聞かんとすれど、花いわず【其ノ参】
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池水に 影さへ見えて 咲きにほう
馬酔木の花を 袖に扱入れな
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『萬葉集』巻二十・四五一二 大伴家持
それほど余分な時間を過ごしたつもりではなかったが、為斗子が家に帰り着いた時にはもう昼時となっていた。
「お帰り、為斗子。昼餉はもう準備できているよ。どうする? 台所で食べる? 客間で食べる?」
「ただいま、イチシ。ごめん、遅くなって。今日はそんなに改まる日じゃないから、供膳だけして、いつも通りに食べよう? 後で、甘いものだけ客間で食べようか」
イチシが少し心配げな表情で出迎える。そんな彼に軽く詫びて、為斗子は手を洗ってから台所に向かった。
既に食卓の上には自分たちのお菜と共に、盆に載せられた供膳が準備してある。炊きたてのご飯の良い香りがした。
「あ……うすいえんどう。イチシが剥いちゃったの? 私がやりたかったのに」
「一応、為斗子が帰ってくるのを待ってはいたんだけれどね。支度に間に合わなさそうだったから。でも全部は剥いていないよ。今回使った分だけ。残りは明日にでも為斗子がやるといいよ」
お菜の一つに目を向けて、為斗子が残念そうに眉を下げたのを、イチシは苦笑しながら髪を撫でて慰める。その優しい手つきに、まるで子どものようだと、為斗子は恥じた。
イチシが作ってくれたお菜の一つは、うすいえんどう豆の卵とじ。今が旬の、緑鮮やかな実えんどう豆だ。グリーンピースと似ているが、皮が薄くて味も優しい甘さであり、青臭さがない。祖母が好きだった春の旬野菜だ。
中の未熟な実だけを食べるのだが、為斗子は昔からこの実を剥くのが好きだった。柔らか目の皮の筋を取り、指で押し出すように実を取り出す豆剥き作業を、この台所や広縁に新聞紙を広げ嬉々としてやっていた。竹笊いっぱいになった春めいた緑の豆を揺らし、ザアッと雨の音のように鳴らすのが好きだった。
「でも、為斗子は味はあまり好きじゃないくせにね。自分で剥いた分は、ちゃんと自分で片付けなさいね。明日は、豆ご飯にしてくれる?」
「ええーっ。豆ご飯、好きじゃない……剥くのは好きだけど、それとこれとは話が違うの」
まだ袋にたくさん残ったさやのままのうすいえんどうを期待の目で見る為斗子に、イチシが痛いところを突く言葉をかける。言うとおり、実は為斗子はこの豆の味があまり好みではない。グリーンピースもそうだが、どうも青豆は好きになれないのだ。今回の卵とじのように別の味付けがあればいいのだが、豆ご飯のようにごまかされない味だと箸が進まない。
イチシらしい意地悪なお願いは無視することにして、とりあえず冷めないうちに昼食を取ることにした。イチシが汁物を温め直す間に、為斗子は盆を持って仏間に向かう。膳を供え、香りよい線香をあげてお鈴を一つ鳴らす。朝、活け替えた仏花とは別に、白い小さな花が揺れる織部黒の一輪挿しが経机に置かれていた。
「お花、飾ってくれたんだ。ありがとう、イチシ」
為斗子が台所に戻って席につくと、斜向かいの定位置にイチシが座す。『いただきます』と声をかけて数口食べたところで、為斗子は先ほどの増えた飾り花への礼を言った。仏前と同じように、床花にも同じ花が活け替えられていた。為斗子が出かけていた間に、色々と整えていてくれたようだ。
「あれ、卯の花? かわいいね」
「残念。卯木には少し季節が早いよ、為斗子。あれは馬酔木。確かに似ているけれどね」
「そうなんだ。馬酔木って、なんだかピンク色のイメージがあったから」
「庭にあるのは卯木だね。功が好きだった花だよ。また五月頃に咲くと思うよ」
季節ごと、白花で埋め尽くされる庭。【化生守】の家の宿命としての犠牲者たちに祖母が供え、抗いがたい宿命をもたらす彼に対する細やかな抵抗の証。
祖母が祖父と結婚したのは、当時としてはやや遅かったらしい。それでも後数年で、為斗子は祖母がこの家に嫁いだ年齢と同じになる。祖母も、そして祖父も、今の自分と同じ年頃から『自分が進む道』を考え、そして選んだのだ。
祖父は、常に優しくそして残酷に側にあり、そして哀しいまでに請う相手を振り切り、永久への憧れを断ち切る決断を。
祖母は、常に側にある人ならぬものを受け入れ、そして自分の血に繋がる者にそれを背負わせる決断を。
いつか自分にも出来るだろうか。
そんな重大な決断を。
今の自分は出来ない。ただ立ち竦んで、狼狽えるだけ。
前羽さんのように、常に前を向いて正面から突き進む強さがない。もちろん,彼女にだって悩みや躊躇いは数多くあり、何度も後悔と反省を繰り返してきたことだろう。でもきっと、彼女は振り返りながらも、その速度を緩めながらも、進むことを止めなかったはずだ。だからこそ、ああも輝いていられる。
自分は、深い渓谷を渡る丸木橋の途中で、下を向いてしまい竦んでしまった子どもと同じ。自分では戻ることも進むことも出来ず、誰かの手を愚かにも待ち続けるだけ。
「……為斗子? 卵とじ、口に合わなかった?」
気遣うイチシの声に、為斗子は我に返る。口にした言葉とは裏腹に、為斗子が何かしらの思案に囚われていたことを知る、憂虞の瞳。
「ううん、そんなことないよ。お出汁が効いていて美味しい。ありがとう、イチシ」
為斗子は微笑んで、再び箸をとる。薄味だがしっかりと旨味の出た出汁溶き卵の中で、鮮やかな緑の豆がコロコロと為斗子を笑っていた。
* * *
食事の後片付けを終え、先にイチシを客間に向かわせて為斗子はお湯を沸かす。「食後のデザート」とするには勿体ない気もするが、せっかく買ってきた朝生菓子なのだ。出来たての感覚が残る美味しい内に食べたい。練り切りは夕方のおやつにすることにして、為斗子は桜餅を菓子皿に載せる。香蘭社の銘々皿は優しい白青磁色で、八重桜のような道明寺の薄紅色に映えた。煎茶を少し濃いめに煎れて、為斗子は盆を抱えて客間に向かう。重ねた茶托がカタカタと鳴った。
客間ではイチシが楽器の調子を整えていた。いつもの三絃より小振りの姿。
「あれ、イチシ。今日は胡弓なの?」
「うん。偶には弾いてあげないと可哀想だしね。為斗子は胡弓は弾けないだろう?」
イチシが手にしていたのは、祖父の胡弓。紫檀の棹に桑の胴。三絃を小振りにした楽器は、撥ではなく弓を弾いて奏でる擦弦楽器だ。三曲合奏を本式にこなしていた祖父は、胡弓もお手の物だった。
馬の尾の毛をそのまま無造作に束ねたままの弓が奏でる音色は、三絃や箏のようなしっかりとした音色と音量は望めないが、素朴で乾いた調べは哀愁を感じさせる。そういえば、祖母はこの落ち着いた音色が好きだった。
「為斗子は、いつも弓ばかり触っていたね。ふさふさしていて面白い?」
「うん。生糸を触っているみたいで気持ちいいし、犬とか猫とかの手触りってこんな感じなんだろうなって」
昼の供膳を下げて、茶と菓子皿に並べ替える。馬酔木の花が小さく揺れた。供膳を片付けるために、一度台所に戻る。再び客間に戻ったときには、調弦を終えたイチシも座卓の前に戻っていた。
「お茶が熱いうちにいただこうか。演奏は後にしよう。為斗子も何か弾いてね」
軽く手を合わせてから銘々皿に手をやり、黒文字を入れる。葉ごと半分に割り切られた薄紅色の中から、艶やかな粒餡が姿を見せた。その上品な甘さと周りを包む桜葉の塩味のバランスが見事で美味しい。少しずつ堪能しながら、のつもりだったが、やや小さめの桜餅はまたたく間に為斗子の口中に消えていった。そんな為斗子を慕情豊かに見つめながら、イチシも黒文字を口へ運ぶ。白い指の動きが流れるようだった。
「そういえば、郵便局で同級生に会ったよ」
「へえ。為斗子が気付いたの?」
「ううん、あっちが気付いてくれた。就職活動中なんだって……もう、そんな年なんだね、皆は」
「…………為斗子も外で働きたいの?」
優しい形をしてはいるが冷たい光が隠る目付きで、イチシが為斗子に微笑む。そんな彼に、為斗子はやや力なく首を振った。自分が“普通に”外で働けるとは思えない。気質も、能力も、何一つ備わっていない。
為斗子だって自覚している。自分は大切に育てられた「籠の鳥」――安全で温かい籠の中に慣れすぎて、扉が開いていたところで外に翔び出す勇気もない。
でも、それのどこが悪いのか。自分が望んで籠の中に居るというのなら、そこが自分の場所だと言えるのではないか。
「籠の鳥」が不幸だなんて、いったい誰が決めるというのか。
ごまかしかも知れない。無知故の愚かさかも知れない。
でも「外にあるかも知れない、自分の場所」を求める気持ちには、未だなれない。誰も自分を籠から追い出そうとしないし、籠から連れ出してくれる手もない。
「…………和菓子屋さんで、着物姿の人を見たよ。イチシ以外で若い人の袴着姿って、久しぶりに見たかも。身体に馴染んでると思ったら、お茶の人なんだって。それにしては、不思議なくらい着物のことに詳しくって。これを紅花染めの置賜紬だって見抜いたよ。凄いね」
自嘲になりがちな話題を変えようと、為斗子は和菓子屋で出会った白鷹さんのことについて触れる。祖父が社中を開いていた頃には、演奏会などでごく稀に若い人の羽織袴姿を目にすることがあったが、あんなに馴染んだ風情の着姿を見るのはイチシ以外では本当に久しぶりだった。寒河江さんも普段から和装だが、年配の方とはまた違う落ち着いた雰囲気が新鮮だ。
「…………触られたの?」
イチシが眉を寄せてスッと目を細める。その剣呑な風情に、慌てて為斗子はブンブンと首を振った。
「ううん、違う、違うの。見ただけ。それだけで産地を当てたよ? だから余計にびっくりしたの。帯だって本紅型じゃなくって京紅型だって見抜いたし。何だろう? 普通の人は知らないような織りの種類だって、さらっと出てきたし。不思議な人?」
「織布や染色に所縁のある人なのだろうね。それか研究でもしていたのかな? 触れずに見ただけ、だとすると、一朝一夕で身につく趣味の範囲じゃないだろうね。為斗子だって、遠目では難しいだろう?」
「うん、私だったらとても無理。触れば分かるだろうけれど」
和裁士の祖母を持ち、自身も和裁士として数多くの絹地に触れてきた為斗子には、当然それなりの知識もあり、感性も育っている。だがわずかな違いや特徴を「目」だけで判断するのは容易ではない。だからこそ、あの“旭くん”と呼ばれていた彼の鑑識眼に驚いたのだ。
それ以上は特に話すような内容もなく、またイチシの表情も再びいつもの穏やかなものに戻ったのを見て、為斗子は最後の一口を食べきった。上品な甘さの余韻を煎茶で中和して、食後の楽しみは終わった。仏壇に供えられた分は、後からイチシと半分こしようと、為斗子は勝手に決める。練り切りは明日でも大丈夫だが、桜餅のようなデンプン質のものは「朝生菓子」の呼称の通り、その日のうちに食べないと美味しくない。
皿を盆に重ね片付け、新しい茶を煎れ替える間に、イチシが胡弓を手にとって演奏の構えをとる。
胡弓は座ったままでも立った状態でも演奏できるが、この家では座奏が基本だ。少し開いて正座し、その両膝に胴から伸びる中子先をはさみ、胴を軽く膝に乗せ、垂直に立てて持つ。左手で絃を押さえ、右手で弓を弾くスタイルだ。既に準備はしてあるだろうが、再び弓の毛に松ヤニを一拭きし、軽く音をとるために弓を滑らせた。三絃ともバイオリンともまた違う、哀愁ある音色が響く。
為斗子に柔らかく一つ微笑んで、イチシはスッと弓を動かし始めた。
柔らかい、切ない音色が静かに漂う。
「…………あ、これ……」
イチシが奏でるのは『蘇州夜曲』。懐かしいような東洋叙情にあふれたメロディが、間奏を挟みながら三度繰り返される。
祖父母の世代以上の人たちにとっては“李香蘭”の名で知られた女優の歌というイメージだろう。今でも数多くのアーティストたちにカバーされる名曲一つであり、箏独奏にアレンジされたものだってある。
涙を誘う哀愁に満ちた曲調が、胡弓の切ない音色に調和して、昼下がりだというのに夜の静けさを感じさせながら、為斗子を包み込んでいった。
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《邦楽・楽曲のアレコレ》
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【胡弓】
:邦楽器の一つで、三絃(三味線)を小さくしたような本体を、馬の尾の毛を束ねた弓で弾く。なお、和楽器としては唯一の擦弦楽器。絃は三本のものと四本のものの両方がある。
:中国の楽器『二胡』と姿や音色が似ていて混同されがちだが、全く異なる楽器。見た目の違いは、絃の数(二胡は二本、胡弓は三~四本)で、胴部分の大きさも違う(二胡は小さくて筒状、胡弓は箱状) また奏法も異なり、二胡では出来ない重音奏法が可能。
:地唄箏曲において三曲合奏に用いるものは、本来「箏・三絃(三味線)・胡弓」の組み合わせ。後に尺八が加わるようになり、また胡弓奏者の数が減ったこともあって、現在はあまり見られない。三絃と同じく箏曲の演者が胡弓も奏する兼任演者であることが多い。
:「おわら風の盆」ですっかり有名になった、哀愁ある音色が特徴。座奏(正座もしくは椅子に腰掛けて演奏する)ことが多いが、立奏(起立して演奏する)ことも可能。胡弓の立奏では、棹部分を持ち太股と腰のあたりで押さえ支えるようにして、歩きながらの演奏も可能。
【蘇州夜曲】
:作詞・西条八十、作曲・服部良一による戦前の歌謡曲。李香蘭こと山口淑子が映画内で歌った。その後、男女問わず数多くの歌手がカバーしている昭和の名曲。
:西条八十(1892年-1970年)の著作権保護期間が終了していないため、雰囲気だけでお楽しみください……(悔し涙)
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《花のアレコレ》
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【馬酔木】
:アセビ、アセボとも言う、春の花木。小さな壷状の小さな花が房咲きします。本種は白花ですが、園芸用品種のピンク色の方が庭木としては良く用いられます。
:花・葉・樹皮に強い毒性がある有毒植物で、名前の「馬酔木」は間違って食した馬が麻痺で酔ったようになることに由来すると言われます。人間が食べると、嘔吐・下痢などの症状が出て、重症の場合は神経麻痺・呼吸困難を引き起こします。(まれに死亡することもあります)
:花期は三月から四月下旬くらいまで。
:花言葉は『犠牲』『献身』…………この花を選んで佐保子さんに手向けたイチシの心中を、ちょっと問い詰めたい。
【卯木】
:空木、卯の花、雪見草とも言う、春の花木。小さな花を房咲きさせます。茎の中が空洞であることが名前の由来とも。
:花期は五月から七月上旬くらいまで。
:花言葉は『古風』『謙虚』『秘密』『風情』など。こっちは佐保子おばーちゃんっぽい?
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「胡弓」と「二胡」は違う楽器だーーーっ! と作者が言いたいがために、イチシさんが胡弓を弾く羽目に。
そして、今話の投稿が遅れた最大の要因は、西条八十さんがお亡くなりになった時期が、予想より遅かったからです(苦笑)
胡弓、滅多に耳にすることはないでしょうが、あの音色の哀切感と、和装で弾くときの袖の動きがとても好きです。弓毛がまとまってなくって、ふさふさ状態なのがまたオツです。
あと今話を書くに当たってのカルチャーショック。
「うすいえんどう」は全国区だと思っていたら、実は関西ローカルだったという……。えええ~? じゃあ、関東の春の豆ご飯はグリーンピースなんですか??
なお「皮を剥くのは好きだけれど、食べるのは好きじゃない」というのは作者本人のエピソードです、はい。
為斗子は、生まれながらのストックホルム症候群みたいなものでしょうね。




