人ぞささやく、汝が心ゆめ【其ノ参】
顔を伏せてじっと膝上におかれた手を見る為斗子を、年長者の気遣いに溢れた瞳で見つめながら、柏原さんは最後まで続けた。今までは後見人の二人も同席する立場であり、差し出がましいと控えていたのだろう。ずっと気遣っていたのだと言わんばかりの口調で、彼は優しい口調で厳しいことを告げた。
「でもね、為斗子さん。矛盾するようですが、だからといって“誰とも触れ合わない”ということが正解だとは、僕は思いません。為斗子さんはまだ若いんです。これから、自分が共に生きる人を探していかなきゃいけない。目の前に現れる人すべてを穿った態度で見て独りで生きるなんて、そんなのは嫌でしょう? 為斗子さんがこの家に閉じこもってしまうのは防御なのかも知れません。ですが、僕はそうは思いません。それは、単なる問題の先送りです」
案じているからこその厳しい言葉。こんな言葉をかけてくれる人が居ることが、為斗子にはありがたい。素直に肯くことは出来ないが、心には染みいる。
「……もっと人と接して、いろんな経験をして。泣いて、笑って、怒って、憎んで、喜んで。誰もがそうやって、手をとる相手と巡り会うんです。
為斗子さんは、誰かに泣かされたり、誰かを恨むような経験もすべきなんです。今はまだ、長岡先生や醒ヶ井さんの手助けが受けられる。その内に、為斗子さんは多くの人と接するべきだと僕は思いますし、そう願います」
『安定した顧客を失いたくないですからね』と、最後にはいつもの茶目っ気のある表情に戻って、柏原さんは口を閉じた。為斗子はただじっと、その手元を見つめるだけだった。
いつの間にかイチシは広縁に立っていて、冷たい表情で二人を見つめている。その瞳の奥に揺らめくのは、利己的で酷薄な意志。
柏原さんに悪意がある訳じゃ無い。それは心底、為斗子を気遣ってのことだ。
それでも……いや、それだからこそ。
それは、イチシが最も許すはずの無い、為斗子への干渉。
彼女が他人と接することを望む、人間として真っ当なまでの心遣い。彼女が「孤独」でなくなるように望む、善意からなる願い。
為斗子が、“他の誰かの手をとり、他の誰かとの生を望む”可能性を引き寄せる、その干渉。
「…………柏原さん。お心遣いは嬉しいのですが、私のプライベートには関わらないで下さい。若さ故の愚かさに見えるでしょうが、私には私なりの生き方があります……それが、他人から見て変であったとしても、私は“今”がいいんです」
「為斗子さん、僕は……」
「柏原さん、心配して下さって、ありがとうございます。でも……本当に、今の私は、幸せなんです。私は“独り”じゃないんです」
半分は自分に言い聞かせるように、半分は心の底から思うことを、なるだけ硬質な声に聞こえるように口に出す。『私に、それ以上構わないで』という意志を、きちんと伝えないと。
自分を気遣ってくれる人がいることは嬉しい。醒ヶ井の奥さんもそうだったが、為斗子は真実「人嫌い」という訳では無いのだ。単に苦手なだけ。善意から来るつながりの糸は断ち切りたくない。世間から完全に切り離されて、箱庭にこもりたい訳じゃない。
祖父母は、広い世の中の厳しさも美しさも教えてくれた。人と接しながら生きる辛さと喜びも教えてくれた。【化生守】としてだけではない、自分の「幸せ」を考える選択肢を与えてくれた。
だからこそ、まだ“選べない”のだ。祖父母が与えてくれたものがあるから。
祖父は、選ばなかった。為斗子は、その選択の果ての“幸せの姿”を知っている。
そして、そのことをイチシも知っている。
誰よりも知っているだろう、この“誰からも選ばれてこなかった”化生は。
だからこそ、イチシは為斗子を“孤独”に追いやるのだ。自身の望みを叶える為に。
彼が望むものは、常に「アヤカシとしての自分の幸せ」――為斗子の幸せ、ではない。
彼はそのことを隠しもせずに言葉にする。きっと、祖父や代々の化生守に対しても同じだっただろう。その上で、選ばせるのだ。アヤカシである自分と共に在ってくれるか否かを。
「為斗子さん、気分を害されたなら申し訳ない。出過ぎた真似でしたね……」
「いえ……本当にお気持ちは嬉しいんです。でも、私はやっぱり今の生活が気に入っています。他人が何と言おうと、私は今のままがいい。今の、変わらない日常がいいんです」
為斗子は視線を広縁に向ける。柏原さんには、心境を隠す為に視線を逸らしたように見えるだろう。だが、為斗子は凛然とした意志をもって、イチシの目を見上げた。酷薄な笑みを浮かべていたイチシの表情が、スッと変わる。ちょっと困惑したような、悲しげな表情。じっと視線を逸らさない為斗子を見て、イチシの口元が苦いものに変わる。
伝えたいことは伝わったようだ。柏原さんからの干渉も拒絶するが、イチシからの干渉も拒絶するのだという意志。
『彼に、何もしないで』
――もう、自分の所為で、善意を寄せてくれる誰も失いたくない。
最後の方は微妙な空気になってしまったが、やるべき事を済ませて今日の会合は終わった。恐縮した風情の柏原さんを門まで見送り、為斗子は踵を返す。玄関まで戻ったが、黒竹の庭木戸の奥に藍鼠色が佇むのを見て、そのまま奥に向かった。イチシは白侘助の木の向こう、南西の角にあたる板塀の隅で何かを見ていた。
「…………イチシ……?」
「ん、為斗子? あの税理士さんは帰ったの?」
「うん……どうしたの、イチシ?」
柏原さんが退去する前に見せた、困ったような苦い微笑みはもう無かった。それでも、いつもよりは少し寂しそうな風情を醸し出しているイチシが少し不穏で、為斗子は思わずその袖に縋った。衿合わせが少し乱れて、白い半襟に対比する長着と同じ藍鼠色に染められた狢菊柄の襦袢が僅かに覗いた。
「こら、為斗子」
「あ……ごめん。ちょっと強く引っ張りすぎちゃった」
その手が合わせを戻す。棒襟をシュッとなぞる白い指が、そのまま為斗子の髪に伸ばされた。いつもと同じ、優しい手付き。今の、変わらない日常の上にある、どこか歪んだ幸せ――
「……何を見てたの?」
「ん? ああ、ここ。咲いたね、と思ってね」
イチシが指さした先で、黄色の小さな花が数輪、午後の弱い日差しの影に姿を見せていた。南西側の壁沿いであるため影になる時間が長い分、ちょっと遅く咲いたクロッカス。守屋の庭では珍しい、色花だ。
「これ、イチシが植えたの?」
「ふふ…………功や佐保子さんでないことは確かだね」
何故かちょっと誤魔化すように、イチシは笑う。……祖母が生前地植えした花木は、全てが白花だった。この庭で色花を咲かせるものは、為斗子が植えた鉢植えのものばかりだ。だが、このクロッカスには覚えがない。
「……勝手に咲くような花じゃないよね、これ」
「球根植物だからね」
スッと腰を落とし、イチシはその一輪を手折る。咲いたばかりの小さな黄色は、白い指の中で鮮やかに揺れた。そのままその指が、為斗子の耳脇に伸ばされる。左の耳元に差し込まれる感触。花を耳にかけて飾るなんて、まるで子供のよう。
「……うん、似合うよ。黒髪に黄色が映えるね」
「お花が勿体ないよ、イチシ……」
何故か満足げな笑みを浮かべて、イチシは微笑んだ。愛おしげに為斗子を見つめるその瞳には、先ほど一瞬だけ見せた酷薄さや、独り佇んでいた際の儚げさは、微塵も無い。あるのは、満ち足りた情愛だけだ。
その気配に何だか毒気を抜かれて、為斗子は柏原さんとの会合での話を蒸し返すのを止めた。
『何もしないで』――だって、私は独りじゃない。だって、私は幸せなんだから。
春 来 遍 是 桃 花 水
不 弁 仙 源 何 処 尋
イチシの、静かな突然の朗詠。
詠まれた漢詩は為斗子の全く知らぬものであり、当然その意味も分かりはしない。問い質す視線に、イチシはただ謎めいた言葉と親愛に満ちた視線を向けるだけだった。
「……え、何?」
「――――為斗子が、私の仙境だよ」
それ以上何も言わず、イチシは為斗子の背を押して、玄関に導く。耳にかけた花が落ちないように、為斗子もゆっくり並んで歩きながら家の中に戻った。為斗子を優しく守ってくれる、その場所へ。
* * *
弥生三月。
明日の上巳の雛祭りを控え、為斗子は行事食のため一人買い物に出た。
運転免許も持たない為斗子にとっては、何とか徒歩圏といえる範囲に大きなスーパーマーケットがあるのはありがたい。自転車には乗れるが、中学校を卒業して以来乗っていないし、すでに所持もしていない。高畠さんからは『身分証明書にもなるし、せめてスクーターくらい……』と運転免許の取得を勧められたこともあったのだが、結局とらないままだ。
別に不便を感じたことはないが、それでも大荷物になるような日は多少心が動く。今日も、ちらし寿司の材料となる海産物の鮮度を思い、苦笑する為斗子だった。
売り場の品々もすっかり雛祭りモードで造花の桃が揺れる中、数々のひなあられが可愛らしいパッケージで子ども達を誘っていた。
「うーん……国産は高いなぁ……」
鮮魚コーナーで、潮汁に使う蛤を選び、ちらし寿司を彩る海老とイクラ、そして鯛とマグロの刺身を見繕う。量はそれほど必要ないので、盛り合わせになっているものを一パックだけ。蓮根や金時人参はあるので、あとはサヤインゲンと木の芽と、潮汁用の三つ葉。カニのほぐし身は高いので、カニ風味のかまぼこで誤魔化す。桜でんぶは可愛らしく華やかになるが、為斗子はあまり好まないので入れない。
頭の中で、明日の午前中の段取りを考えながら、為斗子は棚を巡って他に必要な品々をカゴに収めていった。夕方前のレジは込んでいて、数人が列を成している。為斗子の前には、近所の園児服を着た女の子とその母親らしき二人組。明日の主役になるのであろう女児は、楽しそうに母親の持つカゴを覗き込んでいる。
「ねえ、おかーさん? どうして、ハマグリなの? ゆみ、アサリがお水をぴゅーって吹くのが好き!」
脈絡がありそうでなさそうな問いかけに、後ろで聞いていた為斗子の頬が思わず緩む。母親らしき女性も柔やかに笑いながら、娘の頭を撫でていた。
「んーとね。ハマグリっていう貝さんはねー、上の貝殻と下の貝殻が、とっても仲良しさんなのよ。他の貝殻さんとは、ひっつかないの」
「えーーっ、仲間はずれ?」
「そうじゃなくって、2つがいつも仲良しで、ずーーっと一緒にいようね、ってことなの。だから、おひな様の日に食べて、ゆみちゃんにもとっても仲良しさんが出来るといいねって願うのよ?」
「ゆみ、おっくんがいい!」
「あらあら、おとうさんには内緒にしておこうね」
微笑ましい会話。順番がきて台にカゴを載せた母子を、レジの人も温かい笑顔で迎えていた。為斗子も胸に温かなものを感じながら、彼女らを見送り自分の会計を済ませた。
手に荷物を持っての帰り道。袋の中で、蛤の殻がカリカリと音を立てる。
――蛤の殻は、同じ貝のもの以外とは合わさらない。だからこそ、古来より「貝合わせ」といった遊戯に使われてきたのだ。夫婦和合の象徴として、雛飾りの御道具にも合貝の入った貝桶が必ずある。
他の誰とも合わさらない、唯一の相手。
為斗子の胸に微かな痛みが走る。
【化生守】である自分は……その貝殻なのだろうか。
イチシは――あの化生は、ただ傍に在って共に生きてくれる人間を望む。望む相手を、年を経て、代を経て、見出し、そして見送ってきた――。
一体自分は、何人目の化生守なのだろう。
初めてその思いを抱いて以来、為斗子の心に突き刺さったままの棘。
自分が選ばなければ、彼はその次を待つだけだ。
……彼には「次」があるのだ。
なのに、為斗子には無い。
彼を「イチシ」と呼ぶのは為斗子だけだったとしても。また「次の誰か」が、彼を別の名前で呼ぶ。
【イチシ】は為斗子だけのもの――しかし、アヤカシの君としての彼は、為斗子のものではない。
「次」を待って欲しくない。貝合わせの殻のように、他と重ならない存在でありたい。
けれども、それは為斗子にはどうしようもない、長い長い過去との戦いなのだ。誰も見たことの無い、先の見えない永久に続く未来という、闇。……まだ、何も見えない。
「……本当に、私って……なんで、こんなに……」
知らず、視界が滲む。
自分の弱さが、自分の狡さが、ただひたすらに愚かしい。
“選ばなかった先の、人としての幸せ”に心を動かされながら、それでも“次を待つ、彼”を見たくない。
真綿に包まれて、優しい箱庭で守られて。ずっと甘えてきたけれど、それを怖いと思う自分もいる。
揺れ動いて定まらない、自分の心。
変わらず心にあるのは、曼珠沙華に似たイチシの指の白さと、背を温かく包む腕の優しさの記憶。
雫が一つ、まなじりから零れてアスファルトに落ちた。二つ目の雫を指で拭い、為斗子は空を見上げる。春は名のみの、冬の空。それでも微かに青が霞んで見える。
いつかは選ばなくてはならない。でも、それは今じゃない、と信じたい。
そんなことでは、何一つ成りはしないと、誰に言われようとも。
為斗子が“今”選ぶのは、ただ続いて行く“選ばない”日々。
『汝が心ゆめ』とは、誰も言ってくれないとしても――。
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《花のアレコレ》
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【クロッカス】
:花言葉『あなたを待っています』
:黄花の花言葉『私を信じて下さい』
【耳にかけ飾る花】
:ハイビスカスやプルメリアなど、ハワイやポリネシア系でよく見られる耳の花飾り。【右の耳にかけるのは「恋人募集中」、左の耳にかけるのは「既に相手がいます」の目印】なんだそうです…………ふっふっふっ。
……イチシさん「実は“思考が乙女”疑惑」発生中。うん、青花のクロッカスでもよかったかも。(※青花の花言葉『あなたを心配しながら信じます』)
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《作中の詩歌:漢詩》
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王維の『桃源行』です。出典は『和漢朗詠集』三月三日付桃花、より。
「其ノ壱」の前書き詩歌などと合わせて、最終話の後書きで紹介いたします。




