ゆかし懐かし、やるせなや【前編】
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昨夜の夢の 今朝覚めて
床し懐かし やるせなや
積もると知らで 積もる白雪
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地唄『黒髪』より 作歌者不詳(※地唄編曲:湖出市十郎)
「お勤め賜り、ありがとうございました」
数寄屋門までお坊さんを見送って、為斗子は深々と頭を下げた。祖父の祥月命日の今日、守屋の菩提寺の住職にお経をあげてもらって、まずは一つ行事が済んだ。寒空の中、原付スクーターで袈裟をたなびかせ颯爽と去って行く住職の姿は、いつ見てもどこか可笑しい。その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで道路で見送り、続いて帰る参列者――醒ヶ井の先代に謝辞を述べた。
昨秋の不祝儀――現当主である息子の嫁とその弟の事故死――のこともあり、先代は少し老けが増した気がする。四十九日が過ぎるのを待って年末に弔問した時よりも、髪に白いものが増えた。年忌の“お返し”を渡し、タクシーに乗るところまでを見届けて、為斗子は再び仏間に戻った。
法要を終えたばかりで、仏間と続きの客間には線香の薫りが漂う。いつもよりちょっと高級な薫りは、不思議と心が落ち着いた。座布団と茶器を片付け、ささっと周囲を払う。お供え物をいったん下げて、夕餉の供膳のためのスペースを空ける。
祖父母の祥月命日には、好物だった料理を作り、為斗子とイチシも仏間で膳をとる。既に祖父の好物だった筑前煮は午前中に仕込んである。後は蓮根蒸しと胡麻豆腐、汁物を作れば出来上がりだ。調理にかかる時間を逆算すると、まだ小一時間は余裕がある。何をしようかと思案しているところに、椿の枝を手に提げたイチシが広縁から客間に姿を見せた。
「イチシ。それ、玄関の所の椿?」
「そうだよ。白侘助が綺麗だったから、床の花を活けかえようと思ってね」
茶花としてよく使われる、白花の椿。清楚な一重咲きの五花弁は少し開いた状態で、既に裏葉は落され、葉は五枚に整えられている。慣れた手付きで掛花入に活け、イチシは穏やかな表情で為斗子の側に寄った。いつものように優しく柔らかく髪が撫でられる。
「施主、お疲れ様。為斗子は今から何をするの?」
「うん……ちょっと時間があるから、おじいちゃんに聞かせる練習でもしておこうかな」
忌日の宵に、為斗子は仏前で演奏をする。箏だったり三絃だったり、その時々で異なるが、祖父を偲び、為斗子は独奏する。
……それを聞くのは、今はもうこの世にいない祖父母と、最初からこの世のものならないイチシだけ。
「何を弾くか決めてるの?」
「まだ。何にしようかなあ」
「決まっていないなら、私のお願いを聞いて?」
為斗子の手をとり、イチシは自分の頬に引き寄せて目を伏せた。嘆願するように、その手のひらに唇を寄せる。
「為斗子の『黒髪』を聴かせてくれるかな」
「えっ、三絃?」
「そう。三絃で『黒髪』、もちろん唄付きでね? ……最近、為斗子は箏ばかりで三絃を弾いていないだろう? ちゃんと功に聞いて貰って、駄目出しして貰って、反省して?」
「……イチシの意地悪」
悪戯な笑みを浮かべて、イチシは為斗子の手を離す。我が儘とはいえ、為斗子が彼の願いを無碍にすることは、それほどない。それを分かっていて、たわいもない我が儘をイチシも願うのだ。
確かに最近、三絃とはご無沙汰だ。音をとる勘所が多分にあやしい。上手く弾ける自信がない。
「あんまり練習する時間ないのに……」
「後は汁物と蓮根蒸しだけだろう? 下拵えはしてあるみたいだし、それくらいなら私が仕上げるよ。だから為斗子は、しっかり練習しておきなさい」
そう言って、為斗子の肩を一つ優しく撫で下げて、イチシは客間を後にする。為斗子も一つ溜息を落とすと、気を取り直して楽器をしまってある収納庫に向かった。前に弾いたのは年末……随分と間が開いてしまっていることを自覚して、為斗子は気合いを入れて調弦にかかった。
* * *
仏前に供膳をあげる。先んじて週末にお参りに来てくれた寒河江さんが供えてくれた純米吟醸の四合瓶も開け、イチシの膳に冷やのまま徳利でつける。為斗子は形だけいただくので、お猪口だけ。
「為斗子、もう少し飲んでみない? 為斗子も成人したんだし、功も喜ぶよ?」
今までは未成年だったこともあり、献杯や食前酒は本当に形だけだった。しかし今晩のイチシは、為斗子にも勧めてくる。口当たりの良い少し甘めの冷酒は思ったよりも飲みやすく、為斗子も言葉に甘え、イチシに誘われて、結局いくつも杯を重ねることになった。
部屋はファンヒータで暖められていて、それも相まって為斗子の身体も少し熱を持つ。心なしか頬が熱い。鼓動が早い。
「お酒、意外と美味しい……?」
「為斗子は功に似ているからね、お酒には強いはずだよ。……功も大人になった為斗子と一緒に、晩酌したかっただろうね」
「でも、寒河江さんが一緒にくれた日本酒ボンボンは、全く美味しくなかったけど?」
「あれは、また違うから。私もあまり好まないね。お酒はお酒、チョコレートはチョコレートで楽しむ方がいいと思うよ」
祖父の祥月命日は二月十四日。それもあり、『最近は、こんなものも作っているのですよ』と、苦笑しながら寒河江さんが為斗子にくれた日本酒入りのチョコレートは、今ひとつ為斗子の口には合わなかった。イチシも同じだったようだ。洋酒ではよくある取り合わせだが、日本酒には合わないと思う。
ぽつりぽつりと、静かに祖父の思い出を語りながら、膳をとる。祖父の好物だった筑前煮は、やはり祖母のものには叶わない。まだ幼い頃、為斗子の箸の遅いのをいいことに『もうお腹いっぱいか?』などといって為斗子の分まで食べてしまい、祖母に叱られていた祖父の茶目っ気に満ちた顔が思い出される。好きな物には遠慮の無い祖父だった。あの年代の男性にしては珍しく、祖母にも、為斗子にも、溢れんばかりの愛を、言葉や態度で隠すこと無く表現してくれた人だった。
「……確かに功は、愛情には素直な人間だったね。怒哀はあまり示さなかったけれど」
「そうだね……おじいちゃん、滅多に怒らなかった」
「でもその分、叱られる時は怖かっただろう? 為斗子も何度か泣いていたね」
喉の奥を鳴らすように、イチシが穏やかに笑う。イチシが知る祖父は、為斗子が知る姿よりも何倍も深いはずだ。為斗子の前の【化生守】――この化生が、果ての知れないアヤカシとしての生を、ただ共に在って欲しいと望む、かつての相手。
化生守に選ばれる人が、どのような人物であるのか。それは守屋の家にも伝わっていない。本当に様々なのだという。
イチシに訊いても答えてもくれない。自分にも分からないのだと言わんばかりの曖昧な笑みを浮かべて、目を細めるだけだ。
「……さ、膳は私が片付けるから、為斗子は三絃の準備をして?」
「ううん、一緒にやるよ、イチシ。夕方まで練習していたから、準備は問題ないし。割烹着もつけるから」
忌日の夕餉では、為斗子は着物姿だ。普段はあまり日常着とはしないが、和裁士でもある為斗子にとって着物を纏うことは苦でもなければ特別でも無い。イチシが為斗子の和装を好むこともあり、何か行事の際などには好んで身につける。
今日は黒の縮緬地に椿柄を染め抜いた総柄小紋。帯は梅鼠色の花更紗柄が落ち着きを見せる博多織の半幅小袋を、変わり矢の字に結んである。特段改まっていない、普段着仕様の軽い着こなしだ。
紐を使い袖をササっとたすき掛けにして、白い割烹着を身につける。酒器だけ残して膳を下げ、台所で二人並んで洗い物を済ませる。先にイチシを仏間に戻し、為斗子は酒肴やその他の諸々を盆に載せて仏間に戻った。仏壇の灯明が微かにゆれて、線香の薫りがほのかに漂う。
襖を開け放って続きにしてある客間の卓に酒器を置き、たすきを外す。身なりを整え、部屋の隅に置いておいた三絃を手に取った。今はイチシが使う祖父の三絃は最近では貴重となった紫檀だが、為斗子のものは紅木の三絃。しかし、糸巻きは象牙ではなく黒檀で、皮は犬。それほど気張った品ではない。
三下がりに調子を合わせ、仏壇に向かって正座する。左手に指スリをかけ、正面に譜面を置いて構えをとった。部屋の境、下座からイチシが見つめる。
黒髪の 結ぼれたる 思いには
地唄『黒髪』も唄から始まる。元々は歌舞伎の下座音楽であったが、今では長唄と地唄に編成し直されている。共に、艶物の名曲だ。なにより上方舞の曲としてよく知られている。京舞妓の衿替えで必ず舞われる、艶やかな曲だ。
地唄の旋律はしっとりとして押さえた風情で、独り寝の淋しさ、破れた恋の切なさを唄い上げ、繊細な女心を描く。
解けて寝た夜の 枕とて
独り寝る夜の 仇枕
袖は片敷く 妻じゃと云うて
チリリリ チンツンツン ツツツン ツンチンシャーン
『黒髪』は、器楽演奏部分にあたる手事がほとんどない本格的な唄いの曲で、テンポはかなりゆっくりしたものだ。押さえられたテンポで、スリやハジキをの奏法を駆使して余韻を響かせるだけに、ごまかしが効かない。間の取り方も、唄の余韻に合わせて変化する。絶妙な“風情”が欠かせない曲だ。
愚痴な女子の 心も知らず
しんと更けたる 鐘の聲
昨夜の夢の 今朝覚めて
床し懐かし やるせなや
積もると知らで 積もる白雪
最後に清浄な雪の朝を眺める女心の、諦観の哀しさを唄いあげて、曲が終わる。十分もかからない長さだが、しっとりとした曲調が実際よりも長く感じ、一方で艶のある風情をもってあっという間に終わるようにも感じる。
何とか手を止めることもなく弾ききった。三絃を構えたままで、為斗子はふうっと大きく息を吐いた。――祖父には、どう聞こえ届いただろう。
『黒髪』は、三絃曲としては技巧的に難しいとは言えない。しかし、その唄の意と風情を音に乗せて、しめやかな艶を表現するには、単なる技巧以上のものが必要だ。情感豊かに、切なさと情念を込めて、雪のような凛とした風情も織り込んで奏でる“大人の曲”……まだ若く、ここで唄われるような情念をはっきりと実感できない為斗子には、難しい曲。
「……どうだった、イチシ?」
構えをとき、三絃を脇において為斗子は下座を振り返る。イチシは優しい笑みを浮かべて、目を細めていた。
――彼は何を思って、この曲を選んだのだろう。
「よかったよ。久しぶりにしては声も出てたし、よく手が動いていたと思うよ?
でも、相変わらず、低い音からの“3の音”と、高い音からの“3の音”を、同じ音で弾いてしまう癖は直らないね?」
「それ、やっぱりよく分からない。同じ“3の音”じゃない。なんで同じ音を、同じ音に聞こえるように弾いちゃダメなんだろ?」
「どうしてだろうね? でも、そこが三絃の良い所じゃないかな……曖昧で、決まった音を奏でない風情が醍醐味だと思うよ? だから私は三絃の音の方が好きだね」
穏やかに微笑むイチシ。曖昧で、何一つ決まっていない、周りに合わせて奏でる音色。イチシと合奏する際は、いつも為斗子に合わせてくれる。テンポも、間の取り方も、音の響きも、余韻の残し方も。
共に在る、その幸せの音。
本作は、バレンタイン企画として「活動報告」で公開していたお話でした。今回、一部を修正・編集して改めて投稿します。“もったいないお化け”がでたぞ~……というのは冗談ですが、やはりせっかく書いたのできちんと残そうかと。
元が“バレンタイン企画もの”だったこともあり、砂糖多めの甘々仕様となっております。いつも通りのほろ苦さもありますが。
とはいえ、あくまで「番外・余話」の位置づけですので、本編とはまた違った雰囲気の二人を楽しんでいただければ幸いです。
-----各章(各話)名称について-----
各章ごとに独立した作品として構成しています。連作短編方式です。
各章の名前は
章話名番号【各話のタイトル】 ~ 行事・雑節の名称/近い七十二候
という形式で表記します。
《章話名番号》 ※○には通し番号が入ります。
◎【本編】は《第○話》として、主として為斗子の視点でお話を綴ります。
◎【故話】は《故話ノ○》として、主としてイチシの視点でお話を綴ります。
◎【余話】は《余話・○》として、本編や故話とは違う目的でお話を綴ります。企画ものへの参加話などを考えています。
※「和の歳時記」には関係のないイベント等に関するお話は、余話です。
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《今話の地歌箏曲》
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【黒髪】
:作中でも説明していますが、地唄・長唄・上方舞における艶物の名曲。とっても色っぽい曲です。
:元々は歌舞伎『大商蛭小島』の中で唄われた下座音楽(めりやす)。それが後に、長唄や地唄に移されて今に至る。歌舞伎作品の作者は初代・桜田治助。作中で「辰姫」(史実では伊藤氏の娘・八重姫)という女性が、自分が駆け落ちまでして結ばれ恋い慕っている夫の源頼朝を、数々の事情から北条政子に譲ることになり、その新枕(要は初夜)の場に送った後の辰姫の嫉妬と屈辱を凄艶に現す場で唄われたものです。いわゆる「髪梳き」(男性に対する女性の細やかな愛情を表現する演出)の変形版とも言えましょうか。
:地唄・長唄に移された時期については諸説あり、どちらが先に成立したのかは不明です。歌詞は同じですが、曲調は違います。
★歌詞に出てくる言葉の補遺
【袖は片敷く】
:寝る際に片袖だけを敷いて横たわる、ということで【独り寝/孤閨】を現す古語表現です。
★作中会話の補遺
【低い音からの“3の音”と、高い音からの“3の音”を、同じ音で弾いてしまう】
:作者自身が師匠に注意された時の台詞です。音階でいうと「同じ音」であっても、その前後の音に合わせて「同じ音に聞こえないように弾く」そうです……知らんがな(汗)
:三絃(三味線)の「音」は絃を押さえる指の位置で決まりますので、高音部からくる音を出した際に押さえた場所と、低音部からくる音を出す時に押さえる場所を一緒の位置にしてはいけない、ということですね。(作者自身、未だによく分からない極意です……)
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《話のアレコレ》
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【為斗子の祖父・功の祥月命日】
:もともと二月下旬の設定でした(雪が降った朝、ということは決めていた)。しかし、今回のイベント話に合わせた結果、バレンタインデーになりました(汗)
:この化生守シリーズでは、あまり宗教色のある行事や歳時は出さないつもりです。なにせ、宗教宗派によって違いがありすぎますので……。よって、守屋家の宗派も決めていません。とりあえず旧家なので菩提寺があり仏壇はある、ということで。