たそかれ時の、月かげの【其ノ肆】(了)
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橘は 花にも実にも 見つれども
いや時じくに なほし見が欲し
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『萬葉集』巻一八・四一一二 大伴家持
「……行って、いいの?」
為斗子としては思いもかけない言葉に、訝しむ声と表情になってしまう。
イチシが、こんなに素直に外出を薦めることは珍しい。いつもなら不満気な様子を隠すことなく、ちょっと恨めしそうに拗ねてみせるか、無関心に突き放すか、のはずなのに。
「おかしな為斗子。私が嫌がるとでも思ったの?」
どこまでも穏やかな口調で、イチシが困ったように微笑む。その声、その表情に、普段なら透け見えそうな“意地の悪さ”は感じられない。
「――私は一緒に行けないけれど……為斗子は好きな時に、好きな場所に行くことができる。私は、為斗子が真実望むそれを、止めないよ」
やがて見慣れたいつもの表情。置いていかれることを諦観する、寂寥の気配。
イチシが“外”に出ることを禁じているのは、【化生守】である為斗子だ。
今までの出来事を振り返って、イチシが真実『この家から一歩も出ていない』とは露ほども信じてはいないが、かつて祖父母と暮らしていた頃のように『共に出かける』という行動はとっていない。
客観的に見れば、為斗子は身寄りの無い独身の家付き娘。そんな自分が『年頃の男性と並んで歩く』姿に対する周囲への言い訳が面倒だった、というのが表向きの理由ではあるが、真実は違う。その“ごまかし”を、為斗子自身が一番知っている。
単に彼を、誰にも見せずに独占したいだけ。
自分が【化生守】として、この守屋の宿命に閉じ込められているように。
自分はこの【化生】を、自分だけの箱庭に閉じ込める。
「――為斗子、私はそれでいいんだよ? 私の願いは、別に共に出歩くことじゃない」
低い熱がこもった手付きで、イチシの白い手が為斗子の頬に伸びる。優しく何かを確認するように、頬骨の上を二度三度と指が行き交う。
なされるがままの為斗子の様子に、イチシが腰を上げる。衣擦れの音と共に、熱が背にかかる。
いつもの場所。為斗子の背後。
そして、いつものように、そっと背から抱きしめられる。
「誰と、どこに行ってもいい。でも、帰ってきて。ずっと、私の側に居て……私と一緒に居て……私のために生きて……為斗子」
肩越しに伝わる、くぐもった熱。氷に触れるかのような、冷たい熱。
為斗子が、今ただ一つ信じられる、「幸せ」の姿。
ただ待ち続ける彼。
ただ待たせ続ける自分。
それが、今ここにある「幸せ」――。
肩に回された白い腕に、そっと手を添える。首を傾け、頭を預け、ただその熱を受け取るだけ。
居間に漂う珈琲の香りは既に薄れ、彼の長着から薫る香が鼻孔をくすぐった。香橘を思わせる松脂の香り。昨日一緒に弾いた、胡弓の名残。懐かしい、祖父と同じ香り。
彼は私の橘――『非時香菓』。
その実を食せば――そこにあるのは、誰も知らない『常世の国』の暮らし。
この化生と、いつまでも、常永久に在り続ける、人ならぬものの生。
どうして選べないのだろう。古来、誰もが望んだという、その“久遠の時”を。
どうして、誰も選んでこなかったのだろう。苦しい決断を、残酷な宿命を、次代に繋げ続けることを理解しておきながら。
ああ、でも。自分だって、まだ選べない。
常世の国に、「幸せ」があるとは限らない。
現世には、今こうして“確かな幸せ”がある。
――誰がなんと言おうとも、これが為斗子にとっての「幸せの姿」だった。
「為斗子――待っている。私は待ち続けるから、心配しないで。
『五月雨の たそかれ時の 月かげの おぼろけにやは われ人を待つ』
――私の心も同じ。そんなおろそかなものではないよ。
安心おし、為斗子。大丈夫。私は――私だけは、為斗子を置いてどこにも行かない」
――孤独に置かれ続けた者の心を、これほどまでに動かし誑かす言葉もないだろう。
そして、それは彼自身が最も望む言葉でもあるのだ。
「――『花にも実にも、見つれども』?」
「そうだね。『いや時じくに、なほし見が欲し』――私の“弟橘媛”」
その身を閉じ込める腕に力がこもる。
『いつまでも、絶えず見つめていたい』――そう告げる、アヤカシの君。
常世の象徴である『橘』を引き合いに出しながら、海神の贄となった『弟橘媛』になぞらえて自分を呼ぶ、残酷な化生。
共にあろうがあるまいが、【化生守】は彼の「贄」だ。守屋の家で、代を経て続く、贄の宿命。
終わらせたい、終わらせたくない。
「次」を生まないために、終わらせたい。
「今」を続けたいために、終わらせたくない。
為斗子が望む、歪な「常永久の、幸せ」は、お互いの不安と孤独の末にある。
肩に回された腕がススッと降りて、胸下をきつく抱きしめる。
こうして、このまま身も心も捉えられてしまえれば――
ピンポーン ピンポーン
奇妙な静寂を断ち切って、味気ないインターフォンの音が響いた。
視線を巡らし壁の表示モニターを見ると、見慣れた宅配業者の制服。そういえば、提携先の呉服店から仕立ての荷物が届く算段だったことを思い出し、為斗子は絡みつく腕を取り払って立ち上がる。
玄関に向かうその背を、残念そうな光をたたえたイチシの視線が追う。そして卓に置き去りにされた便箋に冷たい視線をやると、ふっと笑みを漏らした。揶揄うように、何かを期待するように。封筒の差出人の名を指でなぞる。
「腐 草 為 螢――期待しているよ?」
独善的な笑みのまま、イチシは為斗子の後を追って広縁に向かった。反物を運ぶ手伝いをして、珈琲を入れ直さなくては。イチシにとって、為斗子のためになすことは全て喜びの内なのだった。
* * *
就寝前、為斗子は枕辺の灯りの下で、再びその手紙を開いた。
特に個人的な内容とは言いがたい。何か特別な内容とも言いがたい。
それでも、ただ嬉しいと感じる便り。
「あ……四枚目」
先に読んだ際に、最後の紙を見落としていたようだ。三枚目には結語もあって、てっきり添え紙のたぐいかと思いきや、その四枚目には二行の文と花の絵があった。
『五月待つ 花橘の 香をかげば
昔の人の 袖の香ぞする』
『伊勢物語』にも登場する、『古今和歌集』の有名な一首。
添えられた花橘のイラストは、彼の手書きだろうか。
――他意はないのだと思う。
きっと、かつて守屋の家の者が着たという衣装を思い出し、この歌が思い起こされただけなのだろう。
そんな風に自分を誤魔化しながらも、為斗子の心は波立つのを止められない。
『五月を待って咲く花橘の香をかぐと、今は居ない昔の人の袖の香りがする気がする』
歌意は単純だ。だが『昔の人』の解釈次第では――。
彼に贈った古帛紗も、白鷹紬の生地見本も。『昔の人』を思わせるもの。
彼が手入れしているという小袖たちも、同じ。
「守屋」という【化生守の家】に囚われ、そして去っていった人たちの縁。
では、自分は? 同じように“去っていく”、昔の人となるのだろうか。
袖の香りに思い出される『昔の人』――近い距離にいて、袖触れあうほどの仲の人。
『伊勢物語』では元妻を意味し、この歌以降は『懐旧の恋情』を詠う代名詞でもある、花橘の歌。
私は? ――そう思わざるを得ない自分の心境が、トクトクと幾分早く打つ動悸と共に揺れ動く。
分からない、知らない、こんな気持ち。
手の中の便箋を再び封筒に戻し、為斗子は布団を被った。まだ胸の鼓動は収まらない。キュッと身を縮めて膝を抱く。脳裏によぎるのは、低く穏やかな声と雪駄の鋲の音。そして、雨に濡れた二枝と、あの夜部屋を飾った色鮮やかな花海棠の紅。
花は何も語らない。詩歌も何も告げてくれない。
橘の常世とは違う、限りある現世の中で。
為斗子の幸せが、少しずつ形を変えてゆく。
おぼろならない覚悟の元、やがて来たる雨の季節を前に、ぼやける月。
満ち欠けよりもおぼつかない人の心の揺らめきが、季節と同じく巡り行く。
永久を決めきれない日々の中、二人のおぼろな幸せが、揺らめきながら続く。
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《作中の詩歌たち》
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●表題+其ノ壱(前書き)+其ノ肆(作中、イチシの台詞)
【五月雨の~】
:今話の象徴歌……に今ひとつなりきれなかった、イチシさんの心情歌。
:おおよその歌意
《梅雨の頃の黄昏時の月の光は、よくぼんやりしているようだが、そんなぼんやりと好い加減な気持ちで、私があなたを待っているとでもお思いですか?》
●其ノ弐(前書き)
【つひにいく~】
:在原業平の有名な辞世の歌。作中において、深い意味はありません。
:おおよその歌意
《だれしもが最後に通る道とは聞いていたが、まさかそれが自分の身に、こんなに差し迫ったものだとは思いもしなかったものだ》
●其ノ参(前書き)
【春過ぎて~】
:持統天皇の、これもまた有名な歌。「衣替え」と言えばこれしかないでしょう!という事で選首。
:おおよその歌意
《いつの間にやら春が過ぎて夏が来たようですね。どうりで、天香久山の麓に白い衣が干されてたなびく姿が見えるはずです》
●其ノ肆(前書き)
【橘は~】
:どちらかというと、こっちの歌の方が今話の象徴歌っぽいですね。
:作中で為斗子とイチシがしている、謎のやりとりの元歌です。
:おおよその歌意
《橘は花が咲いた時も、美しい実がなった時も見ているが、見れば見るほど素晴らしいものだ。時を定めず、いつまでも見ていたいものだ》
●其ノ肆(作中:旭からの歌)
【五月待つ~】
:これも有名な歌ですね。橘といえば、やはりこれ。
:おおよその歌意
《五月を待って咲く花橘の香をかぐと、今は居ない昔の人の袖の香りがする気がする》
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《作中の謎の言葉》
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【非時香菓】
:記紀(古事記と日本書紀)に出てくる逸話です。
:垂仁天皇が「常世の国」に人を遣わして取ってこさせた「不老不死の実」のことです。今の「橘」である、と古事記に記されています。
:しかし、せっかく取ってきたのに当の本人(垂仁天皇)は既に崩御されていた……というエピソードがあります。……その実、その後どうなったんでしょうね?
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-----本当の後書き-----
【化生守】本編第七話をお届けいたします。
諸事情で、予定より三ヶ月遅れの投稿となりました。……季節外れで申し訳ありません。
とはいえ、この『化生守』という作品においては、今話あたりから本格的に「転」に入ります。
イチシさんも少しずつ“本気”になってまいります(?)
少しずつ“動き出す”為斗子の心と決心を、この先も歌と地唄箏曲にのせてお届けできればと思います。
今話もお読みいただき、ありがとうございます。次話もどうぞよろしくお願いします。