昨日の淵ぞ、今日は瀬になる【中編】
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飛鳥川 淵は瀬になる 世なりとも
思ひそめてむ 人は忘れじ
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『古今和歌集』巻十四・六八七 詠み人知らず
イチシの“わがまま攻撃”は、思わぬところからやってきた。
「明日の着物は、私が選んでおくからね。だから為斗子は明日の支度は気にしないで、気の済むまで練習してくるといいよ」
出演者全員で合わせられる唯一の機会であった、祝日の下合わせは何とか無事に済んだ。通しで流した最初の数回は、さすがに為斗子も調子が合わせられず、時々テンポを外してしまったり、合いの手がずれてしまうこともあった。だが、さすがに全員長い経験を持つだけあって、何度か合わせるうちにお互いの癖や感覚が掴めてきたようで、夕方になる頃には人前での演奏として十分なレベルに仕上がった。
とはいえ、為斗子は十七絃を弾くのが久しぶりであったし、自前でない分、絃の張り具合――その強弱は押し手の感覚にかなり影響を与える――に今ひとつ不安もあったので、演奏会前日の土曜を高畠さんの家で練習させて貰うことになっていた。今回のお礼代わりに、昼食をごちそうして下さるとこのことで、昼前には隣市まで行く必要がある。
運転免許も取っていない為斗子の移動手段は、もっぱら公共交通機関だ。高畠さんの家までバスを二つ乗り継いで、余裕をみて約1時間。為斗子は手早く朝の家事を済ませ、手伝いながらも邪魔をしてくるイチシの戯れをいなしながら支度を済ませた。
そして――少し不穏なほどに静かに見送ってくれるイチシに出掛けの声をかけると、そんな言葉が返ってきたのだった。
今回、助っ人を頼まれた演奏会は、地元では伝統のある蔵元の“杉玉上げ”を飾る余興としてのものであった。余興、とは言え、高畠さんの社中に正式に対価を払って依頼された仕事であり、また杉玉上げは蔵元にとって、なんと言ってもハレの日だ。
その年の新酒が出来たことを知らせる、杉の葉で出来た大きな玉飾り。造り酒屋が軒下に飾る“杉玉”を交換し、新酒をお得意様などに振る舞う催しは、蔵によっては大々的に行う。
今回演奏を頼まれた蔵元もその傾向がある所で、新しい銘柄の酒を初めて出す時などは、仲買人やお得意様を招待して今回のように催し物を開く。以前は祖父の社中で引き受けていたが、今は高畠さんに引き継がれた仕事の一つだった。
そんなハレの日の演奏。さすがに社中の演奏会や文化会館などで行う発表会ほどの格式ではないものの、演奏者は皆和装が標準だ。
「格は、一つ紋の色無地に織りの京袋でいいね? 小物も全部そろえておくから」
「……イチシが選ぶの?」
「いや?」
「ううん、イチシの見立ては間違いがないから別にいいけれど……でも、どうして?」
わずかな困惑の色を瞳に映す為斗子を、イチシは柔やかな微笑みで包み込んだ。
「私が為斗子を綺麗に装いたいだけだよ。それくらい、いいよね?」
「うん……」
まさか、こんな風に“イチシに構わない日々の見返り”を求められるとは意外だったが、衣装選びそのものは別に珍しいことでもない。華やかさを避ける為斗子が選ぶと、どうにも地味な色合わせになりがちなため、かつて祖母などは敢えてイチシに選ばせていたほどだ。
「じゃあ、任せるね。ありがとう、イチシ」
その返事に、にっこりと暖かな笑みを返してイチシは為斗子の手荷物を渡す。譜面や爪入れなどが揃っていることを確認し、為斗子は玄関の引き戸に手をかけた。カラカラと軽快な音が響く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。――――ねえ、為斗子。着付けも私がするからね」
戸が閉まる直前、イチシの悪戯な声が届く。一瞬遅れてその言葉を受け取った為斗子は、慌てて戸を引き再び玄関口に戻ったが、既にイチシは部屋の奥へ消えていた。
「…………もう……変なわがまま、言わないでよ…………」
玄関の鍵をかけながら、為斗子はため息をつく。ある意味イチシらしい為斗子へのわがままは、後どれくらい続くのだろうかと心配だったが、とりあえずバスに乗り遅れないために為斗子は小走りで道を行く。数寄屋門の脇に植えられた、白花の山茶花が二輪、芳しい香りを漂わせていた。
* * *
当日は、快晴だった。
朝の空気はひんやりと広縁に漂い、足元から忍び寄ってくる。そろそろ夜には雨戸を閉めなくては……と為斗子は思いながらも、ガラス戸越しに感じられる刻々と変わりゆく朝の光が好きで、まだしばらくは寒さに耐える日々だ。明日は立冬、暦の上ではもう冬だ。
いつものようにイチシと二人きりの朝食をとり、食後の温かい茶を身体に馴染ませた後、為斗子は身支度にかかる。さすがにハレの日、きちんとした身繕いは礼儀だ。
普段よりは丁寧に、ベースメイクを行う。下地を作り、ファンデーションを塗り。眉を書いたところで化粧はいったん終了だ。アイシャドウなどの“色物”は、衣装と顔映りのバランスを見てからだ。なにより着物に付くと大変なので、着付けの最後。普段、為斗子が化粧をしないのも同じ理由だ。商売モノの絹布を汚すことなど出来ない。――醒ヶ井の奥さんは、最後までそのことを分かってなかったみたいだったけれど。
続いて髪をまとめる。鎖骨にかかる程度の長さの髪は、普段は後ろで一つにまとめてあるだけだが、今日は夜会巻きにする。華やかな装いにはほとんど興味の無い為斗子だが、着物を着る機会が多いためこの髪型だけはきちんと作れる。ヘアピンを使って、後れ毛の出ないようにきっちりと纏め上げた。飾りは後で、だ。
最初の準備を終えて、続いて着付けの準備。肌襦袢を着て、足袋を履く。今回は立奏なので、五枚こはぜ。水通ししただけの新品の白が、ひんやりとした感覚をもたらす。
続いて衣桁にかけられた長襦袢を手にとる。袖無双の綸子は、ほんのりと色付く鴇色鼠の正倉院文様。姿見に映しながら、裾丈を整え腰紐を締める。その上から博多の伊達締め。衿合わせを調整しながら、からげ結びで始末する。
背中心のズレが無いか、鏡に映し確認していたタイミングで、イチシが部屋に現れた。滑らかな動作で、衣桁から色無地の着物を外す。
「イチシにしては大人しい色合わせだね」
「そう? 今日はハレの日の演奏だから、綺麗な色を選んだつもりだけれどね。為斗子によく映えるよ。弾いている姿を見られないのが、残念だね」
少し寂しげに響いたイチシの声に、為斗子はわずかな胸の痛みを感じる。イチシは変わらぬ笑みを浮かべているが、瞳の奥には置いていかれるものの寂寥があった。
――イチシは、この守屋の家に在るアヤカシ、化生だ。だが、だからといってここを離れられない訳じゃない。化生守が望めば、共に外に出ることだって出来る。その姿も、化生守たる者が許し彼が見せようと思えば、他の人にも見える――らしい。
イチシの言が全てなので、どこまでが真実なのかは分からない。それでも、祖父母が生きていた頃は、時折四人で出かけることもあった。知人に出くわし、“遠縁の親族”という紹介を祖父がしていたことを為斗子も覚えている。
為斗子が【化生守】となってからは、彼はこの家を離れていない。誰にも姿を見せていない――はずだ。為斗子はそれを望んでいないし、許してもいない。だが、彼は所詮“アヤカシの者”だ。為斗子を守るための優しい嘘も、為斗子を独占するための騙す嘘も、その口と態度からは溢れ出る。
真実はどうであっても――。為斗子は、彼を外に出す気にも、誰かに見せる気にも、なれない。
「――結局、私もイチシと一緒なんだよね……」
「なに? 為斗子?」
「何でもない。イチシ、立奏の十七絃だから、腕は伸ばせるように着付けてね」
イチシが着付けに必要なものを支度するのを待つ間、為斗子はその背にぽつりと心をこぼす。
どこにもやりたくない。誰にも渡したくない。ただそれだけ。
お互いが、お互いを閉じ込める、静かな箱庭。その幸せが、為斗子の幸せ――。
「――為斗子、腕を後ろに」
背に回ったイチシが、着物の袖を持って為斗子を促す。黙って着付けられる姿を、為斗子は姿見越しにじっと眺めていた。
イチシが選んだ色無地は、地紋の入った綸子で、色は優しい鴇色。正倉院文様の華紋柄が美しく映えて、華やかになる。
イチシは背縫いを合わせると為斗子の前に回り、膝をつき褄を合わせて裾線をとる。衣文は控えめに抜いて、下前と上前を合わせて腰紐を締める。
キュッと、モスリンの紐が腰下で締められる。演奏でも緩まないように、固くきっちりと。それでいて痛くも苦しくもないように。滑らかな手の運びで締められるそれは、イチシの束縛のよう。
再び背に回り、後ろ身頃の皺を伸ばす。身八ツ口から、イチシの手が入ってくる。トントンと手刀でおはしょりを整え、衽線が揃えられる。衿幅をとって胸元を整える、そのゆったりとした流れるような動きには躊躇いも無駄もない。
イチシに着付けて貰うこと自体は珍しいことでもない。自分でも着られるとはいえ、やはり誰かに着せて貰った方が細かな所まできちんと整うし、何より楽だ。また、男手による着付けは為斗子の力加減よりも強いので、長時間の活動や演奏のように動きのある際の着付けでは重宝する。
それでも、イチシに着せて貰うことは、少し気恥ずかしい。絹布ごしに触れてゆくイチシの滑らかな手の感触が、紐が為斗子の身を捕らえ締める強い力が、真綿で包み込むような優しい拘束を思わせる。
伊達締めをからげ終わると、イチシは撞木に掛けた帯の“手”を折って準備を始める。
「……そんな帯、あったんだ」
「佐保子さんの、だね。かなり昔に締めていたのを覚えていてね。季節を選ぶ帯だから、為斗子はほとんど見たことがなかっただろうね。でも状態はいいし、綺麗な帯だよ。この帯にしたくて、今日の着物や小物は合わせたんだよ」
イチシが選んだ帯は、銀糸を交えて地紋を織り入れ、枝を金糸と黒糸で描いて白花の山茶花を大きく鮮やかに織り出した京袋帯だった。為斗子は見たことがなかったが、イチシが言うのならそうなのだろう。写実的な草花の柄は、着用する季節を選ぶ。着物の世界では季節が先取りされるので、確かにこの帯を締められるのはこの時期しかないだろう。匂い立つような美しい織り柄は、為斗子の目にも好ましく映った。
結びやすいように、為斗子は両手を軽く持ち上げる。背越しにイチシの白い手が腰に回って、まず一巻き目。キュッと締められる。続けて、添わせるように二巻き目。仮紐は使わず、背中心に合わせてしっかりと結ぶ。仮紐で押さえて捻るだけの方が帯には優しいが、為斗子も演奏の時にはしっかり固定する方が好きだ。
帯が傷まないよう丁寧に、それでも緩まないようしっかりと締め付けられる胸の苦しさが、心地よい。わずかに漏れる吐息に『きつい?』とイチシが声を掛けるが、黙って首を横に振る。なぜか声を出したくなかった。
為斗子の背側で、イチシが着々と帯を整えてゆく。時折、脇を抜けて差し出される白い手。うなじに彼の息づかいを感じながら、回される手が枕紐や帯揚げを軽く結んで再び戻るのを、為斗子は正面の鏡に映しながら見つめていた。
最後に帯締めをお太鼓に通し、イチシが為斗子の正面に回る。『苦しくない?』『大丈夫』といった定例の応答の後に、再び跪いた姿勢となったイチシが帯締めを結ぶ。
今回の曲にも合わせたのだろう。今日の帯締めは、道明の高麗組。常緑の杉色を思わせる鮮やかな常磐色が、キリッと全体を引き締める。帯揚げも同じ常磐色の縮緬。あまり表には出さず、わずかに帯からのぞかせて、イチシは柔らかに仕上げてその手を止めた。
■箏曲その他:補遺■
【立奏】
:通常の正座で弾くスタイルではなく、椅子などに腰掛けて演奏するスタイル。この場合、箏も【立奏台】と呼ぶ木製の台に載せる。舞台のない野外演奏やホールなどでの演奏でよく見られるスタイル。
★演奏時の服装について
和装(着物)のイメージが強いが、最近は洋装も珍しくない。洋装だと声楽などのように白シャツに黒のロングスカートなどが多い。和装の場合、演奏の趣旨や格式によって異なる。華やかな場や自分たちが主催する会などでは、第三礼装以上(女性なら一つ紋以上の訪問着や振袖)が多い。主役ではない立場での人前での演奏ならば、色無地や附下げに銀帯もよく見られる組み合わせ。男性は基本的に第一礼装(黒紋付き袴)が多い。
※なおホールなどの舞台上では暖色系の淡色は目立たないので、原色に近い鮮やかな色合いが好まれる。
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着付けのシーン。着物に親しくない方には、ちょっと分かりにくい描写が続き申し訳ありません。しかし、ただでさえ邦楽関係の用語解説が多い作品なので、これ以上の説明描写は……と、詳しい説明を避けました。
とりあえず為斗子の着物そのものには柄がなく、黄みがかかった桃色に、ちょっとキラキラしたベージュに山茶花の模様が入った帯、アクセントに濃い緑、とイメージ下さい。結構大人しい色合わせです。着物合わせは難しい……。
そして無駄に《着せるシーン》に力を入れて描写する……。いえ、和装の場合、《脱がせる》より《着せる方》が、なんというか艶があるんです。男衆さんに着付けて貰う若い舞妓さんとか、なんか良いですよね……うっとり。
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