にもできますか?」
「うん」
「管理人の証人とかはいらないのですか?」
コーキは首を横に振った。
みのりは再び、「まあ」と言った。
今度は呆れたように言い方だった。
「て言っても、削除申請が出されて、登録した事故物件が新聞とかニュースサイトで確認できないなら、すぐに削除されるみたいだけど」
「そんなのは当たり前です」
「それからもう一つ確認できたことがある。これは結構重要なんだけど、未来の事故は登録できないみたいだ」
コーキはみのりの顔を見た。
「別に驚かないみたいだね」
みのりは当然という顔でコーキを見返していた。
「だって、そんなの普通のサイトなら当たり前のことじゃないですか」
コーキは頷いた。
それは確かに当たり前のことだった。
最初から嘘と分かっているデータを載せる意味はあまりない。
それどころか明らかに嘘の情報が掲載されているようなサイトは信用されなくなり、価値を減じてしまうだろう。明白な嘘は弾くように設定するのが自然だと思われた。
「だけど、当たり前のことを当たり前にしてくれるサイトだって知ることは結構大事だと思う。それに、事実として未来の日付の事故が掲載されているわけだし」
「それはそうかもしれませんけど……でも、未来の事故が掲載できないなら、この間の死体や兄さんの家の予言はいったいどうやって掲載したのでしょうか? やっぱり心霊現象だからサーバーの設定も通用しないのでしょうか?」
みのりの言葉にコーキは首を横に振った。
「いや、そう断定するのは早すぎる。僕みたいな普通の利用者は出来なくても、例えば、管理人やそれに近い権限を持つ人なら出来るかもしれない」
「つまり管理人が犯人?」
「いや、それもやっぱり早計に過ぎるよ。だいたい、そんなこと管理人がする理由が分からない」
「それもそうですね」
「それに、多分だけど管理人はそんな愉快犯みたいなことはしないんじゃないかな……というのも、実はこの間、管理人に連絡してみたんだ」
「え、なんてですか?」
「未来の事故物件が掲載されていますよって通報するため」
「それはまた、直截ですね……ということは、今、兄さんの部屋についていた火事マークは消えているということですか……あれ?」
自分のスマホを操っていたみのりは不思議そうな顔をしてコーキを見た。
「兄さんの部屋の火事マーク消えていませんけど」
「うん」
コーキは頷いた。
「消してもらえなかったのですか?」
みのりが問う。
「いや、消してもらえたよ」
「……一回消したのに再び現れた?」
コーキは首を横に振る。
みのりは怪訝な顔でコーキを見た。
「どういうことですの?」
「通報したのは僕の部屋についてじゃないんだ」
「……」
みのりはその言葉の意味を掴みあぐねているようだった。
コーキはあっさりと答えを告げた。
「僕以外にもいるんだ。事故が予言されている人たちが」
みのりは、二、三度目を瞬かせ、小さく開いた口を手のひらで覆った。