たそかれ時の、月かげの【其ノ参】
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春過ぎて 夏来たるらし 白妙の
衣干したり 天の香具山
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『萬葉集』巻一・二八 持統天皇
その“便り”が届いたのは、それから三週間ほど経った頃。梅雨入りの気配を暦で感じる一方、カラッとした五月晴れが季節外れの暑さをもたらしていた頃だった。
乾燥したこの時期は、「虫干し」にはもってこいだ。数日快晴が続いたこの日、為斗子はイチシと二人で午前中から今シーズン着なかった袷の着物を風通しし、今シーズン着る予定の単衣や薄物などへと箪笥の中身を入れ替えていた。夏への衣替えだ。
「この着物、今年も着なかったね、為斗子」
「うん……これ、そろそろ反物に戻しておこうかなぁ? でも……」
和裁士の祖母と自分が居る中、年齢不相応の色柄のものや長い間着る予定がないものは、一旦解いて反物に戻して保管することにしている。その方が生地も傷まないし、保管も楽だからだ。
イチシが取り出して衣桁に広げた長着は、祖母が亡くなって以来袖を通していない為斗子のもの。祖母が仕立ててくれた総柄小紋だった。優しい鳥の子色の地色に、朽葉色と緑を主体として赤や黄色を効かせ、艶やかに描かれた意匠化された大柄の花橘。季節はもう過ぎてしまったので、着るとしても来年の話になってしまう。
祖母は吉祥柄であるこの花橘柄を好んで為斗子に着せた。四つ身でない本裁ちの“大人の仕立て”になってからも、この小紋に加えて訪問着も誂えてくれている。
この小紋の方は、大柄なこともあって随分と“可愛らしい”風情となることと、幾分自分の好みとは外れる“色味の派手さ”があって、為斗子はそれほど好んで着ていた訳ではない。ただ祖母の喜ぶ顔が見たくて、共に出かける際には良く袖を通していた、そんな思い出の一着だ。
「まだまだ為斗子の歳なら、着ても不自然じゃないけれどね? 愛らしくて、私は好きだよ?」
「ん……でも、おばあちゃんのこと、思い出しちゃうから……何となく」
「……でも、解いてしまうのも寂しいんだろう、為斗子は? 佐保子さんが手ずから仕立てたものだからね」
為斗子の葛藤を見越したイチシの言葉に力なく頷いて、衣桁にかけられた長着の裾をとる。丁寧にきめ細かく処理された裾周りの縫い目。色鮮やかな木賊色の八掛が引きつれることなく、自然と馴染む。まだ祖母の技術には到底及ばない、そう実感させられる。
自分は、まだまだ未熟――技術にしても、覚悟にしても、何一つとして。
結局、その着物は再び畳紙に包まれ、箪笥にしまい込まれた。同様に、いくつもの畳紙を入れ替え、昼を挟んで一通りの“風通し”と衣替えが終わった頃には、もう午後も半ばとなっていた。
「ん、イチシもお疲れ様、ありがとうね」
「じゃあ、おやつにでもしようか。お茶がいい? たまには珈琲にでもしようか?」
「そうだね、じゃあ珈琲」
「砂糖は二つだね」
広縁から台所に向かうイチシと別れ、為斗子は玄関を出て郵便受けに向かった。午前の配達分の確認だ。他者との交流が極端に少ない為斗子のこと、普段ならいったいどこから情報を得ているのかと不思議になるダイレクトメールやポスティングチラシが時折ある位だ。今日も不動産屋と車のディーラのちらしが入っていたが、その中に和紙でできた長四封筒が一通。
この手の手紙をくれるのは、大抵高畠さんか寒河江さん。醒ヶ井の先代は筆無精で滅多に便りを貰うこともないし、弁護士の長岡さんや柏原さんならば味気ない事務封筒だ。
だが、表面に書かれた為斗子の宛名の筆跡には、まるで覚えがない。決して“達筆”という訳ではないが、几帳面で読みやすいスッキリとした若い筆跡に、為斗子は小首を傾げる。怪訝に思いながら裏を返し――為斗子は自分の胸がドクンと大きく高鳴るのを自覚した。
『白鷹宗越 方 白鷹 旭』
宗越は彼の大叔父、白鷹宗匠の茶名。だから、続く三文字が、本当の差出人の名。
初めて知る、彼の氏名。
封筒を胸に押し当てるように持ち、為斗子は小走りに玄関に戻った。簡易ドリップで淹れられる珈琲の香りが、玄関口までたなびいている。
「為斗子? もう少しかかるから、ちょっと待ってて?」
パタパタと忙しない足音をたてて居間に入った為斗子に、イチシが穏やかに声をかける。それにおざなりな返事をして、座卓の上に封筒を置いた。
はさみを取り出し、封を切る。ふっ、と微かに花のような香りがした。
中には、同じ美濃和紙の便箋が四枚。三つ折りのそれを開くと、封筒と同じ筆跡の文面が目に飛び込んできた。
最初に時候の挨拶。そして、住所は白鷹宗匠から聞いたということ、傘を借りたお礼に差し上げた生地見本と古帛紗への礼と、礼状が遅くなった事への謝辞が綴られていた。
ある意味においては味気ない文面。その中で、生地見本への礼に対する一文だけが妙に熱を帯びているのが少し可笑しい。
ありきたりの文に終始した一枚目が終わり、二枚目をめくる。そこには、彼の近況めいた事柄が何気ない文章で綴られていた。
『この気候に合わせ、収蔵品の手入れなどをお手伝いしています。僕はもっぱら専門である衣装類を担当していますが、その中で御宅よりの寄贈品と思わしき良品を目にすることができました。』
寄贈品、という文字に、為斗子は再び小首を傾げる。少なくとも自分の記憶の中に、祖父母が博物館に何かを寄贈したという話はない。
「博物館への寄贈……何だろう?」
「多分、昔の小袖とかじゃないかな?」
突然、背越しにかけられた声に、為斗子は文字通りビクッと身体を震わせた。気付かぬうちにイチシが背後にいて、何食わぬ顔で便箋をのぞき込んでいた。
「イチシ……ビックリさせないでよ! それに、勝手に覗かないで」
「うん、でも為斗子がとても真剣に読んでいるから、何事かと思ってね? ――それ、例の傘の彼から?」
「う、うん……返礼状みたい。て、丁寧な方だね」
何となくの後ろめたさと気恥ずかしさに支配されつつも、その表情も視線の奥の光も何一つ平常と変わらないイチシの様子に、為斗子は知らず肩に入った力を抜いて再び便箋に視線を向けた。イチシは斜向かいに座って、そんな為斗子の様子を穏やかに見つめている。
「功が佐保子さんと結婚する際に、家を建て替えただろう? その際に、倉を一つ潰したこともあって、由来あるものでこの家に残さなくてはいけないもの以外、博物館に寄贈したんだよ。工芸品や古民芸が多かったけれど、小袖や打掛とかもあったはずだね」
「そうだったんだ……そのことをおっしゃってるのね」
服飾史が専門だという学者らしい、彼の近況。その中に、自分の一部が関わっているようで、何となく胸が高まる。しばらくはその衣装に対する賛辞が続くところが彼らしいと思いつつ、続く三枚目をめくる。
『自分の企画ではありませんが、夏に服飾を中心とした小企画展を行います。その際には、これらの御衣装を展示させていただく予定です。僕も及ばずながら解説パネルの作成や、期間中の解説員として立ちます。よろしければ、ご先祖の所縁をご覧になりにいらして下さい。及ばずながら解説させていただき、また衣装について語らう事が出来ればと願っています。』
その一文の後には、彼が解説員として立つ予定だという、二ヶ月ほど先の複数の日時。知らず小さく口に出しながら、その日付を指でも追う。
「七月に何かあるの?」
「え? えっと……その、衣装展示を再来月にやるんだって。それで、『見に来ませんか?』って……」
「ふうん、そう。確かに、刺繍も染めも相当に凝った晴れ着だったはずだから、見る価値はあるよ? まだ先だけど、行ってくれば?」
何気なく、どこまでも平穏な口調で紡がれる言葉に、為斗子は思わずイチシを見上げた。
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《和装のアレコレ》
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【衣替え/虫干し】
:和装の世界では、年に二度の衣替えがあります。五月までは【袷】と呼ぶ[裏地のある着物]、六月と九月は【単衣】と呼ぶ[裏地のない着物]、七月と八月は【薄物】と呼ぶ[透ける生地で裏地のない着物]を着用します。
:旧暦と新暦の違い、最近の温暖化の影響などを受けて、以前ほど厳密ではなくなりましたが、それでも許容範囲は前後二週間程度。暑くても五月半ばまでは「裏地付きの袷」がお約束です。
:着物は湿気を嫌うため、衣替えの頃など普段着用していないものを広げて「風を通す」作業を行います。いわゆる「虫干し」です。カラッと乾燥した日に、一~二時間程度広げて吊すだけですが、場合によっては広げてたたみ直すだけでも十分です。
【小袖】
:平安末期から室町頃に、武家の女性の正装として用いられるようになった伝統衣装の一つ。
:現在の「着物」とは袖の形が大きく異なり、筒袖で袖口が小さいのが特徴。
:江戸期には武家のみならず商家の婦人も含む女性の標準的な服装となり、身分や立場などによる事細かな規定や、時代ごとの流行があります。……下手に足を突っ込むと、ふかぁーい沼にハマります……。
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《花のアレコレ》
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【花橘】
:橘(タチバナ)は、ミカンなどの「柑橘類」のことで、日本固有の柑橘類です。別名「ヤマトタチバナ」
:現在の温州ミカンなどと違い、実は生食には向きません。酸味が強すぎるので、ジャムにされることが多いです。
:花期は五月から六月。白い五弁の花弁です。
:日本では、古来「常世=永遠」の象徴ともなった吉祥果で、その花は文様や家紋など、様々に意匠化されて用いられています。