1:再会
1
窓の外ではかすかに雪が舞っていた。
水上コーキは大通り沿いの喫茶店のテーブルに座り、開いた本の表面に視線を滑らせていた。
時刻は午前10時。
ごく普通の大学生であるコーキが、こんなに朝早くに起きている姿はなかなかお目にかかれない。
博物館に飾っていてもおかしくない現象である。
まして、今は、二月の終り。春休みも半ばに差し掛かった大学生の生活習慣は緩みがちで、最近は明け方に就寝し昼過ぎに布団の中から這い出す生活が続いていた。
そんなコーキが昼前に喫茶店に来ているのにはもちろん理由があった。
人と会う約束をしていたのだ。
「すみません、お待たせしました」
残雪のようなしつこい眠気と戦いながら小説の一節を何度も繰り返し読み返していたコーキは、突然声をかけられて視線を上げた。
そこには見知らぬ女性がいた。
背中の中ほどまで届く美しい黒髪、悪戯好きな猫のような大きな瞳。飾り気のないシンプルなブラウスを着て、小脇には脱いだばかりのコートを抱えていた。
派手なところはないけれど、不思議と印象に残る美しい女性だった。
どこかで見たことがある気がした。
けれど誰だか分からなかった。
一瞬言葉に詰まったコーキは、「ああ、おはよう」と小さく会釈した。
とたんに女性の顔が険しくなるのを見て、コーキは自分が何かクリティカルな間違いをしたらしいということを悟った。
「まさか、忘れたの?」
女性が言う。
美しい声だった。
鈴を転がすような、という形容がふさわしい、けれど同時にどこか幼さの残る伸びのある声。
その声で、コーキはやっと相手が誰なのかを理解した。
そもそも、ここにはその人と会うために来たのだ。
例え顔をド忘れてしていたとしても、その可能性に真っ先に思い至るのが当然だろうに。自分の頭の回転の遅さに呆れてしまう。
けれどコーキはそんなものをおくびにも出さず、普段通りの平坦さで口を開く。
「いや、そんなわけじゃないんだ。ただ少し眠くて」
「本当?」
「本当だよ」コーキが告げる。「みのり、ゴメン、ちょっと寝ぼけていた」
女性は、七倉みのりは渋い顔をして頷いた。
「ええ、そうです……お久しぶりです、コーキ兄さん」
と、数年ぶりに再会した従妹は、以前と変わらぬ呼称でコーキのことをそう呼んだ。
2
二月の終り、全国の国公立大学では二次試験の前期日程が執り行われる。
コーキの通う大学も例外ではなく、昨日、一昨日と全国から集まった受験生たちが講義室に閉じ込められ、白紙とのにらみ合いにいそしんでいた。
その受験生の中に七倉みのりはいた。
コーキにとってみのりは、自分の母の妹の娘――つまり従妹に当たる女性である。
年齢が離れ、家も離れているうえに、性別も異なる二人だが、二人は不思議と気が合った。
気が合うと言っても会うのは年に二回ほど、夏休みと正月に母の生家に帰省する時くらいなのだが、そのたびに二人は一緒に遊びに出かけ、野山を駆け巡り、みのりの面倒を見るようなことをしていた。
たぶん、遊び相手が他にいない九州の片田舎に一週間ほど閉じ込められた結果生まれた、ストックホルム症候群的な何かだとコーキは思う。
だからだろうか、コーキにとってみのりは妹のような存在で、たぶんそれはみのりにとっても同じだったのだろう。
だから彼女はコーキのことを「コーキ兄さん」と呼んでいた。
とはいえ、それも数年程前の話である。
二年前、コーキは大学に進学し一人暮らしを始めた。
最初の夏休みこそ一週間ほど帰省したコーキだったが、わざわざ実家に戻ってもすることなんてほとんどない。それならわざわざ時間を使って帰省する面倒になり、自然とコーキの足は実家から遠のいていった。
また、高校生になったみのりも何かと忙しく、稀に祖母の家を訪れてもみのりと出会うことはなかった。
みのりと最後に会ったのは、多分、三年近く前になる。
そんなみのりから連絡が来たのはつい一週間ほど前の話だ。
内容は一緒に下宿の下見を言ってくれないかというものだった。
そのメールで、コーキは初めて、今年、みのりは大学を受験するということを思い出した。
受験する大学はコーキの通う大学と同じ大学だった。
そんなわけで、試験の翌日、コーキはみのりと大学そばの喫茶店で待ち合わせた。
「三年ぶりだね、みのり」
「正確には二年と半年ぶりです、お兄様」
木のテーブルの向こう側に座った女性は顔をしかめ、妙に語尾にアクセントを載せて言う。
「お兄様は大学に入ってから全然会いに来てくださいませんからねえ。ええ、本当に久しぶりですわ」
みのりは不機嫌を隠そうとせずに苦々しい顔で言う。
「私は兄さんに会えるのを楽しみにしていましたのに、どうやらお兄様は全然そんなこと考えていなかったようですね?」
「……」
コーキはテーブルに置かれたコーヒーを口に含み、時間を稼いだ。
これはどうやら本気で怒っているらしい。
理不尽を感じないでもないけれど、こういうときに下手に言い訳しても無駄だということはコーキも知っていた。
「別にみのりに会いたくなかったわけじゃないよ。実は、今だって気づいていたんだ」
「本当は気が付いていたのに、知らないふりをしたのですか? お兄様ひどい……」
みのりはわざとらしく泣き崩れる。
「いや……ごめん、久しぶりすぎて分からなかった」
コーキは素直に頭を下げた。
他の方法が思いつかなかった。
というか、いまだに頭が追い付いていない。
最後にみのりに会ったのは二年以上前、その時の彼女は高校一年生で、まだまだ子供のように思っていた。
もちろん高校一年生は完全な子供であるとは言えないだろう。
けれど、その立ち居振る舞いやしぐさの一つ一つに子供のころの名残がありありと残っており、コーキは年下の子供として接するのに支障を感じなかった。
けれど、二年の月日は高校生を女性へと変得るのに十分だったらしい。
もともと身長は高かったということもあるかもしれないが、今のみのりは見た目だけなら同級生の女子よりもずっと大人びて見える。
その大人びた美しい女性が、子供の様に憤慨する。
「ひどいです。たった2年間会わなかっただけで顔を忘れるなんて!」
「本当にごめん、その、ずいぶんきれいになっていたから」
苦し紛れのコーキの言葉に、みのりは大きく目を見開いた。
「……兄さんも、少し変わったのですね」
「そうかな」
「ええ、きっと前の兄さんなら、そんなことは言わなかったと思います」
そうかもしれない。
コーキは微かに頷いた。
かつての自分はこういう事を言う人間ではなかった。
「……まあいいでしょう。そこまで言うなら許してあげないこともないですよ?」
諦めた様にみのりは告げる。
「とりあえず、このケーキセットで手を打ちましょう」
手に持ったメニューには美しく飾り付けられたケーキとお茶のセットの写真が載っている。
ケーキセット、お値段八百円なり。
大人に、というより、ずいぶんとしたたかになったもの。
コーキは小さく苦笑した。
ウェイターを呼んで、ケーキセットと新しいコーヒーを注文した。
みのりは大輪の花のような笑顔を浮かべた。
「あ」
思わず声が漏れた。
「どうしたのですか?」
みのりが首をかしげる。
「いや、何でもない」
コーキは首を横に振った。
その笑顔を見て、やっと昔のみのりと目の前の女性が一致したなんて、そんなことはさすがに口に出せなかった。
ケーキセットを食べてから、コーキたちは大学近くの不動産仲介業者の事務所へと向かった。
3
みのりは大学に入ったら一人暮らしをすると決めていたらしい。
そもそも彼女の実家から、この大学まではバスと新幹線を乗り継いで、5時間程度かかるので、通うことはもちろん不可能なのだが、そのアパート探しを、みのりは今日するつもりなのだ。
コーキはその手伝いである。
もっとも、コーキにできることなんて大してあるとは思えないが、娘の住む場所を一緒に探してくれと叔母さんにも言われており、コーキにできることはするつもりだった。
「でも、試験翌日に探すのは早いな」
ふと思いついたことをコーキは口にした。
「そうですか?」
みのりは首を傾げた。
心底分かっていないという顔で、コーキは少し不思議に思う。
普通は合格発表まで待つものじゃないだろうか。
ていうか、コーキはそこまで待った。
「ですが兄さん、そこまで待っていたら住みたい物件がなくなっているかもしれないじゃないですか」
「それはまあ、そうだけど」
「それに、合格発表直後なんて、きっとお芋を洗うような混雑なんでしょう?」
コーキは自分が下宿探しをした時のことを思いだす。
コーキの通う大学には毎年おおよそ3000人ほどの学生が入学してくる。
それが一斉に新しい下宿を探すのである。
それはちょっとしたカオスと言っていいだろう。
「私はそんなの嫌です」
「けど、落ちていたら無駄になるよ」
「兄さん」
みのりは特に気負ったものも無く、あっさりと言った。
「私、落ちるつもりなんてないですから」
それはほとんどの受験生がそう思っているんじゃないかと思ったが、コーキはあえて口にしなかった。
たぶん彼女の自信は本物なのだろう。
みのりはお寺のそばの交差点で足を止めた。
「ここが予約しておいた不動産業者です」
不動産業者の事務所はビルの一階のテナントにこじんまりと納まっていた。