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よろず歌詠む、化生守の調べ  作者: 片平 久(執筆停滞中)
故話ノ三【つれなき人の、心なりけり】 ~ 半夏生/蓮始開
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つれなき人の、心なりけり【中編】




 (かいな)の中で為斗子(いとこ)身動(みじろ)ぐ。

 珍しくもない行動とはいえ突然の抱擁に、肩越しに多少の戸惑いが伝わってきた。


「…………なんでもないよ。為斗子は可愛いね。すぐにむくれる(・・・・)所は、功ゆずりかな?」

「っ! もう! からかわないでよ! イチシのバカ! 知らないっ!」


 身動ぐ為斗子から腕を放し、滑らかな髪を手に()く。先ほどまでとは違う、己の所為で(・・・・・)色づく頬と耳。形の良い耳朶(じだ)にやわやわと触れると、『もうっ!』と、くすぐったそうに邪険に手が払われた。


「もう……っ これじゃ、いつまでたっても決まらないじゃない!」

「ふふ、ごめんね。じゃあ、これなら為斗子も気に入ってくれると思うよ?」


 最初から決めていた一枚を、為斗子に手渡す。

 畳紙を開けると、涼やかで落ち着いた白鼠色(しろねずみいろ)が目に優しい、駒絽(こまろ)五越(いつこし)の染め九寸。太鼓柄は、手描き友禅と金くくり(・・・)が色艶やかに目をひく、大きく一茎だけ描かれた濃緑と白の草花。

 色合いも柄付けも派手さはなく、それでいて糸目に刺した金が上品な華やかさを与え、鮮やかだが少ない色目が清涼さを醸し出す帯だった。為斗子の目が喜悦に輝くのを見て、イチシの頬も緩む。やはり喜んでくれた。


「うっわぁ……きれい……これも、おばあちゃんの?」

「そうだよ。佐保子さんのお気に入りの一つだね。ただ、見て分かるようにかなり時期を選ぶ帯だから、なかなか締める機会がなくって悲しんでいたよ。だから、為斗子が締めてあげれば、佐保子さんも喜ぶだろうね」

「確かに写実的な絵付けだけど……この花、なに?」


 為斗子が、柄付けの白い部分を指でなぞりながら問いかける。その手に己の手を被せ、優しく柄付けをたどる。


「うん、そう考えると思ったよ。でも、残念。この白いところは花ではないんだ?」

「え? ……あ、本当だ。よく見たら、これ葉っぱなんだ……あ! もしかして、これ……」

「そう、正解。これは『半夏生(ハンゲショウ)』だね。『片白草(かたしろぐさ)』の異名の通り、上の葉だけこんな風に白い()が入るから、よく見なければ花だと思うよね」

「そっかぁ……あ、それで締める時期が難しいんだね。ちょうど今しか締められないね」


 名の由来となった「半夏生」は、梅雨明け間近の雑節。夏至から数えて十一日目からの五日間を指すものだけに、この帯を締める機会は限られる。

 特に、写実的な染め帯は趣味のもの。風流さを重んじた佐保子さんとしては、気軽に用いることが出来なかったのだろう。

 為斗子の気持ちは、すっかりこの帯に向いたようだ。イチシは、その帯に合わせる長着の算段を始める。

 為斗子を美しく装うことは、何よりも楽しく嬉しい。

 幼い頃は歓喜にあふれ、娘づいてからは恥じらいと喜びをない交ぜながら、為斗子の気持ちは己だけに向けられる。その幸魂(さきたま)の歓喜。

 他の帯を箪笥に戻す為斗子の隣で、イチシは長着を取り出す。薄く明るめの秘色(ひそく)に染められた市松の紋紗(もんしゃ)地は、涼やかな帯の風情にも合う。控えめに散らされた雪輪(ゆきわ)文様の飛柄(とびがら)小紋は、格式においても支障なく、何より帯を引き立てる落ち着きがあった。


「どう? 帯がとても映えると思うけれど?」

「うん、綺麗。……どっちも()が淡いから、小物をちょっと鮮やかにした方がいいかな?」

「そうだね。帯揚げは涼しげに白や藍を重ねてもいいし、いっそのこと帯締めで赤を差しても面白いかもね。じゃあ、小物は為斗子が選ぶといいよ」


 『うん』と目を輝かせ、為斗子は畳に広げた長着と帯に、次々に小物を置いていく。とっかえひっかえしつつ、結局は為斗子らしい“無難な”色合わせに落ち着いたようだ。


「あとは半襟をつけて、と。うーん、刺繍より()り友禅の方がいいかな。絽半襟でちょうど良い感じのあるかなぁ……」


 独り言めいた悩みを口に乗せながら、為斗子は支度の仕上げに入る。後は針仕事だけとなって部屋を出た為斗子を追わず、イチシは長着と帯を衣桁(いこう)に飾った。

 明日はこれで装い――為斗子は己を置いて出かけてゆくのだ。

 己ではない人の子に会うために。

 心の中に、雨が降る。

 それでも止まぬ雨がないように、明けぬ夜がないように。

 今はまだ、永久(とこしえ)ならぬ変わりゆく日々。

 何一つ同じでいられない無常の中を、イチシと為斗子は漂っている。


 為斗子は、また己の元に帰ってくる――今は、まだ。

 その葉を白く花に(よそお)い虫を誘う、半夏生。

 それに引き寄せられるのは、己か彼女か。

 捕らえ、囚われ。やがていつか、常永久(とことわ)に共に在るのだ。

 望み去ることは止められないが、奪われることは許さない。

 温風(あつかぜ)(いた)りて熱を増すように、その想いは雨雲を払い。

 (はちす)葉を転がる露を、珠のごとくに(あざむ)きながら、澱によどんだ中に咲く。

 内に秘めた情熱は、()が為のもの。

 穏やかに変わらぬ“仮初めの日常”を、やがて脱するその時には。

 あの“想い”を、今度こそ理解できるのだろうか。

 ――“あれ(・・)”がその存在を賭けてまで(こいねが)った、あの想いの正体を。

 ()るところも(かえ)るすべも無く、ただ無より生じて息づくだけのこの身には、無縁のはずのあの想い。手に届かぬその輝きを、それが与える喜悦の姿を、それを思い知らされて以来――己の心の雨は、止むことを知らない。

 いつか、この身に手を差し伸べて、この手を掴んで共に在る、その幸魂(さきたま)(あるじ)が降り止ませるまでは。


 広縁に出て、ガラス戸越しに為斗子の様子をうかがう。襟付けはとう(・・)に終了しており、ついでにと何か仕立てをしているようだ。手元で勿忘草(わすれなぐさ)を思わせる、明るく淡い青色が行き来する。

 ()が為のものか。それは思うまい。

 穏やかに口元にのせられた柔らかい笑みを、イチシは心に焼き付けた。



* * *



 やがて日も傾き始める頃。

 客間で手すさびに功が残した三絃(さんげん)を爪弾くイチシの元に、為斗子が戻ってきた。盆に煎茶と茶請けを載せて、まずは奥の仏壇に供える。


「ごめん、あと少しでやり残してたモノを仕上げようと思ったら、ちょっと興が乗っちゃった。おやつの時間じゃないね、もう」

「それでも食べるんだね、為斗子は?」

「ん~もうっ! だって昨日の水無月(みなづき)が残ってたし、これ以上置くと固くなるし。食べなきゃ勿体ないじゃない」

「じゃあ、夕食は軽くさっぱりとしたものにしようね。為斗子、時間あるの?」

「ううん、一緒に作ってよ?」


 朗らかな笑顔。イチシに向けられる、思慕の証。

 ためらいや憂いを浮かべ、(おそ)れや(おび)えを感じさせる曖昧な笑顔もいいが、ただ心を寄せるだけの笑顔が一番いい。

 己だけに向けられる為斗子のあらゆる感情は、イチシの心の糧。甘く、苦く。心を染めて、底にたゆたう(おり)を洗い流していく。


「そういえばイチシ。さっきは何を弾いていたの? どこかで聞いたような気がするんだけど、覚えが曖昧で……」


 早々に水無月を平らげた為斗子が、煎茶を口に運びながら問う。為斗子が針仕事をする間の爪弾きは、彼女の心を染めていたようだ。


「あまり聞かない曲だろうね。そういえば、功は為斗子に教えていなかったかな……? あれは『水の玉』という曲だね。いわゆる“九州系”の追善曲だよ。なんとなく弾きたい気分でね。……もう一度、弾こうか?」


 為斗子の瞳が期待するように輝くのを見て、イチシは温かく困ったような声で訊く。当然のように為斗子は大きく頷き、嬉しそうに顔の前で手を合わせた。


「……じゃあ、盆をいったん下げておいで。その間に準備しよう。そうだ、為斗子。その後で『夏の曲』を一緒に弾いて? 箏は出しておいてあげる」

「うーん……いきなり? 本手? 替手?」

「どちらでもいいよ? 練習でいいから」

「うん……わかった。じゃあ、本手」


 少し困った顔つきで、為斗子が微笑む。イチシとの箏の二重奏は為斗子が好むものだし、曲も好きな古今組。落ち着いた雰囲気の曲だが、決して簡単ではない。上手く弾き通す自信が弱いのか、為斗子の眉間には懸念が浮かぶ。

 盆を持ち立ち上がった為斗子の額を軽く押し、ニコリと微笑む。為斗子の頬が緩むのを見て、イチシは座卓を脇に避け演奏の準備に取りかかった。

 箏を二面、ハの字に置いて調弦する。雅楽箏の盤渉調(ばんしきちよう)に由来する古今調子の音色は、雅でありながら華やかな色を奏でる。

 三絃の方は、最初は本調子。後歌で二上がりとなる為、上げてあった調弦を戻す。(ばち)を滑らせ、響きを確認する。そうする内に、片付けと夕食の下ごしらえを済ませたらしい為斗子が戻ってきた。爪箱と譜面を確認し、広縁に背を向け三絃を構えるイチシの斜向かいに座してイチシの手が動くのを待った。



  (ゆめ)ならば さめて逢う夜も ありなまし

  こは 化野(あだしの)白露(しらつゆ)

  ()えては ()のみ久方(ひさかた)

  (そら)(おも)いの浮雲(うきぐも)

  ()えぬ(なみだ)は 音無(おとなし)

  (たき)(みだ)れて(たま)()

  (なが)くもがなと (みな) (ひと)

  (いの)りしかいも 夏衣(なつごろも)

  ()つつに()れにし 妻琴(つまこと)

  また三ツの()の 調(しら)べにも



 宮原検校が、その師である田川勾当(こうとう)を追善するために作曲した地歌と伝わるが、作詞は伝わっていない。宮原が修行した京の風情を織り込み、妻琴や三ツ緒などの言葉掛けを技巧的に取り入れて、亡き妻を偲ぶその前歌の歌詞は、哀愁ある曲調に似合う。

 本来は箏と三絃の掛け合いに工夫が凝らされた手事(てごと)を終えると、その師の名を読み込んだ後歌で締めくくられる。前歌に比べ表現技巧の少ない歌詞であるが、それだけにしんみりと余韻を響かせた。





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《和装のアレコレ》

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【為斗子の和装:帯】

駒絽(こまろ)五越(いつこし)()九寸(九寸)

:「九寸」は「九寸名古屋帯」の省略形で、少し幅広に織った帯地の端を体型などに合わせた幅に折って仕立てます。「帯芯」という中布を入れさらに裏地を付けて仕上げるため、全体としてはやや厚めですが、帯生地自体は薄い生地です。小紋や付下げなどの長着用の生地を使って仕立てることも出来るため、友禅などで描く染め帯に多く用いられます。

:「駒絽」は、絽の一種で()った糸を用います。そのため、しゃきっとしたシャリ感があり、涼しげな風情に仕上がります。

:「五越」は、絽の種類を示す用語で、絽目(ろめ)という透かし部分を緯糸(よこいと)何本ごとに入れるかで「三越(みこし)」(三本絽)「五越(いつこし)」(五本絽)「七越(ななこし)」(七本絽)などと区別して呼びます。

[金くくり]

:友禅染めでは、色つけの際に(のり)で線画を描いて防染して手書きで色を載せます。最後に糊を落とした際に残る白い線を「糸目(いとめ)」と呼びます。この糸目を、糊に金粉を混ぜたもので上書きして金線を引くことを「金くくり」と呼びます。要は、縁取りです。糸目だけを残すと淡くスッキリ仕上がり、金くくりを入れると立体感と華やかさがでます。どちらが良いかは好みの問題でしょう。


【為斗子の和装:長着】

秘色(ひそく)市松(いちまつ)紋紗(もんしゃ)地、雪輪文様の飛柄小紋]

:「秘色」は薄い青緑を表す和名の一つで、青磁のような浅い色です。少し灰のかかった青緑色が神秘的であることから「秘色」と呼ばれます。カラーコードなら#ABCED8くらい。

:「市松紋紗」は、市松模様(マス目形)に地紋を織り出してからみ織りにした紗の生地のことです。紋紗は地紋がある紗をさす用語です。

:「雪輪文様」は、雪の結晶を凸凹のある円形で意匠化した図形を指します。雪を表現したモノですが、涼しげな風情を出すために夏の模様として使われます。

:「飛柄小紋」は、全体に上下不問の柄を染め描く「小紋」のうち、柄が飛び飛びに入るものを指します。全体に柄が描かれる「総柄」より改まった(格が高い)ものとして扱われます。


【為斗子の和装:その他いろいろ】

:女性の着物コーディネイトにおいては、長着と帯に加えて「帯揚げ」という帯の内側を通し上部で結ぶものと「帯締め」という帯の上から締める紐の色柄を工夫します。全体を同じトーンで揃えたり、補色でアクセントを加えたり、大変奥が深くまた個性を出しやすい部分です。

:「半襟(はんえり)」は、長着の下に着る襦袢(じゅばん)の衿に付ける汚れ防止の布のことで、夏場はこれも絽などの涼しい素材を用います。礼装では白が決まりですが、洒落着や街着では色布や染め模様のある布を用いておしゃれをしたり、略礼装では刺繍などで華やかさを出します。基本的に長着や襦袢は頻繁に洗うモノではありませんので、半襟は着用ごとに付け替えるものです。襦袢に半襟を縫い付けることを「襟付け」と言います。つまり……和装しようと思ったら、針仕事は必須(汗)


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《花のアレコレ》

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半夏生(ハンゲショウ)

:ドクダミ科の草本植物。作中にあるように、花の季節になると濃い緑の葉の上部だけ白く変色するため「半化粧(はんげしょう)」「片白草(かたしろくさ)」とも呼ばれます。本当の花はオオバコのような穂状花序(すいじょうかじょ)を葉の根元につけますが、白く変色した部分がまるで花のように見えます。

:葉が白く変わる理由は、この花が虫媒花(ちゅうばいか)であるため、ドクダミなどと同じように白い目立つ姿で虫を誘うためだと考えられています。……「白くお化粧して(虫を)誘う」んですよ(ニッコリ)

:名の由来は、ちょうど雑節の「半夏生(はんげしょう)」(夏至から数えて十一日目のあたり)の頃に花を咲かせるからだとも。

:花言葉は【内に秘めたる情熱】【内気】……誰の“内”なんでしょうね?


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《歳時のアレコレ》

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半夏生(はんげしょう)

:夏至から数えて十一日目から五日間を指す雑節です。大体七月二日前後から七夕の頃まで。本格的な夏に入る目安とされます。

:雑節でもありますが、七十二候(しちじゅうにこう)の一つでもあります。

[半夏生](はんげ、しょうず)

:ここでいう「半夏(はんげ)」は、「烏柄杓」(からすびしゃく)という薬草の異名です。これが咲く頃、という意味です。

:なお、植物としての「半夏生」と「烏柄杓」は共に漢方などの薬草ですが、似ても似つかぬ姿です。ややこしや。


【イチシさんの謎の心の声】

※共に章タイトル期間の七十二候に由来します。

『温風至りて熱を増すように、~』

:七十二候の一つ『温風至』(あつかぜ、いたる)です。「半夏生」の後、七夕の頃からの五日間。

『蓮葉を転がる露を~』

:七十二候の一つ『蓮始開』(はす、はじめて ひらく)です。「温風至」の後です。

※これについては、後編の邦楽の方でもご紹介。


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《邦楽・楽曲のアレコレ》

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(みず)(たま)

:作中にあるように「九州系地歌」と呼ばれる一派の、代表曲の一つです。

:宮原検校作曲、作詞者は不明。宮原検校の師の追善曲ですが、全体としては『亡き妻を偲ぶ曲』です。

:実は作者は弾いたことがありません……。



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