春や昔の 、春ならぬ【中編】
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今話は、丸々時系列が遡ります。ご留意下さい。
やや慌ただしく玄関戸が開かれて、最初に佐保子さんが、続いて功の息子夫婦たちが玄関を上がり、奥の部屋へと移動する音が響いた。小さく赤子のむずかる声もする。
彼は邪魔にならないように庭に出て、佐保子さんが慌ただしく息子たちが滞在する部屋を整え、白湯などを準備して運び広縁を行きかう姿を見送っていた。功は客間で赤子を抱いてあやしている。
「武史、あなたは梨香さんに付いていてあげなさい。気分が悪いようなら、すぐにお手水に連れてゆくのよ。功さん、もう少し為斗子ちゃんをお願いしますね。私は着物などを始末しますから」
「ああ、分かったよ、母さん。俺にも熱いお茶をくれる?」
「後でね。とりあえず、梨香さんはあなたが頼りなのよ。ちゃんと側に居て……」
キビキビとした佐保子さんの指示に従って、息子は玄関に近いかつての自身の部屋へと姿を消す。そこには宮参りを終えたものの、調子を崩した彼の妻が伏せっている。
功と佐保子さんの一人息子夫婦には、この三月下旬に待望の第一子が生まれた。少し生まれ月よりは早かったこともあるが、妊娠中から調子を崩していた彼の妻は産後の肥立ちはあまり良くない。彼女の実家で里帰り出産し、その後も一月以上あちらで過ごした。産前も含めると半年以上、こちらを離れていたことになる。
ようやく床上げし、少し落ち着いたこの時期に母子ともに戻ってきた。幸い気候もよい薫風の季節、少し遅くはなったが赤子のお宮参りを迎えたのだが、慣れない着物姿が徒となったようだ。写真撮影までは何とか持ったが、帰路に気分が悪くなったようで床に直行することになった。
広縁越しに、佐保子さんが急ぎ脱がせた着物の始末をしている姿が見える。頭を巡らせると、客間では小さな布団に赤子が寝かされ、功が優しくその胸をトントンと叩いて寝かしつけようとしていた。
そんな功と視線が合って、目配せで呼ばれる。静かに広縁の戸を開けて上がり込み、客間に入って障子戸を閉めた。
「……ケラン、これが次代の守屋の一人だよ。儂が言うのも何だが、よろしく頼むよ」
祖父となった喜びと、宿命の主としての複雑な心境を秘めた表情で、功が彼に言葉をかける。赤子は目を閉じ、小さな両手を握りしめて身動ぎもしない。まだ生後二ヶ月を過ぎたばかり、まだ首も据わっていない。顔立ちは息子の方に似ている気がするが、それは彼にとっては特に意味を持たないことだ。
「功さん、為斗子ちゃんは……? あら、ケラン。居たの」
佐保子さんが入ってきて、赤子の様子を確認する。穏やかに寝ている姿に安堵の息を吐くと、功に向き合って幾つかの指示を出す。
「……じゃあ為斗子は、しばらくケランに見ていてもらおうかな?」
「私が?」
「頼まれてくれるか? この娘が、初めてお目にかかる『守屋の護り手様』よ。
……こんな姿で失礼するが、当代の主としてお願いする。代わらぬ守護を、この娘に」
功はやや戯けた口調ではあったが、視線は真剣だった。同じように真摯な瞳で、佐保子さんも彼を見つめ、姿勢を正して手を付き軽く頭を下げた。こんな所が、佐保子さんはそつがない。自らの立場を見誤り、間違えることのない、真摯な態度。好ましくも、小憎たらしいものだ。
「では私はお茶の支度をしますね。ケラン、この子のお守をお願いします。功さん、武史たちの様子を確認して、お医者さんをどうするか聞いて下さいな」
佐保子さんがシャキッと立ち上がって功を促し、赤子の側に畳み置かれていた宮参りの初着を手にとって客間を出る。紅白染めの上質な紗綾形の羽二重地に牡丹四君子の友禅柄の祝い着は、ものはあちらの両親が準備したらしいが、仕立ては佐保子さんだ。
この守屋の家に嫁いで後、働く必要はなかったはずだが、彼女は手に職を持つことを望んだ。功もそれを咎めようとせず、お嬢さん育ちの彼女であったが嗜みの一つとして身につけていた和裁の技術を本格的に学び、やがて和裁士として仕事をするようになった。今では彼女を指名して仕立てを頼む個人客がいるほど、腕の良い和裁士としてほどほどに活躍している。初孫のために一針一針楽しそうに縫う姿を、功も彼も微笑ましく見守ったものだ。
赤子と二人残された彼は、布団の脇に腰を下ろしてまだ薄く柔らかな髪をそっと撫でた。穏やかな温もりと共に、温かな安堵が心に広がる。
――これで「次」を待てる。次につながる、柔らかな命。
何度か往復するその手の動きに、赤子が小さく身動いだ。その小さな身にそぐわない大きな眼が開かれ、おぼろげに焦点を合わせようと瞳が動く。何かを探すように数度眼球が動いた後、その視線が彼をとらえてジッと見つめてきた。
見えているのか、見えていないのか。少なくともハッキリとモノの形が分かるような時期ではないはずだが、それでも赤子の瞳は焦点を定めるように彼を見上げた。
可愛らしい努力に報いるように、彼も顔を近付けてそのプクプクとした頬を白魚の指で撫で上げる。赤子の口元が緩み、まるで笑うかのような形をとった。頭の脇で万歳をするように挙げられていた両手が拡げられて、小さな指がもぞもぞと動く。“もみじのような”とはよく言ったもので、アンバランスなほどに小さくふくよかな手のひらは、血色良く色付いていた。
その“ふにっ”とした手のひらの真ん中を、いたずらに指で突く。求肥や羽二重餅のような感触に、思わず彼の頬も緩む。
そんな悪戯を、二度三度と繰り返した時だった。
――その小さな手が、ギュッと指をつかんだ。
か弱く、それでいて解けないほどに強いその力に、彼は身震いする。
「あーーっ……うーーぅ……」
喃語にはまだまだ早く、いわゆるクーイングの初期段階なのだろう。それでも何かを訴えかけようと、言葉にならない音を発する赤子。だが、その声は彼の耳には響いているものの、それ以上の想いに押されて客間を通り過ぎてゆく。
この子だ。
化生としての本能にも近い感覚。
今までの長い長い生の中で何度か感じてきた、“あの”感覚。
……また、待てる。
その“歓喜”。
「ケラン? 為斗子はどうしている?」
スッと障子戸が開き、功が盆に湯飲みを二つ載せて入ってきた。座卓に茶托を置き、湯飲みを乗せる。玉露特有の覆い香と爽やかな青葉香が混じり合ったスッキリとした香りが立つ。
「……ケラン?」
振り返ることもなく、ただ赤子を見つめている彼の様子を怪訝に思ったのだろう。功が彼とは逆の布団側に座し、彼の指を嬉しそうにつかんで離さないままの赤子に破顔した。そして彼を茶化すように見上げ――再び表情を困惑したものに変えた。
「ケラン……? どう、したんだい?」
「功…………ありがとう」
彼の口から発せられたのは、まずは感謝の言葉。その意味が分からず、功が目を白黒させている。
「功。私を名付いてくれて、ありがとう。……でも、この名を返すことにするよ」
「ケラン……ケランジィ!?」
一瞬遅れてその言葉の意味を悟り、功が思わず腰を浮かせる。
久しぶりに聞く、“正しい名”――功が佐保子さんを選んで以来、ずっと呼ばれてこなかったその名で功は彼を呼んだ。
「良い名だったよ、功。君を選んだことは間違っていなかった。今も、君は何一つ間違えていない」
「じゃあ……なんで…………まさか……っ」
畏れを抱いた視線で、功が赤子に視線をやる。赤子はまだ彼の指を楽しそうにつかんで離さない。動揺を隠すこと無く再び視線を彼に戻した功に、満幅の想いを乗せて微笑みを返した。
「そう。この子が、今度の【化生守】だよ、功」
「そんな……ことが?」
功も代々の「守屋の伝承」を受け継ぐ者だ。一度【化生守】となった者の行く末については知っているはず。――その定めの命が失われるまで、ずっと続く“ただ一人の化生守”。
「……私も初めてのことだね。大丈夫、功。君の“定め”は未だ来ていない。私はその約束を違えるつもりはないよ」
穏やかに微笑む彼に、功は放心したように浮かした腰を落とした。トスンという力ない音に、湯飲みの表面がさざめく。
彼を選ばなかったとしても。
【化生守】として間違うことなく彼の側にある内は、守護は失われない。
皆、“泡沫人”として、その人間として定められた生を全うしてきた。守護を失った化生守など、僅かな例外だ。
そして彼も、自分が選び、そして選ばれなかった相手の生を見送ってきた。その間は、唯一人の相手として、その人としての幸せを見守ってきた。
功は、まだ何も間違えていない。まだ、彼の定めの生は終わりを迎えていない。
なのに。
「……功。でも、そうなんだよ。この子は、新たな化生守……私が望み、その選択を待つ者だ」
淡々とした硬質な声に、知らず湧き出る歓喜が滲む。
ああ、こんなに早く「次」を待てるだなんて。
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《和装のアレコレ》
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【お宮参りの初着】
:別名【祝い着】 お宮参りの際に赤ちゃんに被せるように着せるもののことです。「熨斗目」と呼ぶこともあります。
:為斗子の祝い着の柄は「牡丹と四君子」ですが、「四君子柄」とは『蘭・竹・菊・梅』を一緒に描いたもの。この四種を「草木における君子」と讃えている柄です。それに加えて「花の王」とも称される『牡丹』を描いたものは、典型的な女性用の吉祥柄ですね。
:お宮参りは大体生後三十日くらいで行うのが一般的ですが、母子の体調や気候優先で遅らせることは珍しくありません。
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《為斗子の両親》
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:父【武史】/母【梨香】
:名前は初登場。武史が功と佐保子の一人息子です。