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よろず歌詠む、化生守の調べ  作者: 片平 久(執筆停滞中)
第一話【壱師の花の、いちしろく】 ~ 十五夜/鶺鴒鳴
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壱師の花の、いちしろく【後編】




 洗い物を終えて為斗子が客間に戻ってくると、イチシは縁側の柱に寄りかかり、祖父が残した三絃(さんげん)をつま弾いていた。調弦は本調子、象牙の(ばち)紫檀(したん)の胴で軽く動く。


「……遅かったね。月が隠れてしまうよ?」

「品数が多いと、洗うものも多いの。塗り膳はきちんと拭かないとダメだし、明日の下拵(したごしら)えもあるし」


 拗ねた口調を隠すことなく為斗子に不満を告げるイチシに、彼女は持ってきた熱い茶を渡す。彼は祖父とは酒を(たしな)んでいた記憶があるが、先頃まで未成年だった為斗子の前では酒に手を出さない。おかげで、すっかり茶の煎れ方が上手くなってしまった。


「功が生きていたら、三曲(さんきょく)で合わせられたのにね。為斗子、弾かない?」

「……今日はやめておく。しばらく爪もはめてないし、今からだと近所迷惑よ」


 祖父は邦楽の師範であり、為斗子には箏曲と三絃を教えてくれた。免状こそとってはいないが、皆伝曲を弾きこなせるほどの技能はある。祖父が生きていた頃、何でも器用にこなすイチシも交えて、何度も三曲合奏をこなした。

 祖父の胡弓、イチシの三絃、為斗子の箏。祖母だけを聴衆に、何度も弾いた。優しい思い出。今は聞く者は、誰もいない。


「月見の宵くらい、誰だって大目にみてくれると思うけれどね。風情があって、かえって喜ばれるんじゃないかな」

「……だとしても、今日は弾きたくない。イチシ、聞かせてよ」


 イチシと反対側の柱にもたれ、背を合わせるように為斗子は腰を下ろした。横から見上げる空には、月齢十三の中秋の月が冴え冴えとした光を注いでいた。



  シャン チチシャン チチ チーン テチチン

  チーン リレチン ツテ トーン ツ トロリン



 背後から、イチシが弾く三絃の音が響く。短い前奏が終わって、柔らかい前歌(まえうた)が静かに流れてくる。



 少女等(おとめら)が 玉裳(たまも)すそひく 此庭(このにわ)



 イチシの声は、祖父とはまた違う優しい響きを持っている。古曲が似合う祖父に対して、イチシは新曲(しんきょく)もまた馴染む。手事(てごと)ものは、やはり古曲の方が聴き応えがあり祖父の力量が目立ったが、地歌(じうた)はイチシの声の方が好きだ。



 トーン テーン トンテントン



 糸巻きのキュッという音がして、弾きながらの調子替えが終わる。本調子(ほんちょうし)から二上(にあ)がりへ。スリとハジキが軽妙に続く手事。緩徐(かんじょ)に始まったそれが、やがて間もない(ばち)と手の動きを備えて激しくなる。

 為斗子と月だけに聞かせる、イチシの奏。漸次(ぜんじ)に緩み、再び歌へ。繰り返しの後歌(あとうた)が、静かに夜の庭に響く。



 秋風吹きて 花は散りつつ


 ツーン チレツーン トテチーン シャーン



 和音を残して曲が終わる。再び戻って来た虫の音が、庭の萩にくぐもった。


「……『秋の庭』だなんて、イチシは結構ベタだよね」

「手軽でいいだろう? 『黒髪』でもいいかと思ったけれど、季が違い過ぎるのは野暮だからね。佐保子さんが好きだったね、この曲。二人とも、為斗子のことを重ねていたんだと思うよ」


 この客間から庭を九十度に挟んだ向かいは、祖母の仕事部屋だった。縁でこの曲を爪弾く祖父と、仕立ての合間に手を休めてそれを聞く祖母の姿を、為斗子は何度も庭で見た。イチシと一緒に秋草を摘みながら、為斗子はそんな祖父母の暖かい視線にいつも包まれて暮らしてきた。


 今、為斗子を見つめる相手はイチシだけ。



* * * 



 決めきれない自分がいる。


 守屋の家に伝わるこの化生は、その傍らに在り続ける人間を望んだ。いつ生じたのかさえ自分でも分からぬ化生としての(せい)を、ただ一人の相手として共に在る人間を望んだ。

 代々の守屋の【化生守(けしょうもり)】達は、幼い頃から傍らにあってそれを望む彼を前に、結局は別の人間との生を選んできた。祖父も、また。


 為斗子は、まだ選べない。

 選べるほどの“他人”を知らない。彼女の生来の気質が、滑稽なほどに人との接触を怖がる。祖父母とイチシだけの生活が、それに拍車をかけた。

 祖父は、いまわの際に為斗子に密かに謝った。

 何としてでも、お前を外に出すべきだったと。無理ことだと分かっていても、なお。


 一歳にもならない内に離婚した父母。かたくなに親権を拒絶した母は、まもなく事故死したらしい。乳飲み子を連れて戻った息子を祖父母は歓迎したが、父はまもなく失踪した。思うところがあったのだろう。祖父はかなり早い段階で父の失踪宣告を行い、為斗子が中学にあがる前には、為斗子の肉親は祖父母だけとなっていた。母方から否応なしに相続した財産もあり、為斗子が望めばこの家を離れた暮らしは可能だった。

 実際ある時期の半年ほど、為斗子はこの家を離れて暮らしたことがある。祖母の姉が嫁いだ先の、義妹の息子夫婦、という、血縁とも親族とも呼びきれないほどの家に、しばらく居候の身となったのだ。ちょうど為斗子は中学にあがったばかりで、どうしても学校の集団生活に馴染めず、不登校の一歩手前だった。それを案じた祖父母の計らいだった。

 居候先は温かな中年夫婦の二人暮らしで、為斗子は初めての“他人”との暮らしに、思ったよりもスムーズに馴染んだ。子のなかったその夫婦は、為斗子さえ望めば、親権はそのままに為斗子を“娘”として迎えたいと望んでくれた。

 心が揺れなかったわけではない。だがその暮らしは、半年後に訪れた夫婦の交通事故死という悲劇と共に終わりを告げた。


 再び守屋の家に戻った日のことを、為斗子は今も覚えている。


   『おかえり、為斗子。辛かったよ』


 そんな言葉で迎えてくれたイチシの瞳を見て、為斗子は不意に悟ったのだ。

 自分は――守屋の【化生守(けしょうもり)】となった者は、どうやってもこの化生から逃げられないのだと。そして自分も逃げたくないのだということに。




「……イチシは、今、幸せ?」

「幸せといえば、幸せだね。望みが叶うかもしれない希望がある内は、幸せと感じられるものだよ。人でなくとも、思いは同じじゃないかな」


 演奏で緩んだ糸巻きを締めながら、イチシは綺麗に微笑む。この化生は、どれほどの長い年月をただ望みながら息づいてきたのか。


「功が佐保子さんを選んで……生まれた子はとても望む者ではなくて……また長い年月を待たなくてはいけないと覚悟したけれど、今はこうやって為斗子が居る。私は幸せだよ、為斗子。それが為斗子の不幸の上に成り立つものであったとしても、私は幸せだよ」


 化生らしい残酷な言葉。長い孤独を生きたこの化生は、孤独が生み出すものをよく知っている。

 奪われた温もりの記憶が、残るものを求めることを。


「為斗子。何度でも言うよ。私は為斗子に“幸せ”を与えてはやれない。でも独りにはしない。為斗子が独りにならないために、私を選んで」


 この化生が望むことはただ一つ。いつ果てるとも知れない化生としての生を、ただ静かに共に生きて欲しいだけ。


「……勝手なことを言わないで」


 為斗子が見つめる先はイチシではない。庭の片隅を、ただ睨むように見つめる。

 イチシは手の三絃を置き、柱越しに為斗子を抱きしめる。為斗子も抵抗しない。静寂が、月光と共に揺らめいた。



「……独りにしないで、為斗子。お願いだから独りにならないで」



 人間であっても、化生であっても。

 孤独は怖い。



「勝手なことばかり、言わないで……私は独りじゃない。イチシがいるもの」


 為斗子の視線の先で、彼女が植えた白い曼珠沙華(マンジュシャゲ)が月光を映す。幼い日に為斗子の手をとったイチシの指のような、白く美しい花。

 新たな名を、と望まれた時。ずっと胸に抱いていたその気持ちを、名に込めた。



 曼珠沙華の別名は、壱師(イチシ)の花。


 花言葉は――『想うは、あなた一人』



 まだ選べない。もう少し、この幸せを感じていたいから。

 選んだ先の、得体の知れない未来が怖い。

 今の「目に見える幸せ」を、為斗子はまだ手放せなかった。


「……イチシ。私だって、あなたの不幸の上で、幸せを感じてる」


 箱庭の幸せは、互いをどこかで傷つけている。

 月光が照らし出すその庭に揺れる為斗子の心の化身は、花の後に葉が茂る。秋に花咲く後の、葉だけの寒い冬の季節を、為斗子はただ怖れる。


「為斗子。私の不幸は、ただ待つことじゃないよ」


 為斗子の肩にその顔を埋めて、イチシはその腕に力を込めた。


「いつまでも待てる。自分がこの世で独りではないのだと、信じられるのならば」

「……イチシ」


 月は傾く。いつしか虫の音も止んで、肌寒さが襲ってくる。化生のくせに温かいその腕の中で、為斗子は言葉に出せない想いだけを呟いていた。



 ――待たないで。私の“次”を、待たないで。



 それを言葉にできるまで、箱庭の幸せは続いていく。







秋月忍様のエッセイ『ネタの細道』<http://ncode.syosetu.com/n1567di/>内で頂戴した【大根を買いに行く】から始まる物語、というネタを元にした、勢い余った突発作品です。本来、別のネタで書いていましたが、そちらがうまく進まないため生み出された産物です。

登場人物(とその設定)自体は以前から抱いているものの一つですが、まさかこんな形でデビューさせることになるとは思いませんでした。

「季節を感じる、和風の情景」をメインにした作品群用の設定です。お楽しみ頂ければ幸いです。




◆作中用語の蘊蓄フォロー◆(読み飛ばしていただいて問題ありません)


壱師(いちし)(はな)曼珠沙華(まんじゅしゃげ)彼岸花(ヒガンバナ)、です。


萬葉集にある「壱師の花」をヒガンバナとするか否かには定説はありませんが、有力な説として採用しています。ヒガンバナは史前帰化植物の一つとされ、冗談みたいに別名・異称の多い花です。『日本植物方言集成』(八坂書房)では、方言・異表記を含めて実に八ページにわたり約四百以上も紹介されています……多過ぎる。


為斗子(いとこ)の名前は、箏曲由来。

十三絃の「そう」では、一~十番目までは漢数字で呼びますが、十一~十三番目の絃は順に「()」「()」「きん」と呼びます。元来は順に「じんれいしんぶんらんしょう/斗/為/巾」でした。うん、八犬伝の世界です。

なお一般に「お(こと)」と呼びますが、本来の「琴」は「(きん)」であり、絃の数も奏法も大きく異なります。和琴(わごん)なら六本で(ばち)を用い、古琴(こきん)なら七本で()は使いません。


作中の三絃(さんげん)(三味線)曲は、宮城道雄の『秋の庭』。たしか中傳(ちゅうでん)曲で、歌詞は萬葉集由来です。


一般的には「三味線」と称しますが、邦楽関係者(地歌箏曲)は「三絃(さんげん)」と呼びます。いわゆる中棹(ちゅうざお)三味線です。長唄や歌舞伎の伴奏で用いるのは「細棹」、津軽三味線などは「太棹」と呼んで区別します。

本調子(ほんちょうし)は一の絃からD-G-D、二上(にあ)がりはD-A-Dの壱越(いちこつ)調弦のことを指します。この曲に限らず、地歌箏曲には途中変調(演奏しながら調弦する)曲が数多くあります。うっかり忘れたり間違えると悲惨です。

譜面が手元にないので口三味線部分があっているかどうか、多少不安がありますが、雰囲気のみでお楽しみ下さい。

和モノ、万歳。邦楽、万歳。





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