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盗唇

作者: 原田昌鳴


 二人は丘の上の高校に通っている。

 校庭の隅に古い用具倉庫があって、その裏のゆるやかな斜面に少年と少女は並んで腰掛けている。

 風の強い放課後だった。

 風がたえず二人の髪を暴れさせ、少女のリボンはしなる鞭のように踊った。うすら青い空に二条の飛行機雲が引かれている。その雲のすそはすでにまとまりをなくし、境目を失っている。吹奏楽の乱雑な音、バットとボールがぶつかる金属音、陸上選手が土を蹴る獣のような足音、そのどれもが北風にかき消されて弱々しい虫の音に聞こえた。

 さっきから少年は、盗むように少女の唇ばかり見ている。

 これといって特徴のある唇ではない。それでも少女がリップクリームを塗ってばかりいるので、潤いは充分にたたえられている。やや色素の薄い唇に引かれた桃色の口紅は、ついさっき授業中に隠れて引かれたものだった。

「なぜ空が青いか、あなたは説明できる?」

 上下ふたつの唇が、雨上がりの活発なナメクジのように伸縮する。

「ねえ、聞いてんの? ぼーっとしてないで答えなさいよ」

「……ああ、なんだったっけ?」

「知らないんなら知らないって言ったらどう? 卑怯な男ね」

 そう言い捨てると、少女は風に乱れる髪を耳に掛けてから、メンソールのタバコに火を点けた。

 煙が風に乗って隣に腰掛ける少年に浴びせられた。彼はその煙に嫌な気がしない。なぜなら少女のことが好きだからである。

「やめないの?」

「やめないわ」

「タバコってどんな感じになるの?」

 少女は、うーん、と夕暮れのせまる空を見上げた。

「ちょうど良い感じで、脳みそが締めつけられる、って感じかなあ」

 ふうん、と少年は返事をしながらも、内心はまるでわかっていないのだった。

 不意に少女が首を回して少年を見つめた。

 少年もつられて振り返ると、その視線はやはり唇に落ちた。そのとき少年は、彼女の下唇の端に小さなほくろを見つけた。ハッとした彼は、すぐに正面に顔を戻した。

「あたしね、気づいちゃったんだ。世界はね、すべて数学で説明がつくのよ。昨日の夜、布団の上で爪を切ってたら、突然知恵の輪が外れたようにね、あたしわかっちゃったんだ。そしたら興奮して眠れなくなったの。それで今朝起きられなかったのよ。だから遅刻したの」

「今朝遅刻したんだ。知らなかった」

 同じクラスの少年が、恋に焦がれるこの少年が、少女の遅刻に気づかないはずがない。少女が二時限目の世界史の授業中に登校してきたことを彼は鮮明に憶えている。純白のマフラーに持ち上げられた後ろ髪の一束が、つややかな円を描いていた。

 だから彼は彼女が知恵の輪と言ったとき、当然その髪の形を思い出した。

 少女は白いフィルターをたっぷり潤った唇に持って行った。タバコの先端が強く発光し、寒さに乾いた白い指にその色を映した。

「あたしね、寒いのが大っ嫌いなの。だから寒いところの大学へは行かないつもりよ。たとえ日本一の数物科があるとしてもよ。でもね、暖かいからといって田舎はゆるせないの。あたし都会じゃないと我慢できないわ」

 そこで少年は首を傾げた。

「ちょっと待って、なんの話だっけ?」

「ああ、つまりね、あたしの住みたい町もね、数学で表すことができるのよ。それに昨日気づいたの。関数のグラフで、x軸が……そうねぇ、平均気温。そしてy軸が人口っていう具合にね……」

 彼女の説明が少年にはさっぱり理解できない。彼は数字に関する学問が甚だ苦手である。

 少女は火の点いたタバコをチョークのようにして、目の前になにやら図を描いた。その隙に少年は、少女の口元を覗き見た。ほくろを浮かべた潤いのある唇に、少年は思わずうっとりした。

「あたしの言いたいことわかる?」

「ああ、なんとなくわかるよ」

「ほんとにわかってるの?」

「もちろんさ」

「うん。……だから空の青さもね、きっと数学で表せるのよ。空気の粒の直径とか、太陽光の周波数とかを使って表せるはずだわ。あ、空気中の水分量も考えなくちゃいけないわね、色が変わるかもしれないから。……はあ、それってどんな数式になるんだろう。きっと美しいわよ。考えるだけでわくわくする。あたしね、大学でこういうことに没頭したいの。それができるなら、四畳半でお風呂のついてないボロアパートでも我慢できるわ」

 少女はこういう頭脳の持ち主である。だから隣で首を傾げている少年が、まさか自分の唇に意識を集中させているとは気づくはずもない。

 けれども少年は少年で、自分の理解の及ばない数学的な魔術を使って、すでに少女が自分の気持ちを察しているのではないかと疑っているのだった。

 なにやら暗号のような言語を話している少女を隣にして、少年はこう考えていた。

『……僕は彼女の唇を盗み見ている。彼女に気づかれないように、そっと盗み見ているんだ。盗み見るって良い慣用句だなあ。唇を盗み見るなんて、どこか罪深い感じがあって、それでいてちっとも法律に引っかからない行為なんだから』

 そういえばこんな言葉もある、と少年は思いあたった。

『唇を盗む……』

 恋に関してまるで実証主義ではない彼は、この慣用句だけであからさまに頬や耳を紅潮させた。

 そのとき、少女の中指でタバコが弾き捨てられた。

 まだらな色を並べる冬草の中に、白いフィルターが鮮やかに舞い落ちて、火の粉が小さくまたたいた。少年は甘い煙を浴びた。少年の胸に、なにか熱いものが突き上げて来た。

 彼は突然立ち上がると、半ばずり落ちるように斜面を下った。すばやく吸い殻を拾い、火の元を黒々とした土に押し消した。それだけではない。彼は吸い殻についたゴミをはたき落とし、フッと強く息を吹きかけたのである。

 少女は目を丸くした。

「どうしたの? なにしてるの?」

「火事になったらいけないから」

「バカね、それぐらいじゃならないわよ」

「僕が捨てておいてやるよ」

 そんな行動のおかげで、紅潮した顔の理由を彼女に悟られなかったことに少年は気づかなかった。少女は彼の頬が、いまの敏捷な運動で上気したのだと理解したのだった。


 帰宅した少年は部屋に閉じこもり、ハンカチにくるんでおいた白い吸い殻をつまみ上げた。

 ベッドに寝転がって、その吸い殻に視線を這わせる。白いフィルターに薄く桃色が移っている。それが少女の口紅だと思うと、彼の胸は激しく高鳴ってくる。

 彼はゆっくりと目を閉じた。

 まぶたの裏に、振り向いた少女の美しい顔が思い出された。

 少年は、自らの乾いた唇をフィルターにゆっくり押しあてた。その唇をほんの少し開いて、舌先で舐めてみる。優しくくわえてみる。唇の力に緩急をつけ、その弾力を確かめる。軽く歯をあてて、あのほくろを思い、舌で愛撫する。

 そして少女の甘い香りとくすぶったタバコの香りとを、熱い胸にじっくりと吸い込んだ。

 彼は肉体の膨張を意識した。


 ………………。


 その晩、歯磨きを終えた少年は、冷たい水を顔面にひとつ浴びせた。鏡を覗き込んで、三日に一度しか剃らないヒゲの具合を確認した。小鼻に黄ばんだようなニキビができたので、爪の先で丁寧に潰した。

 そんなことをしている間に、彼は自分の顔にひとつの発見をしたのだった。ささくれた下唇の端に、小さなほくろを見つけたのである。

 そのとき彼は確信したのだった。

『僕は彼女の唇を盗んだんだ!』

 あくる日の放課後、少年は容易に少女にキスをした。

 いつもの倉庫裏で、少女が投げ捨てたタバコを拾いには行かず、その代わりに柔らかな髪の毛を抱きかかえるようにして口づけをした。

「タバコの香りがするね」

 と少年がささやいたので、その日から少女はタバコをやめてしまった。少年は愛しさのあまり、少女のこの誤解を解くことをしなかった。

 少女はこの成り行きを数式で表そうとして、それ以来ずっと頭を悩ませている。


         《了》

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