満てずして、隈なきものは【其ノ肆】(了)
訃報が届いたのは、十三夜の午後だった。
醒ヶ井家から、現当主の妻とその弟が交通事故にあったと伝えられた。自殺すら疑われるような不可思議さのある自損事故だったということで、警察の調べもあり、通夜や告別式は後日。それも密葬にするとのことで、お参りなら四十九日を過ぎてからにして欲しいと伝える憔悴した醒ヶ井当主の声を、電話越しに為斗子はぼんやりと聞いた。
電話を切って、為斗子は再び行事膳の支度に戻る。
今日は十三夜。『片月見は縁起が悪い』という謂われは元は遊里の風習だというが、月見が好きな祖父母の影響で為斗子もきちんと十三夜の月見も行う。
今夜は、ムカゴのご飯と焼き秋刀魚、キノコを沢山入れた根菜汁に、黒枝豆ときぬかつぎ。相変わらず派手さの無い献立だが、ただ為斗子は無心で菜箸を握る。
電話の件は頭から追いやる。忘れられるものではないが――覚悟していたことだ。
イチシは、化生だ。
【化生守】を守るため、不可思議な力を行使することだってできる。
そして彼が今望むことは、為斗子が自分との生を選ぶこと。
そのために、イチシは何だってできる。
人の世の法も、倫理も、思惑も、何一つ気にすることなく――。
* * *
『十三夜に曇りなし』の言葉通り、今夜も月は冴え冴えと輝く。肌寒い秋の夜、虫の音も弱くなり、庭の銀木犀の仄かな香りだけが漂う。
「……銀木犀は香りが弱いけれど、白い花は夜に映えるのね……」
静かな夕食を終え、片付けを済ませて客間に戻った為斗子を、イチシが手招きして傍らに引き寄せる。温もりを与えるようにイチシに抱き込まれて縁側に座る為斗子は、ぽつりと月を見上げてつぶやく。庭先では秋明菊と玉簾の白い花弁が、同じように月光に浮かび上がる。
「……為斗子が生まれる前は、あそこに植えられていたのは金木犀だったよ。佐保子さんが植え替えたんだ」
「お祖母ちゃんが?」
「そう。為斗子が二歳か三歳くらいの時かな? ――佐保子さんが、この庭の草木を一斉に植え替えてね。前はもっと色とりどりの花咲く庭だったんだよ」
為斗子の背越しにイチシの腕が伸びて、庭の花々を指し示す。庭には多くの花木と宿根草が植えられている。すべて祖母が植えたもので、亡くなってからは為斗子が世話している。
「――佐保子さんの、せめてもの反抗、かな」
イチシが何気なくつぶやく。その言葉の意味は、少し遅れて為斗子に届いた。
植え替えられた花木や草花は、全て白花だ。――死者を悼む花の色。
為斗子の前の【化生守】は祖父だった。祖父母の間には、為斗子の父である息子一人しか産まれなかった。その一人息子は、化生守ではなかったが、その娘が次代の化生守として選ばれた。
この化生は――化生守を孤独に追いやる。自分を選ぶようにと、温もりを感じさせた後で奪う。
祖父は六人兄姉の末っ子だったが、成人する頃には兄姉は誰一人としてこの世には居なかった。祖母と結婚した後も、血族と呼べるほど近しい人々は誰も残っていない。
『守屋の家は、子が育たない』――かつてはそう言われていたという。
“失踪”した為斗子の父は、祖父母の一人息子がどうなったのか。守屋を嗣ぐものならば、誰でも思い当たる。
守屋の血をひかない祖母。祖父を選び、祖父に選ばれたが故にこの宿命に巻き込まれた祖母は、その残酷な定めをどのように受け止め――諦めたのだろう。
後悔しなかったのだろうか。
為斗子は、ずっと祖母に尋ねてみたかった。守屋の宿命を知った上で、守屋の【化生守】である祖父と“共に在る生”を、選び、選ばれたことを、後悔したことはなかったのだろうか。
結局、為斗子が聞くことができなかったその答えの一つが、庭にあったのだ。
* * *
「為斗子。私は幸せだよ」
肩越しにかけられるイチシの声。切ない吐息がうなじにかかる。
満ち足りない今宵の月と同じく、いつも少しだけ欠けた二人の心。
「為斗子――為斗子だけが、私に幸せを与えてくれる。でもね、それが今宵の月のように完全なものでなくても、今の私は幸せだよ。だから――私を一人にしないで、為斗子。どこにも行かないで」
どこまでも甘く優しく、そして残酷なイチシの言葉。
あとどれだけ、この言葉に為斗子は耐えられるのだろう。
あとどれだけ、この言葉をイチシはかけ続けるのだろう。
どうしても、最後の一歩を踏み出せない為斗子。
どうしても、最後の一歩に追いやらないイチシ。
古人が十三夜の月を『無双』と称して愛でた理由がわかる。
完全なるものは、不思議と満ち足りないのだ。
「――花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」
唐突に、イチシが『徒然草』の一節を読み上げる。“春の花は満開の時のみを見、秋の月は雲なく陰りのない状態のもののみを見るものであろうか”という、反語的な問いかけ。
「――望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたる叢雲隠れのほど、またなくあはれなり。」
ちょうど昨日、イチシと勉強したばかりの部分。朗々と響く、少し高く落ち着いたイチシの暗誦。何を伝えたいのか、よく分かる。染みいるようなイチシの哀愁。
彼にとっても、為斗子の現状は一つの“賭け”に近い。守屋の血を嗣ぐ者は、もう為斗子しかいない。イチシが縋れる相手もまた為斗子だけなのだ。為斗子がイチシを選ばず――そしてイチシも含めた誰をも選ばないままならば、化生としての彼の望みは永遠に絶たれてしまう。
「イチシ……私は、それでも『終わり』を見るのが怖いの」
彼と“共に在り続けること”が怖いんじゃない。それを望む自分がいることも確かだ。でも……同じくらい、変わらなくなる日常が怖い。変わって欲しくないくせに、永遠に続く日常を信じきれない。
「十三夜が好き――だって満月は、後は欠けるだけだもの」
「為斗子。でも月は再び満ちるものだよ」
「でも、そんなこと、誰にも分からない」
イチシは間違えたのだと、為斗子は思う。
自分を育て間違えた。臆病に育て過ぎた。孤独に追いやりすぎた。
為斗子は『誰も知らない未来』を信じられない。
それがイチシが与えてくれる幸せであろうとも。
ならば、今の『知っている幸せと不幸』でいい。
少し欠けたままの月でいい。
今のままならば。
為斗子の孤独と不幸の上に、イチシが過ごす幸せがある。
イチシの不安と不幸の上に、為斗子が望む幸せな日々がある。
『きっと貴方も同じ――』
為斗子は、そう願っている。
きっとイチシだって……長すぎる“待ち続けた”日々の先を見るのが怖いのだ。
だから彼は為斗子を待つ。決定的な言葉を求めずに、ただ待つ。
イチシはいつも為斗子を背後から抱きしめる。真正面から抱きしめてはくれない。
為斗子と同じように、ただ“今”のどこか欠けた幸せを愛おしむのだ。
庭の白花に露が降り始める。月は傾き、夜風が身を震わせる。
抱き与えられた温もりは、ただひたすらに為斗子を包み込む。
優しく為斗子の指をなぞるイチシの手。柔らかく髪を撫でるイチシの手。
為斗子を背後から待ち続ける、優しく、強く、寂しく、残酷な化生。
満ちることのない、何よりも満たされた二人の幸せは、今日もまた静かに続く。
調子に乗っての【化生守】第二弾です。
今回は、帰宅中にボーっと三日月を見ていたら、脳裏でイチシさんが「……まさか、片月見じゃないよね?」と、急に話しかけてきたところから執筆が始まりました(苦笑)
自作品としては珍しく糖分が多めに含まれたのは、森の本屋様のエッセイ『萌えるラブシーンを考えたい』<http://ncode.syosetu.com/n4865do/>の本文および感想欄での、皆様の熱い想いにのせられた所為です(笑)
「……これで糖分多め??」と言われればそれまでですが、これでも精一杯加糖しています。イチシも頑張りました……何だか黒糖のように苦い砂糖ですが(苦笑)
◆作中用語の蘊蓄フォロー◆(読み飛ばしていただいて問題ありません)
[十三夜]は旧暦9月13日の月見のことです。陰暦では月齢13のため、十三夜と称します。「後の月」や「名残りの月」とも。十五夜を「芋名月」と称するのに対し、十三夜は「栗名月」「豆名月」とも呼びます。月見団子は13個。
この十三夜の月見は日本固有の風習で、由来の有力な説は、9世紀末の宇多天皇が詔を発して愛でたのが始まりだとか。江戸期、遊里を起源として(多分、客を呼ぶために)「十五夜の月見しかしないのは縁起が悪い」という謂われが広がって、どっちかの月見しかしないことを「片見月」もしくは「片月見」と呼ぶようになりました。樋口一葉の小説にも『十三夜』という作品があります。
いずれにせよ、『ちょっと欠けて足りない月』を愛でる、という所がとても日本的で好きです。
垂井さんの肩書き(資格)の[CFP]は、ファイナンシャル・プランナーの資格としては最高水準のものの一つです。国際資格ではあるのですが、一国一組織による資格認定が原則のため、日本では民間資格扱いです。日本における国家資格は[ファイナンシャル・プランニング(FP)技能士]で、CFPはその一級に相当します。
ただ彼が名刺に「FP技能士一級」と書かなかったのは、国家資格の検定試験に合格していないから。FP技能士は名称独占資格なので、勝手に名乗ると詐欺になります。
作中でははっきりと書きませんでしたが、彼はそれなりに才能がありますが、性格は推して知るべし。FPなのに投資的なのは前職が証券マンだったのと、本人の野心です。為斗子に近づいたのは、欲張った下心100%です。姉の方は、独善的ですが基本的に善良な人。巻き込まれて不憫でした……。
守屋家の庭に植えられているのは「銀」木犀です。白花で葉がギザギザしていて、香りは金木犀に比べると弱いのが特徴。
こちらが本種で、金木犀の方が変異種です。よく知られているのは金木犀の方ですが。本来、「木犀」という場合は「銀木犀」なんですが、今は違いますね。
なお、国内の金木犀は全て「雄株」です。雌株はいません。よって、増やすには接ぎ木しかないのです。
そんな花木ですが、やはり秋の花木といえば、この樹ですよね。
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この作品は【和の歳時記】と勝手に称していますが、基本、季刊掲載になる予定です。
よって、煩雑ですが、とりあえず一旦【完結済み】表示に戻ります。季節が巡って、次話投稿の際に再び連載中に戻ります。ご了承ください。