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よろず歌詠む、化生守の調べ  作者: 片平 久(執筆停滞中)
第二話【満てずして、隈なきものは】 ~ 十三夜/菊花開
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満てずして、隈なきものは【其ノ弐】




「――――為斗子」

「イチシ……ありがとう。でも、あまりあからさまにしないで。醒ヶ井の奥さんは確かに勝手だけど……害意があるわけじゃないんだし」


 二人を玄関で見送った後、客間に戻った為斗子を待っていたのは厳しい目をしたイチシだった。気疲れして縁側に座った為斗子を、いつものように後ろから静かに抱きしめて、彼の不満を伝えてくる。


「害意があろうがなかろうが。私は為斗子が望まないことを成す者を認めはしないよ。あの(ひと)は、もう(・・)為斗子に必要ない。

 ――ねえ、為斗子。そんなに形だけの“誰かとの繋がり”が欲しいの? 為斗子は決して選ぶはずがないのに?」


 イチシは為斗子に対しては、どこまでも利己的で残酷だ。そして為斗子の揺れる心を誰よりも理解している。

 為斗子自身も分かっている。醒ヶ井の奥さんは、はっきり言って嫌いといってもいい部類に入る。いつも自分勝手で、自分の意見ばかりを押しつけてきて。

 本人は善意の固まりのつもりだろうが、為斗子の気持ちを(おもんばか)ることなどない、独りよがりの善意。


 でも、突き放せない。

 あの人は、それでも自分から(・・・・)為斗子に関わってくれようとする。

 為斗子を気にかけ、望んで離れようとしない。

 それが、たとえ自分のためだけであったとしても――自分からは他人に近づけない為斗子にとって、僅かに繋がったままの細い“(えにし)”の糸。


「イチシ……私だって子どもじゃないの。――世の中が善意だけでできている訳じゃないってことくらい、知ってる。でもね、好きの反対は、嫌いじゃなくって、無関心なの」

「――――為斗子があの(ひと)を拒絶しないなら、仕方ないね。でも為斗子、覚えていてね。私は『為斗子を幸せにはしてやれない』よ。私が望むことは、為斗子の幸せじゃなくって、()の幸せだから」


 背中から回されたイチシの手が、膝上で握られた為斗子の手を柔らかく包み込む。力を込めることなく為斗子の手のひらを開かせて、柔らかに一つ一つの指を確認するかのように撫で(さす)る。短く切られた爪の形をなぞるように、円を描いて触れるイチシの長く白い指。

 イチシは、為斗子の手に好んで触れる。『この手が、いつか私だけを選んでくれるように』と、その願いを口にしながら。

 幼いあの日。熱を込めてとられた為斗子の手。「化生守」としての人生を選ばされた時と同じ、白い曼珠沙華のような手。あの日からずっと、為斗子はこの手に捕らえられている。



「――イチシ、もう離して」

「仕事に戻るの?」

「ううん……そんな気分じゃなくなったから……ちょっと弾くことにする。イチシはどこかに行ってて」


 イチシの機嫌を取っていたわけではないが、しばらく彼の好きに手を弄ばせた後、為斗子はぴしゃりと軽くその甲を打って戯れを止めさせた。不承不承といった体で手のひらが離れ、為斗子の拘束が緩む。背中から熱が離れていく寂しさに、為斗子は目を閉じて複雑な思いを押し込めた。

 本当なら、午後も仕事の続きをするつもりだった。だけど、不意の客の所為ですっかり気分が乗らない。こういう気持ちで作業をすると運針(うんしん)が歪むことを知っている為斗子としては、今日は仕事に戻る気にはなれなかった。

 仕事をしない時の為斗子は、暇を持て余す。家事に埋没することもあるが、読書や勉強をするか、(こと)を奏でるか、だ。箏や三絃に向き合うことは、和裁と同じく自分だけの世界に埋没できる。祖父母との思い出をなぞる意味でも、為斗子は心乱れる時ほど演奏したくなる。


「一人で? 私は合わせないの?」

「うん。最近弾いてなかったから、多分合わせられないと思う。今日は練習だけにしておく。――今度、一緒に弾こう?」


 置いて行かれることに拗ねる、子どものような瞳を一瞬だけ見せたイチシだったが、すぐさま柔らかい笑みを浮かべて席を立った。為斗子が拒絶しない限り、いつでもイチシは優しい――為斗子にだけ。



* * * 



 仏間の収納庫にしまってあった箏を取り出す。この柾目が美しい十三絃箏は、為斗子が幼い頃から慣れ親しんできた相棒だ。何度となく糸換えも締め直しにも出し、一度は焼き直しもした。それでも長年使い続けてきた名残が、そこかしこに残る。

 ()を立てながら、表面に残る傷跡を懐かしく見つめる。柔らかい桐材の竜甲には、柱が倒れてついた傷跡がいくつか残る。為斗子がこの箏と向き合ってきた歴史が、ここに残る。

 爪をはめ、少し斜めに座して龍頭(りゅうとう)に向き合い、調弦する。調子笛を吹きながら、最初はD音、一の絃。それに合わせて五の絃。次いで二の絃はG音。まずは壱越(いちこつ)平調子(ひらぢょうし)。聞き慣れた音階を、下から上へ、そして逆に爪を滑らせて確認する。

 先月は忙しかったこともあり、弾くのは本当に久し振りだ。間違いなく鈍っているであろう指の感覚を取り戻すために、まずは軽い曲から。こういう時には『六段』から始めるのが為斗子の常だ。

 ゆっくりとした導入部分から指をなじませていく。この曲なら暗譜で弾ける。それくらい、身体に刻み込まれている調べだ。三段目、裏連のサラリンから次第に早くなる調べ。四段目からは段の切れ目がわからない程に、一体的な流れで最後まで。

 弾き終えて、思ったよりは手が動いたことに為斗子は安堵した。念のため、もう一度最初から流して指を暖める。続いて『八段』。いずれも手事(てごと)の代表的な曲を続き弾いて、為斗子は感覚を取り戻してゆく。


 しっかりと手が馴染んだところで、練習する曲を算段する。イチシと約束した手前、合奏できる曲がいいだろう。イチシの三絃と合わせるのもいいが、せっかくだから箏の二重奏がいい。本手(ほんて)替手(かえて)の軽快な掛け合いは、為斗子と祖父の暖かい思い出の一つだ。

 譜面をしまってある棚の前で、爪をつけたままの右手を見つめる。言葉で語ることは難しい気持ちを、祖父は幾度か曲に乗せて伝えてくれた。祖母に聞かせながら、為斗子に語りかけながら、祖父はあの化生をどう思っていたのだろう。

 一つの曲を探す。萌葱色(もえぎいろ)の表紙の薄い譜面を取り出し、中を確認する。調弦は、高箏が本雲井調子(ほんくもいちょうし)、低箏は平調子。主旋律は高箏で、為斗子が好きな旋律もこっちだ。調子笛を吹いて、調弦を直す。三と八と(きん)の絃を半音下げて、四と九の絃を一音上げる。箏曲の調弦は和音の世界。耳が頼りの調弦だ。



 シャーン シャーン シャンシャシャシャン

 シャンシャシャシャン シャンシャンシャン



 『(きぬた)』の始まりは、ゆっくりとした和音の合わせ爪から始まる。そして引きいろや押し手を交えて軽快な調子が始まる。

 曲名の“(きぬた)”とは、布打つ様子を表したものだ。

 緩やかに繰り返されるメロディ。弾みのあるリズムが油断するとテンポを狂わせて、替手と合わなくなりやすい油断ならない曲だ。押し手が多く、手がせわしない。意外と早いそのテンポは、奏者の調子がよい時には気持ちがいいほどに軽快に弾む。


 だが曲調とは裏腹に、この曲の題材はしめやかだ。

 元は、能の『砧』。

 帰らぬ夫を待つ女の悲哀を謡うもの。秋の季語でもあるこの言葉には、哀愁が漂う。


 練習不足で追いつかない自分の手に苛立ちながら、為斗子はこの曲を選んでしまった自分の心をも持て余す。

 この曲を、イチシと合奏する――息が合っていないと難しい曲。でもきっとイチシの替え手は、為斗子がどれほどテンポを乱そうが、こちらに難なく合わせて付いてくるだろう。


 為斗子のことしか考えないイチシ。為斗子のためにだけあるイチシ。

 自分が“選ぶ”までは――ずっと曖昧なままの二人。



 待っているのは、誰?

 待っているのは、何?



 一オクターブ高く奏でるハーモニクスの為に触れた絃が、慣れぬ刺激の痛みを与える。左手の人差し指の腹が赤く変色している。押し手も多いこの曲では、左手の指の皮が裂けることもある。久しぶりの演奏で柔らかく戻っていた指の皮が、赤くその痛みを伝えていた。

 血がにじむわけではない。ただ慣れぬ酷使に指先が耐えきれなかっただけだ。ジンジンと鼓動に合わせて痛む指先は、為斗子の心のようだった。


 バチンッ、と大きな音がして()が倒れた。

 曲の中盤の変調。箏では柱を動かして音程を変える。弾きながらのその動作は、正確に丁寧に行わねば音がずれるし、甲も傷む。また移動中に柱が倒れてしまうこともある――今のように。

 柱が倒れた拍子に、左手の指先が絃に弾かれる。さらなる痛み。




「ーー無茶しないで、為斗子。指を痛めたら、仕事にも障るよ?」


 柱が倒れる音と、止まった演奏に引き寄せられるように、イチシが不意に現れて為斗子の指を掴む。ジンと痺れるように痛む指先が、イチシの滑らかな手のひらに包まれそっと引き寄せられた。イチシは先ほど同じように、人差し指を柔らかく撫でる。そして目を閉じて、愛おしげにそっとその唇を寄せた。

 柔らかい熱が伝わる。

 

 独善的で、独占的な、疑うことのないイチシの愛情と束縛。

 それが為斗子の知る男女の恋情と同じ物だとは思わない。そう思えるほどの恋情を知らない。


 イチシは――この【化生(けしょう)】はずっと待ち続けてきた。共に在る人間を。ずっと、ずっと。

 自分が選ばなければ――“次”を待つだけ。


 待って欲しくない。

 そう言えない自分の弱さが、狡さが、嫌い。

 為斗子は指先の熱を受け取りながら、何も返さない自分を心をただ持て余す。

 庭先から、か細い銀木犀の香りが漂ってくる。その白い花が静かに落ちる様を、為斗子はじっと見つめていた。




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