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よろず歌詠む、化生守の調べ  作者: 片平 久(執筆停滞中)
故話ノ二【春や昔の 、春ならぬ】 ~ 春社/桜始開
22/35

春や昔の 、春ならぬ【前編】

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(つき)やあらぬ (はる)(むかし)の (はる)ならぬ

()()ひとつは もとの()にして

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『古今和歌集』巻十五・七四七  在原業平





 ――その小さな手が、ギュッと指をつかんだ。

 か弱く、それでいて解けないほどに強いその力に、我が身の(さだ)めを感じたのは必然だったのだろう。


 その時から、ずっと。

 その手を待ち続けている。



* * * 



 シュルリシュルリと、うちそよめく音がする。続くキュッと甲高い衣擦れの音は、帯を締める音だろうか。障子戸(しょうじど)越しに響く微かで軽やかな音を、イチシは客間側の広縁(ひろえん)に座して耳に拾っていた。

 抱えた三絃(さんげん)(さお)に視線を落とし、軽く爪弾(つまび)いて音を確認する。“手持ち無沙汰”としか言いようのない時間を、イチシは愛用の三絃の糸替えをしながら過ごしていた。ウコン色に染められた細い糸を根緒(ねお)()け、キュッと静かに引く。膝にあった(どう)を下ろして天神(てんじん)をずらし乗せ、象牙の糸巻きに向かいゆっくりと巻かれた糸を伸ばす。指に掛けながら糸巻きを回し絞めて、再び根緒に向かって少しずつ押し伸ばす。

 他の指で軽く持ち上げ、親指で糸を均一に押し伸ばすこの作業を怠ると、音が安定しない。(いさお)は、これが上手だった。そんな記憶が心をよぎる。



「……為斗子(いとこ)、着替えは終わったの?」


 スッと障子戸が開く音に、イチシは視線を上げて柔らかく微笑む。開けられた隙間から、優しい桜色の袖が振れ出た。続いて、少し物憂げな表情を浮かべた愛らしい顔が覗く。


「うん。イチシ、後ろの方をちょっと直してくれる? 決め線がちょっと合ってない気がするんだけど?」


 くるりと背中を向けて、帯のたれ(・・)先を指で引く。色鮮やかな鶸色(ひわいろ)に、桜草と蒲公英(たんぽぽ)が控えめな色彩で染め描かれた塩瀬(しおぜ)の染め帯。花咲く春が、為斗子の背で踊る。

 膝の三絃を置いて、イチシは招かれた部屋に入り帯を整える。ついでに背縫いや(おくみ)線も揃え、少し甘く緩んでいた赤紅(あかべに)色の帯締めを締め直す。


「ん、これで大丈夫だと思うよ。春らしくて良い組み合わせだね」


 いつもの様に、着物合わせも着付けもさせてもらえなかった寂しさはあるが、為斗子が自分で選んだ長着(ながぎ)も帯も優しい風情に満ちていた。桜が織り出された軽めの紋意匠縮緬の飛び柄小紋は穏やかな桜色に染められ、桜の花丸文(はなのまるもん)を控えめに散らした桜づくし。爛漫の華やかを醸し出しながらも落ち着いた風情が、染め帯の色柄を活かしている。春が身体中に満ちた取り合わせだった。


「上はどうするの?」

「それを悩んでるの。こっちの羽織(はおり)道行(みちゆき)と、どっちがいいと思う?」


 為斗子がそれぞれ両手に掛けて示したのは、大人しい薄鶸色(うすひわいろ)綸子(りんず)地に友禅と京()いで色鮮やかな蝶を舞わせた袷羽織(あわせばおり)と、明るい淡黄(たんこう)色が若々しい一越縮緬(ひとこしちりめん)の道行だった。春分を迎えたとはいえ、まだ春先。そうでなくとも、為斗子は“帯付き姿”で出かけるようなことはしない質だ。「塵除(ちりよ)け」にするものを決めかねて、為斗子は小首をかしげている。


「あの蔵元(くらもと)さんの家だろう? まだ寒いかもしれないし、羽織でいいんじゃないかな」

「色味もこっちの方が帯に合うよね、きっと。じゃあ、そうする」


 道行を畳んでしまい、為斗子はその背に蝶を舞わせる。ヒラヒラと、覆うように桜に染まる為斗子を取り巻いて、帯の桜草と蒲公英にとまる鮮やかな蝶。その姿を追って、イチシはそっと腕を伸ばした。いつもように、優しく柔らかく、背から為斗子を抱きしめる。


「……いってらっしゃい、楽しんでおいで」

「うん……ごめんね、一緒じゃなくって」


 為斗子が申し訳なさそうな表情を浮かべ、前に回された彼の手にそっと自分の手を重ねた。その少し怯え(・・)を感じさせるぎこちない手の動きに、イチシのまなじりが思わず和らぐ。



 ――それでいい。



 今日は、春の社日(しゃにち)。そして、為斗子の21回目の誕生日だ。

 去年は「法律上の成人」という大きな節目を迎え、後見人の二人を始めとする人々を招き、仕出し膳をとっての祝宴を自宅で開いた。功と佐保子さんが為斗子の為に誂えた振袖をまとい、為斗子は晴れて“独り立ち”を迎えた。それをイチシも側で見つめた。

 今年は、功の友人だった寒河江(さがえ)さんが為斗子を招き、祖父母に代わって祝ってくれるという。為斗子はその招待に応じ、今から隣市の酒造まで出かけるのだ。

 一緒に祝えないのは寂しい。だがイチシは、為斗子が望むことを遮るつもりはなかった。


 先日の“会計士さんの災難”から、まだ幾ばくも経っていない。

 為斗子の心が再び揺れ動き、イチシに対する(おそ)れと葛藤する心情が態度の端々に現れている。為斗子自身はそれほど動揺を隠すつもりはないだろうが、それでも彼を懸命に気遣い、平常を装う素振りすら心地よい。


 それでいい。

 心を寄せ、信頼し。

 それでいて(おそ)(はばか)りながら。

 彼が強く(こいねが)う“選択”に、心惑せていればいい。


 為斗子は、間違えていない。

 アヤカシの身――【化生(けしょう)】たる、そのありのままの在り方を。彼が望むように、心から望み側にあり続けることは、人の身では容易ならぬこと。

 今までの誰も“選べなかった”その選択を、そう簡単に決められるはずがない。


 初めてその手に触れた時から――ずっと待ち望んでいた時。

 その瞬間をひたすらに待ち続けているが、揺れる為斗子を見守ることも、また彼の幸せの一つ。

 為斗子の全ては、彼のもの……守屋の【化生守(けしょうもり)】は、喜びも、悲しみも、慈しみも、憎しみも、何もかもが化生たる彼のもの。

 為斗子の心が揺れ動くほどに、為斗子の心は()で染まる、彼だけ(・・)に染まる。

 その心の天秤に乗せられるものは、常に()に由縁するものだけ。他の何をも、乗せさせるつもりはない。


 知らず、為斗子に回した腕に力が入る。小さな嘆息が漏れ、添えられた為斗子の手が離れた。


「イチシ、苦しいったら」

「ごめん。でも寂しいから、つい、ね?」

「……だから、ごめんって。そんなに遅くにはならないつもりだけど……」

「朝帰りでなければ、何時でもいいよ。それでも私は待っているから」


 腕を解き放ち、為斗子に向かって拗ねた素振りでいたずらに微笑む。少しだけ罪悪感に染まる、為斗子の表情が愛おしい。ますます笑みを深める彼から為斗子はついと視線を逸らし、手回り品などの準備を始めた。イチシも部屋から出て広縁に戻り、再び三絃を手にする。

 為斗子の()の化生守――為斗子の祖父、功が愛用していた紫檀(したん)の三絃。材質だけで言うなら、為斗子が使っている紅木(こうき)のものの方がよほど高級品だが、功もイチシもこれをずっと使ってきた。功にとっては、若い時から手に馴染んだ愛用品。イチシにとっては、かつての()とかつての化生守(・・・)(よすが)の品だ。




 ……功は、彼を「ケラン」と呼んでいた。

 元々は『ケランジィ』だったのだが、結局は“長い”という理由で短縮された。

 長く息づいてきたが、和語や漢語ではない名を貰ったのは初めてだった。


 『ケランジィというのは、紫檀(したん)の木の名前なんだ。“シタン”だと、そのまま過ぎて面白くないだろう? ちょっと洒落てて面白いと思うんだが、気に入らないか?』


 まだ十代だった功の声が、心によみがえる。

 どんな“名”であっても。

 彼が選んだ(・・・・・)【化生守】が与えてくれた名は、常に大切な希望。

 いつまでも待つと誓った、幸魂(さきたま)の証。


 白い指が、黄色の糸を押し伸ばす。その名に相応しい、少し紫味の強い木肌色に浮かび上がる白と黄の鮮やかさ。

 あの(・・)小さな手が、その白い指を掴んだその時。

 役割を終えた、その名。


 その時を思い出して感じるのは、寂寥(せきりょう)ではなく歓喜だけ。

 あの日、あの二人が見せた、言いようもない表情すら、彼の喜び。

 なんの(よすが)も拠り所もなく、名も無きものとして生じ、やがて名を持ち、定めを巡る日々。継いでゆく生命と言葉を胸に抱き、天雲(あまくも)揺蕩(たゆた)う陰を追い、慈しみ、見送るだけの日々。


 それが、()の拠り所。






“番外編”の「故話」第二弾をお届けいたします。

この「故話」は、別名『為斗子には内緒』編。イチシ視点での過去話を中心に構成しています。

「本編」と密接に関係しますが、逆に「故話」の内容そのものは、本編とは連動しない……ハズです。裏話みたいなものです、予定では。


少し違った風情でお楽しみいただければ幸いです。



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《歳時のあれこれ:春社(はるしゃ)

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社日(しゃにち)

産土神(うぶすなかみ)を祀る雑節で、春と秋にある。それぞれ、春分と秋分に最も近い(つちのえ)の日。春の社日を『春社(はるしゃ)』、秋の社日を『秋社(あきしゃ)』と略す。

:ちなみに、今年(2017年)は三月二十二日でした。

:時期的にお彼岸の時期に取り込まれてしまうため、ほとんど意識されないのが残念。八十八夜や半夏生などと同じ、それなりに重要な雑節なんですけれどね。


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《和装のアレコレ》

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【為斗子のお出かけ着(洒落着)】

:長着は七十二候『(さくら、)始開(はじめてひらく)』に合わせて、桜づくしにしてみました。柄付けは少しだけの「飛び柄小紋」と呼ばれるものなので、洒落着扱いです。

:帯は塩瀬の染め九寸名古屋。糸目友禅に京刺繍のお太鼓柄。“染めの着物に染めの帯”の組み合わせは、あまり改まらないお出かけに向きます。

:『鶸色(ひわいろ)』は、黄味の強い明るい萌黄色です。春らしい綺麗な色です。桜草と蒲公英(たんぽぽ)も、典型的な春の柄です。控えめな風情の柄ゆきなので、作者は好きです。


帯付(おびつ)き姿】

:何かしらの“はおりもの”を纏っていない和装姿を『帯付き』と称します。

:本来、和装で外出する際には『背側の帯が見えない状態』がマナーです。つまり、必ず上に何かを羽織ります。防寒具としてのコートや羽織はもとより、ショール等でも構いません。夏でも必須なので、夏用の(しゃ)やレース地の羽織やコートなどもあります。


羽織(はおり)道行(みちゆき)で、悩む】

:女性の場合、共に防寒具としての位置づけです。しかし屋内における取り扱いが異なるため、為斗子が悩んでいました。

:「羽織」はジャケットなどと同じく、屋内でも着用したままで構いません。一方「道行」というものは和装コートの一種で、これは洋装のコートと同じく玄関口で脱いでから屋内に入ります。

:イチシは寒河江さん宅があまり暖かくないこと懸念して、屋内でも着ていられる羽織を勧めました。


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《邦楽のアレコレ》

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三絃(さんげん)の材質】

:一般的な三絃(三味線)の材質は、三種類あります。とはいえ、(どう)(共鳴胴:皮を張っている四角い部分)の材質はどれも【花梨(かりん)】という木を使います。異なるのは「(さお)」部分(糸を張った細長い部分)の素材です。

:高級な順に【紅木(こうき)】(インド南部原産のマメ亜科の銘木)⇒【紫檀(したん)】(ケランジィなど)⇒【花梨】の順。花梨材の三絃は初心者向けや練習用として、広く流通しています。紫檀や紅木は、中級~上級者向け。演奏会などではこれらを使います。

:紫檀と紅木はワシントン条約の指定を受けているため、国際取引が厳しく制限されていて入手困難になりつつあります。特に紫檀の輸入は絶えて久しいため、かなり貴重になってしまいました……。(本物の紅木三絃だと、七桁台の価格で流通しています……手が届かない……orz)

:「唐木(とうぼく)」としての紅木・紫檀・花梨と、植物学的な分類が一部異なる部分があります。「ケランジィ」は【銘木としての紫檀(したん)】の一種の材料となるツルサイカチ属の植物(低木もしくはツル性木本(もくほん))です。別名サイアミーズ・ローズウッド。



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