つれなき人の、心なりけり【前編】
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忘れ草 何をか種と 思ひしは
つれなき人の 心なりけり
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『古今和歌集』巻十五・八〇二 素性法師
自分のためではない笑顔を見るたびに、心に雨が降りしきり、やがて胸底には澱がたゆたう。浅い淵によどみながら、清らな流れが少しずつ押し流してゆくのだとしても。
* * *
今年は“空梅雨”かと思われるほどに、本格的な雨の少ない水無月であった。
北の方では雨が多かったようだがこちらは晴れた日が多く、いつも空調設備が不十分な家屋と商売道具の湿気を気にする為斗子はご機嫌だった。
――ご機嫌なのは、それだけではないだろうが。
梅雨入り前に届いた、一通の封書。
為斗子の文箱に、何気ない風を装って大切にしまわれているそれは、やがてもう二通増えた。
『和菓子屋さんでの遭遇』に始まり、『バス停で傘を借りたお礼』に繋がった新しい縁の糸は、わずかずつ紡がれながら色を染める。柔らかく、優しく染まる、心の糸。精錬された練り糸のように、滑らかな光沢をのせ心のままに染まりながら、生絹のようにやや固くほのかに色づく。
げに、人の心の艶やかさかな。
今も泡立つ心を抑えつつ針を動かしている為斗子の口元には、ほのかな笑みがのぞく。本人は気付かないそのわずかな“歓心”が、イチシの中にひっそりと雨を降らせる。
一通目にあった誘いの文言に、ほんのわずかな期待と慎重な懸念を持ちつつも、結局のところ為斗子はその誘いに応じた。
『ご先祖様の小袖かぁ……どんな衣装なんだろうね? イチシは知っているんだよね?』
『そうだね……寄贈が受け入れられる程度には、見事な品だったよ』
『わぁ、楽しみ』
そんな会話を交わしながら、為斗子は返信の筆をとる。風待月と銘打たれた鳩居堂の便箋に、功から受け継いだ万年筆を滑らせて。為斗子らしい柔らかい手蹟が、浮き出し加工のシロツメクサに踊る。
――為斗子は、その“花言葉”を分かっているのだろうか。
イチシは、目元を淡く緩ませながら文を綴る彼女に苦笑する。
為斗子は“季節に合う”というだけで選んだのだろう。『風待月』は数ある六月の異名の一つ。梅雨の蒸し暑い日々の中、風を恋しく待つ心をうたったもの。
彼女は『何を待つ』のだろうか。
描かれた季節の花は、白詰草。心なしか季節が遅いように思われるが、最盛期はこの梅雨の頃。かつて幼い為斗子が、おぼつかない手付きで編んで被せてくれた花冠。
花言葉は――『約束』と『幸運』
そして――『私を思って』
仕事柄、歳時や草木の所以には詳しい為斗子だが、乙女めいた話題にはやや疎い。最初の二つは知っていたとしても、もう一つはきっと知らない。
だから――ただ、季節に応じて選んだだけ。
『次に会う、約束』を伝えるのに相応しい柄として選んだだけ。
だから、イチシは何も言わない。ただ、空梅雨に代わって降りしきる心の雨に、蕭蕭と濡れそぼつだけ。
やがて為斗子は筆を置く。丁寧な手付きでそれをたたみ、揃いの封筒に幾分緊張した面持ちで宛先を書く。
『白鷹 旭 様』
その名を記している時の、その表情を。為斗子は、まだ知らない。
為斗子が博物館を訪れる希望日を綴った便りは、承諾の意志とその何倍もの展示物についての少々熱のこもった文面の返事となって舞い戻り、為斗子はカレンダーをめくり翌月初旬のその日に丸を付ける。その、弾んだ笑み。
そして、数日後に再び届いた封書に眉をひそめ、怖れる手付きで封を切る。一筆箋に綴られた内容にほっと息をつく。その、安堵と苦笑の表情。
『お誘いしておきながら、入場券すらお送りしておりませんでした。大叔父に叱られました。お許し下さい。』
そんな文面と共に同封された、博物館の通常入場券。公的施設ではないが、それほど高価ではない入場料くらい、為斗子は元から気にしていなかっただろう。それでも、その心遣いに胸を温める様が、愛くるしくも愛おしい。
『気を遣わせてしまって、何だか申し訳ない気がするね、イチシ』
『とはいえ、礼儀としては当然だろうからね。為斗子もありがたく受け取るのが礼儀だと思うよ?』
その券は文箱の上に置かれ、やがての出番を待っている。一枚だけの、心の架け橋。
時折手にして戻す、その動作の意味を、為斗子はどこまで自覚していることだろう。
何気なく会話の端々に現れる、ほのかに色づく思慕の念。それはやがて色を変え、形を変えることだろう。
そして、それを見つめる己の心に降りしきる雨の音を、為斗子が耳にすることはない。
だからと言って。
イチシが出来ることは何もない。
為斗子は、己の【化生守】――「守屋の家の、化生」として、為斗子に害なすものを排することは容易い。周囲を排し、閉じ込めることも容易い。惑わし誘い、こちらを向かせることも容易い。
今までも、そうあってきた。
だが、己であってもままならぬものは、人の心。
自覚があろうがなかろうが、化生守自身が心より望むことを、ただ遮ることは出来ない。
己が望むのは、その『心からの選択による、永久』であり、その行く末までは決められない。
ただイチシは、待つだけ。
待つだけしか出来ない、人の心の行く末を。
己の底に揺蕩う澱を流し去る、その清き流れの手を待ちながら。
* * *
博物館へのお出かけを翌日に控えた日。
為斗子は昼のニュースで天気予報を確認した後、自室隣りの衣装部屋に向かう。明日の予報も晴れ。月が変わり薄物を纏い始める境の季節とあって、衣装の選択は難しい。
「ねえ、イチシ? 長着と帯のどっちを先に決めようかな?」
どこか“後ろめたさ”を漂わせながらイチシに問う為斗子の口調は、それでも楽しそうだった。そんな為斗子に、イチシはいつもと同じ穏やかな笑みを返す。
「洒落着だからね、帯を先に決めた方がいいんじゃないかな? 幾つか出してあげようか?」
「うん、お願い。私、おばあちゃんの夏帯、あんまり覚えてないの」
「佐保子さんは“帯道楽”だったからね。私も全部は覚えていないよ」
そう言いつつも、イチシは惑いもなく帯箪笥を開けて、帯板盆を引き出す。畳紙に書かれた水茎麗しい文字を確認しながら、いくつも畳に置いていった。受け取った為斗子が、紐を解いて中を確認する。
「わぁ……これ、綺麗な花。手描き友禅かな? これは本紅型、こっちも素敵。この芭蕉布、花織が凄い。ほんと、おばあちゃんは趣味が良かったんだね」
「そうだね、佐保子さんは良い家のお嬢さんだったし、感性が良かったね。仕立ての仕事をするようになってからも、色合わせや柄合わせ、裁ちの良さが評判だったよ」
色とりどりの帯を広げながら、為斗子は一つ一つの模様を確認する。イチシが選んだのは、為斗子の年齢に合わせて色が多めで華やかなものを中心に、為斗子好みの清楚さや穏やかさがあるものが取り混ぜられていた。
「淡い色にしようか、濃い色にしようか……うーん、濃い色だとすると……これかなあ? この花、とても綺麗なオレンジ色だね。何の花だろう? イチシ、知ってる?」
為斗子が手にしたものは、鴨頭草色に染められた地に萱草色が映える夏帯。描かれた「藪萱草」が、絹の上布に艶やかに咲き誇る。
「花は『ヤブカンゾウ』だね。和歌にある『忘れ草』だよ。黒のような濃青地と橙赤との対比が見事だけれど、為斗子にはちょっと合わないかな?」
「そうかも……確かにちょっと大人っぽいね。じゃあ、どうしてこれ、出したの?」
「その帯は、地が『白鷹上布』なんだよ。だから、だね」
にっこり微笑みながらそう告げると、一瞬キョトンとした表情を浮かべた為斗子の頬が、柔らかく朱に染まる。
為斗子と彼の“出逢い”は、和装が結んだようなものだ。だからこそ、為斗子も明日は和装で出かけるのだ。服飾史の学者の卵だという彼に、より多くの関心を寄せて貰うために。
その気持ちが分かるからこそ、イチシはあえて出逢いの時と同じ「白鷹」のものを取り混ぜたのだ。
彼の姓と同じ、伝統的な織物の産地。通常「上布」と言えば麻や芭蕉などの織物を指すが、この地の「上布」は特殊な撚りの絹織物。そんな“変わったところ”は、きっとあの彼の興味をひくことだろう。
佐保子さんの持ち物に白鷹上布はこれだけだったので仕方ないのだが、それにしても描かれた草花が「藪萱草」だとは……今は亡き彼女も苦笑していることだろう。
「えっ……あの、でも、うん、やっぱりちょっと、私には大人すぎるかな! 別のにする!」
知らない時ならまだしも、その姓を知った後で同じ銘のものを本人の前で纏うのは、さすがに気恥ずかしいらしい。慌ててその帯を畳紙に戻すと、為斗子は心落ち着かせるように軽く頬を押さえた後で、次の帯を手に取った。
愛らしい仕草。誰かを慕う心根は、己に向けられたものでなくとも愛おしい。為斗子の心の全てが、愛おしい。
「うーん、この紅型はちょっと派手かなあ……この花織は、織りは凄いけれど単色だからちょっと地味かも……この羅の博多はちょっと早すぎる気がするし、あっちの絽綴れはちょっと堅いよね……」
「――為斗子も結構注文がうるさいよね?」
「ごめんって、イチシ。でも、帯って難しいんだもん」
『自分は“作る側”だから、着こなしまでは分からないの!』と頬を膨らませる為斗子。たわい無く、常と変わらない、二人が心から望む“日常”の光景。自然と寄り添い、互いを想い、そして心を通わせる。
――ずっと、こうして、私とだけに……そう願い続けて、幾星霜。
幾度となく希い、此度こそはと心当て……そして見送ってきた希望。
なれど。
きっと、今度こそ。
かつてと違い、その命が生じた時から、初めて目にした時から希った、幼子。
望み奪われたとはいえ、その定め尽きるまで共に在ってくれる化生守がありながら、それでも惹かれ選んだ唯一人の者。
――ああ、誰よりもあれを思い起こす、その存在。
「……為斗子」
「ん? 急に、どうしたの?」
その柔い背を被って、いつものように抱きしめる。
この腕の内に、いつまでも居てくれるのならば。
望んで囚われてくれるのならば。
この私を、救ってくれるのならば。
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“番外編”の「故話」第三弾をお届けいたします。
今回は過去編ではなく、イチシ視点での現在編です。
本来なら「本編(第八話)」とすべきかも知れませんが、為斗子を基点としない話は「故話」にする、と決めていますのでご容赦下さい。
今話は、少し違った風情の「本編」としてお楽しみいただければ幸いです。
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《和装のアレコレ》
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【夏の装い】
:和装の世界では、七月・八月は「薄物」と呼ぶ“透ける素材の長着”を着用します。多くは「紗」(全体的にシースルー)か、「絽」(部分的に透かし織り)の素材です。風を通すのでサラッと着こなすのがポイント。帯を締める腰以外は意外と涼しいので『見て涼し、着て涼し』という感じです。
【イチシが選んだ、帯いろいろ】
:“佐保子おばーちゃんは、良家のお嬢様で着道楽、帯道楽”との設定でしたので、ここぞとばかりにご紹介。
:白鷹上布の帯以外は、以下の通り。
・本紅型:琉球本紅型のことです。「紅型」には他に「京紅型」「江戸紅型」などがありますが、「本紅型」は染色の手法が違います。モノは本麻の九寸名古屋帯。
・芭蕉布:そのまんまイトバショウの繊維で織る布です。現在は重要無形文化財。高価です。
・花織:琉球を代表する紋織りの一つです。読谷、与那国、首里などが主な制作地です。縞の中に小花を浮き織りにする文様が特徴。色使いは紺地や茶地が多く、遠目には地味に見えます。
・羅の博多:「博多」は博多織のことです。先染め糸の細い経糸と太い緯糸を強く打ち込むことで出来る、ハリのある生地が特徴。緩みにくいので帯などによく使われます。「羅」は目を荒くとって織り上げる製法のことで、ネットのように確りとした格子状の生地になります。和装では最も透け感が強い素材なので、盛夏の帯や塵除けによく使われます。
・絽綴れ:「絽」は部分的に透かし織りした生地のことです。夏の素材として略礼装から浴衣まで、様々なものに用いられます。「綴れ」は古代エジプトから用いられている伝統的な織りの技法で、和装の技法では爪で糸を掻くようにして模様を描く、大変手間のかかる製法です。高級な帯素材としてもよく使われ、確りとした絽綴れ帯は夏の礼装の定番です。
【上布】
:藩主などへの上納品としての「献上布」に由来する呼称です。
:作中でも触れましたが、本来「上布」といえば細い麻糸を平織りする高級生地をさします。代表的なものとしては「越後上布」「宮古上布」「近江上布」「能登上布」などがあります。
:何故か「白鷹上布」だけは、絹素材にも関わらず「上布」と呼ばれます。
:その他、麻素材に似た感触に仕上げた薄地の絹織物「透綾」のことを「絹上布」と呼ぶこともあります。
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《花のアレコレ》
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【白詰草の花言葉】
:説明不要なほどに有名な、クローバーの花。花言葉は作中通り『約束』『幸運』『私を思って』です。乙女~♪
【藪萱草】
:キスゲ亜科ワスレグサ属の多年草。七月頃に百合のような八重咲きの橙赤の花を咲かせます。
:万葉の頃より『憂いを忘れさせる草』として【忘れ草】の名で親しまれてきた、野草です。
:三倍体のため種が出来ず、ストロン(匍匐茎)で繁殖します。そのため『種のない花』としても詠われています。……なお、ヒガンバナも結実しない三倍体。
:花言葉は【憂い/悲しみを忘れる】【愛の忘却】……何をおもって帯の柄に描いたのやら(汗)
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《その他、アレコレ》
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【風待月】
:六月の異名の一つです。作者が好きな異名の一つ。
:六月は「水無月」の名が最も一般的ですが、それ以外にも数多くの異名をもつ月です。
:「鳴神月」「涼暮月 」「夏越の月」あたりが好きです。
【鳩居堂】
:文具好きには説明不要。手書き用の便箋なら、やっぱりここでしょう。
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余談。
今年(2017年)の六月は本州を中心に雨が少ない“梅雨”でした。
本話執筆にあたって改めて「梅雨入り・梅雨明け」時期を確認したのですが、やっぱり九月に見直しがあったようで【梅雨入りが六月二〇日頃】に変更されていました。(梅雨に関する確定値)梅雨明けが七月一五日頃でしたので、実質三週間程度の梅雨でしたね。




