人ぞささやく、汝が心ゆめ【其ノ弐】
二月もあと数日で終わろうとする頃、為斗子は客を迎えて雛の間にいた。例年の行事というか作業ではあるが、後見人の付き添い無しでやり取りをするのは初めてのことで、為斗子はやや緊張した面持ちだった。
「いやあ、やはり華やいでいますねえ。最近は、親王飾りというんでしたっけ? お内裏様しかいない雛飾りが多くて残念ですが、やはり本式の方が見栄えがいいですよ」
「でも、家のも御殿飾りですから。七段飾りの方が、迫力がありますよね?」
「それはそれで。古風な御殿飾りというのも悪くないですよ。とはいえ、僕もこの家で初めて見たんですけれどね」
カラカラっとした軽快な笑い声をあげる彼に茶を出して、為斗子は向かい合わせの上座に腰を下ろした。軽く頭を下げて一口だけ茶に口を付けると、彼は大きな鞄からいくつもの書類を取り出してゆく。
「ええっと。今年から初めて為斗子さんだけ、ということになりますが。大丈夫ですか?」
「はい、柏原さん。基本的には、去年までと何も変わらないと聞いていますが……何か難しいことがあるのでしょうか?」
「いいえ、そんなことはありませんよ。一つだけ管理会社が変わった物件がありますが、それ以外は昨年と同じです。昨年に長岡先生と醒ヶ井さんとも一緒の時にご説明しましたが、条件その他は変わらない変更ですので、税処理上も特に変更無しです」
赤い附箋が付いた一組の書類を引き出してきて、柏原と呼ばれた中年男性は為斗子に説明を始めた。指で示された項目に目を通す。
柏原さんは、祖父の代からこの守屋の家の税務処理を委託している税理士さんだ。見かけは普通の気のいい小父さん風だが、司法書士の資格をも取得している優秀な人材らしい。実際、仕事に関しては間違いが無く、誠実でそつがない。祖父も安心して確定申告を始めとする税務処理を任せており、祖父亡き後の祖母も、その後に為斗子の未成年後見人となった醒ヶ井の先代と顧問弁護士の長岡さんも、そのまま彼に守屋の会計処理は委任してきた。
和裁士としての為斗子の収入は、何とか自分の口を満たすことができる程度の些細なものだが、守屋の家は違う。代々の地所を基盤とした賃貸経営が主であり、いわゆる不労所得を得ているのだ。とはいえ、祖父も為斗子も直接管理には携わってきておらず管理会社に任せっきりで、法務手続きは弁護士の長岡さんに、そして会計処理は全てこの柏原さんに間に立ってもらっている状態だ。
去年の確定申告までは為斗子は未成年であったので、基本的には醒ヶ井さんと長岡さんが同席して彼らの承認が必要であったが、今年から説明を聞くのも押印するのも、為斗子一人。去年はそれを見越して、彼らが同席する中で一通りの説明やら段取りの確認をすませているので、為斗子にとっては実質“2回目”に等しい。それでも隣りに誰もいない、というのは心細い。――いや、イチシが為斗子の斜め後ろに座して、柏原さんの言葉や資料などを逐一確認しているのだが、直接姿も見せず口を挟む訳ではないので、面と向かって頼る訳にはいかないのだ。
では、順番に……と前置きして、滑らかな口調で柏原さんが一つ一つ説明と確認を求めてくる。ややゆっくりした口調で、手際よく書類を繰り出してくる様は、経験豊富な職業人としての安心感に満ちていた。
為斗子はただひたすらその説明を聞き、目の前の書類の文字を追う。時折、不自然に書類が動いたりしない慎重な動作で、イチシが書類の一部を指で示してくれる。そこは今説明がされているところであったり、または為斗子が柏原さんに説明を求めるべきところであったりするのだが、何から何まで頼りっぱなしのようで若干の後ろめたさがある。
やがて一通りの説明が済み、自著捺印が必要な書類の番になった。再度、一つ一つを確認しながら為斗子はペンで名前を記し、普段はあまり使うことの無い印鑑を押してゆく。そのうちにやることがなくなって飽いたイチシが、邪魔にならない程度のちょっかいを出してきはじめた。
署名しようとすると、ペンを卓の下に転がして落とす。押印する為斗子の手を覆うように、一緒に手を添えてくる。柏原さんに不自然に見えないよう気を遣いながら、為斗子が肘でイチシを押して咎めるが、イチシは悪戯な笑みを浮かべてますます興に乗るばかりだ。
しかし、イチシがこのような行動に出ると言うことは、現在のやり取りが、為斗子にとっても、そしてイチシにとっても“不愉快な言動ではない”という証拠であり、為斗子は気張っていた気分が少し和らぐのを感じた。
「……これで最後ですか?」
「そうですね。いやあ、為斗子さんは飲み込みが早くて助かります。おかげで毎年ラクをさせて貰っていますよ。正直、ウチの事務所は守屋さんのところの顧問料あっての安定収入ですからね」
トントンと書類をまとめ揃えながら、柏原さんは屈託のない笑い声を上げた。悪く言えばあけすけで飾ることのない彼の言動は、為斗子の若干苦手とするところではあるが、嫌みは感じない。為斗子もほっと一息ついて、座卓の上を片付け、軽く拭いた。
「今、お茶を煎れ直しますので」
「じゃあ、遠慮無く。しばらく、このお雛様たちを堪能させて貰いますよ。いやあ、僕も娘が欲しかったなあ」
まだ四十代の彼には、中学生と高校生の息子が二人いるという。生意気盛りで可愛げもなければ彩りもないのだと零しながら、柏原さんは出された茶菓子を頬張った。
雛御殿が飾られた床の間には、花桃と立雛が色鮮やかに描かれた軸が飾られ、付書院には祖母お手製の吊るし雛が揺れる。床柱の掛花入には一枝の白梅。そこから仄かに芳香が漂う。
確かに華やいだ風情は、息子ばかりの家庭では味わえないものなのかも知れない。どこか羨ましそうに雛飾りを眺める柏原さんは、煎れ直した茶をすすりながら破顔した。為斗子も自分の分の茶を置き、仕事の話と世間話に付き合う。
しばらくは真面目な話――守屋の地所についての動静や、会計上の動きなどのざっとした報告をしていた柏原さんだったが、例年特に波立つことも無い財政事情。“化生守の家”である守屋が財政的に困窮したことは一度もなく、大きな問題にさらされたこともない。常に世の権威からは遠く離れてきたが、分限者としての立場が揺らいだことは一度もないのだ――この世のものならぬモノのおかげで。
「守屋さんの地所というか、客筋は安定していて助かります。僕は本当にラクさせてもらっていますよ。同業者の話などを聞くと、いろいろと大変なケースも多いのでねえ」
「祖父よりも前からの付き合いばかりらしいですから……私は全く関与していませんし、そもそも書類上でしか存じ上げない方々ばかりですから」
多くが長期契約の商業地や駐車場などである地所のため、為斗子の代になってから新しい契約があった訳では無い。駐車場も直接運営するのではなく別に管理会社があるので、正直なところ為斗子は全く経営管理には関心を持っていなかった。毎月柏原さんから送られてくる会計報告書と、半年に一度、後見人の二人を交えて行われた監査。それだけが為斗子と“守屋の財”を結びつける時間だった。
「……でもね、為斗子さん。もう成人されたことですし、もう少しきちんとご自身で関心を持たなくてはいけませんよ。そして、もっと周囲を……外の世界にも関心を持って、他人に目を向けないと」
二杯目のお茶を飲み干してから、柏原さんは珍しく真面目な顔になって為斗子に向き合った。いつもの安心感を与える朗らかな表情とは違う見慣れぬ様子に、為斗子は思わず姿勢を正すと同時に、内心ビクッとたじろいだ。
「嫌な言い方をしますけれどね。世の中、いくらだって悪い人はいるんです。成人された今、為斗子さんのサインと印鑑一つで、何だって有効になってしまうんですよ。……まあ、今日の様子を見ていると、為斗子さんは何の説明も聞かずに判を押してしまうような迂闊さはなさそうですが。それでも、ご自身の持つ“財”の魅力を自覚しておかないと。脅かすようですけれどね、僕がその気になったらゴッソリと着服することだって出来てしまうのですよ?」
「……分かっている、つもりです……」
「…………今まで“何も無かった”わけじゃないことは、長岡先生から聞いています。ですが、先生も醒ヶ井さんも、もう法的な後見人じゃない。悪意に気付かないままに為斗子さんが望んでしまったことを、後から覆すことは難しいのですよ」
――そう。“今まで、何も無かった”わけじゃない。
祖母が亡くなり、為斗子の周りに血縁者が居なくなった頃。そして去年、成人した直後。
為斗子の周囲には、次々と良からぬ思惑を持つ人々が姿を現した。
ある人は親しみを前面に押し出し、ある人は情に訴えかけ、ある人は弁舌巧みに為斗子を騙そうとした。
『独りで、不安でしょう』
『独りになって、寂しいでしょう』
そんな言葉を、偽りの優しさや善意の仮面に乗せ、彼らは為斗子の内に入り込もうとした。彼ら悪意を持つ者達からすれば、まだ若い、学も無い女一人。容易な獲物に見えたことだろう。
だが彼らは知らなかったのだ。
守屋の家は“化生の在る家”。そして為斗子は【化生守】――途方も無い長い時を守屋の血脈と共に歩んできた、アヤカシに守られた存在であることを。
なにしろ為斗子自身が、他人を容易には近付けない気質だ。極端なまでに「必要の無い人付き合い」を避ける為斗子と接点を持つこと自体が、そもそも容易ではない。既に見知った人々との最低限の交流しか持とうとしない為斗子の前に現れる為に、彼らは既に無理をしてきている。そんな不自然さに気付かない程、為斗子は愚かでもなかった。
それでも世の中には巧者がいる。
為斗子に疑念を持たれない程度には自然に、そして上手く悪意を隠して近付くことに成功した事例もあるのだ。成人前に一人、成人後に二人――いや、先秋の垂井さんを含めれば三人。
彼らはいずれも不首尾に終わった。
イチシが、それを許さなかった。
全員がその生命を失った後で判明した悪意の事実を、追って警察や関係者から知らされた為斗子はただ無言でそれを受け止めた。事情聴取に同行した弁護士の長岡さんも、淡々と処理していた。
『…………以前から聞かされていたのですよ。信じるか信じないのかは別として、守屋には不思議があるのだと。為斗子さん……お祖父様は、貴女が“望まぬ他人の悪意に泣き、憎しみをもつ”ことは決してない、と断言されていました。醒ヶ井さんも何かご存じなのでしょうね……今回も一つ頷かれただけでしたから』
二人目の不審な事故死の結果を警察署で説明された帰り道、長岡さんは少し遠くを見た後、うかがうように顔を向けた。誰もいないはずの為斗子の背後に視線を向け、やがて一つ溜息を落とす。それ以上、彼は何も言わなかった。
その場にイチシが居た訳ではない。きっと彼は、彼自身の理解として知る“為斗子の背後にいるかもしれない何者か”を畏れただけなのだろう。三人目の時には溜息を漏らすことすらなかった……さすがに先秋の垂井さんと醒ヶ井の奥さんの件では、目に多少の動揺が見えたが、それだけだった――。
それが“守屋と関わるということ”なのだった。
《脇方・登場人物名の再紹介》
【醒ケ井さん】(先代)
:祖父・功の知人で、為斗子の未成年後見人だった一人。
【醒ケ井の奥さん】(醒ケ井舞子)
:先代の息子の妻。第二話の登場人物。
【垂井さん】
:醒ケ井の奥さんの実弟。第二話の登場人物。
【長岡さん】
:守屋家の顧問弁護士。為斗子の未成年後見人だった一人。
【柏原さん】
:守屋家の顧問税理士。今話の登場人物。
【高畠さん】
:隣市の地唄箏曲教師(師匠)で、祖父の最後の弟子。第三話で登場。
【寒河江さん】
:祖父の友人。酒蔵の主。第三話で登場。
★為斗子の未成年後見人は、醒ケ井(先代)と長岡の二人です。
現行民法では、2012年から複数後見人が認められるようになりましたが、それ以前は単独でしかなれませんでした。よって時系列的に、為斗子の後見人が2名なのはギリギリのタイミングです。そこはご容赦下さい。