3:死体
1
Xマンションは小さな通りに面した三階建ての建物で、いかにも下宿然とした鉄筋コンクリート製の安アパートだった。
1階は大家の住居と貸しテナントになっており、寂れた床屋が一軒入っていた。
新しい下宿を探しているのだと言うと、年を取った大家は愛想よく二人を案内してくれた。
別に嘘は言っていない。
みのりが下宿を探していることは事実である。
「意外といい部屋でしょう? 大学から近いし、家賃だってそんなに取りませんよ。耐震基準だって、新しいやつを満たしています」
2階の廊下に二人を案内した大家は隅のロッカーからはみ出している掃除機を、大急ぎで片付けながら振り向いた。
大家は見た目よりも饒舌だった。
廊下はオレンジ色のリノリウムが敷き詰められ、両側には暗緑色の扉が並んでいた。
特に目につくものはない。
この国で一番学生の比率が高いこの町には、こんなアパートがごまんとある。
もしも今日、死体が発見されているとしたら、もっと騒ぎになっているはずだ。
やはりあんなのただの悪戯なのだろうか。
「中を見ることはできませんか?」
みのりが問うと大家は、「あいにく今の所すべて埋まっていて、3月になったら3人ほど出ていくんですが」と答えた。
「卒業ですか?」
「ええ――そうだ、そろそろ退去日が近い子がいるので、ちょっと中を見せてもらえないか聞いてみましょう」
大家はすぐそばの扉を叩いた。
みのりははっと息を吸い込んでコーキを見た。
コーキは無言で頷きを返す。
偶然だが、大家が叩いた扉は201号室――事故物件サイトに登録されている部屋だった。
老人は何度か扉を叩いたが反応はなかった。
「高橋さん、高橋さん? 留守かな」
不意に、大家の横からドアノブに白い手が伸びた。
みのりの手だった。
大家はぎょっとしたように横の少女の顔を見る。
みのりはためらうことなくドアノブを回す。
がしゃりと金属の機構が回る音がした。
「この部屋、鍵がかかっていませんよ」
二人の男が止める間もなく、みのりは扉を半分ほど開けて、その中を覗き込んだ。
小さく息を吸い込む音がした。
みのりが扉を閉める。
「ちょっと君!」
我に返った大家はみのりに手を伸ばした。
その手を軽やかによけ、青い顔をしたみのりが言った。
「救急車」
「え?」
「救急車を呼んでください」
コーキは慌てて扉に飛びついた。
扉を開く。
部屋の中の空気は二月の外気そのものの冷たさでコーキの身体を包み込んだ。
暖房はついていない。
その部屋は1Kのどこにでもある普通の学生アパートで、玄関から入ってすぐ右手にキッチンがあり、小さな一口コンロとシンクが見えた。左手にある扉は恐らくユニットバスだろう。キッチンと奥の部屋の間の薄緑色の扉は大きく開かれ、部屋の中まで見通すことができた。
顔が見えた。
信じられないというように大きく目を見開き、どす黒くうっ血した男の顔が、コーキのことを見返していた。
男が一人、床の上に倒れていた。
「た、高橋さん!」
大家が声を上げて部屋の中に上がり込む。コーキはその後に続いた。
男はキッチンと部屋の境で倒れ込んでいた。
強張った左手が部屋からキッチンへと昇る段差の縁を握っているのは、まるで必死に部屋の外に出ようとしたところで何かに捕まったかのように見える。
コーキは男のそばに座り込み、その首に手を当てた。
鼓動はない。
「死んでいる」
言葉を失った大家は呆然と立ち尽くす。
コーキはそっと立ち上がり、周りを見回した。
部屋の中は散らかっていた。
そこら中に文庫本や漫画、それからいくつかの専門書が無秩序に置かれ、机の上には無愛想なデスクトップPCが一つ据えられている。
机の周りの壁には何枚ものレポート用紙が張られ、よくわからないメモ書きや何かの実験データなどが乱雑に並んでいた。
コーキはその一つに目を引かれ、まじまじと覗き込んだ。
それはこの町――京都市の地図だった。
地図には無数のピンが刺され、何枚ものポストイットが張られている。
今年卒業と言っていたのだから、きっとこの部屋の主は4年間はこの町に住んでいたはずである。
それなのに、わざわざ地図を張るなんてするだろうか?
救急車の音が近づいてくる。
みのりが通報したのだろう。
コーキは廊下に出た。
みのりの瞳がコーキを見ていた。
「兄さん……」
みのりを見る。
「ごめんなさい」
とみのりは言った。
混乱していた。
様々な思いが胸の中に飛来するが、それを上手く言葉にすることが出来ず、ただ首を横に振り、
「みのりのせいじゃない」
としか言えなかった。
サイレンの音は建物の前の通りで止まった。
コーキは玄関へ向かった。
2
救急車の隊員と少し話して、コーキたちはその場を後にした。
自分たちは亡くなった大学生の友人ということにしておいた。
事故物件サイトのことは黙っていた。
話してもどのみち変な奴だしか思われないだろう。
公権力に変な奴と思われるよりは、善良な大学生と思われいてる方がきっと得することが多い。
それに、どうやらその住人――高橋の死自体にはそれほど不審な点はなかったらしい。
二人の事情聴取はおざなりなものだった。
「それにしてもなんて顔だ。本当にこれが自然死なのか?」
死に慣れたはずの隊員が思わず顔をゆがませるのをコーキは見た。
「兄さん、行きましょう」
みのりが腕を引く。
二人は事件の現場を後にした。
みのりをホテルまで送った後、コーキは一人で夕食を取って自分の下宿へと戻った。
3
その日の夜、自室で微睡んでいたコーキはスマホの震えで目を覚ました。
「はい……」
寝ぼけたコーキの声が問う。
「すみません、兄さん、すみません……」
一発で目が覚めた。
それはみのりの声だった。電話の向こうでみのりは泣いていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、兄さん……」
「どうした?」
「あのサイトを見てください」
みのりはそれ以上のことを言えなかった。
あのサイト?
思い当たるものは一つしかなかった。
コーキはPCをスリープ状態から復帰させ、すぐに昼間見た事故物件サイトにアクセスした。
しかし、何を見ろと言うのだろうか?
不吉な直感。コーキはみのりが今日悩んでいた二つの物件を検索した。
「……何もない」
ほっと胸をなでおろした。
みのりが候補として残していた二つの物件には、火事のマークはついていなかった。
そのことを伝えると、みのりの涙声は、「いいえ、そうじゃないんです」と言った。
じゃあどういうことだろうか。
「兄さんのアパート……」
まさか、という思いが背筋を貫く。
コーキは地図で自分の住むアパート――白川マンションを探した。
あった。
白川マンションには、不吉なまでに赤い炎が一つ、ついていた。
クリックする。
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* 平成32年5月8日 *
* 京都市左京区○○町×× 白川マンション208 *
* 住民死体発見 *
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ポップアップウィンドウにはそう書かれていた。
すうっと体温が低くなる。
208号室はコーキの居室だった。
「ごめんなさい、きっと私のせいです」
電話の向こうのみのりが言う。
コーキは淡々と告げた。
「そうとは限らないよ」
「でも――」
「ただの悪戯かもしれない。何かのミスかもしれない、とにかく今は落ち着いて」
「でも――」
「別に僕がもう死んだとか、すでに死んでるというわけじゃないんだから」
電話の向こうのみのりはまだくよくよと何かを言っていたが、コーキは何とか明日もう一度会うことを約束して電話を切った。
よく考えたら別に約束せずとも、もう一度明日二人で不動産屋に行く予定だったことを思い出した。
自分も動揺しているらしいことを知って、コーキはなんだか笑いたい気分になった。
もう一度PCのウィンドウを眺める。
画面上には先ほどと寸分違わぬ情報が、他人のような顔をして表示されていた。
5月8日まではあと二か月余り。
その事実にどう対処すればいいのか、コーキには見当もつかなかった。