忘れじの、行く末までは【前編】
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忘れじの 行く末までは 難ければ
今日を限りの 命ともがな
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『新古今和歌集』巻十三・一一四九 儀同三司母
ガラス戸越しに、為斗子の横顔が見て取れた。真摯な眼差しで、緻密に手を動かしている。左手でピンッと貼った布を合わせ、右手の針を進めながら、足指で布を繰る。
あぐらをかいて、足まで使って、まさしく全身で“縫い上げる”。傍から見れば驚くような“お行儀の悪さ”だが、下手にくけ台を使うより微妙な布の貼り加減や質感がわかりやすく、また器具を扱う手間がかからなくて便利なのだと、為斗子は時々やっている。いわゆる「男仕立て」だ。
よく和裁の仕事は「畳二畳あれば出来る」というが、かつては祖母と二人で作業していたこともあり、また、くけ台を用いる仕立ても行う為、高さの違う樫と銀杏の無垢板で作られた裁板台が二つ並んだ仕事部屋は八畳間で広々としている。
そこで一人、為斗子は無心に針を動かしていた。
『今日はお仕事の仕立てじゃないの』
と言っていた通り、為斗子が縫っているのは男物の長着。藍鼠色に縞柄の米沢紬の反物は、得意先からお値頃に仕入れたというB反らしい。
『時々、縫ってないと、男物の仕立てを忘れちゃうから』
と、なぜか言い訳しながら、イチシの為の着物を縫う為斗子。この正月にも風通御召のアンサンブルを仕立てたばかりだ。
イチシは化生――人ならぬアヤカシの身。その身に纏うものは特に汚れもしなければ、新しく誂える必要もないのだが、為斗子は折々にイチシの着物を縫う。それを、彼はいつも見つめていた。
ふと、為斗子の手が止まり、庭先に立つイチシに視線が向けられる。柔らかい笑顔を見せて、為斗子は部屋を出て広縁のガラス戸を開けた。
「わっ、寒っ イチシ、外で寒くないの?」
「今日は陽も出ているし、それほどでもないよ。為斗子は? 部屋は寒くない? 休憩するなら温かい飲み物でも煎れようか?」
「ううん、今は要らない。あと少しだから、仕上げてしまいたいし」
膝付いた為斗子に合わせてイチシも広縁に腰掛け、冷たくなった手のひらでそっと為斗子の頬を撫でる。その感触に為斗子の肩がすくんで、『ひゃっ』という可愛らしい悲鳴があがった。それを楽しむように、もう片方の手も添えて両頬を包み込む。親指で頬骨を撫で上げて、目尻を伸ばす。そのまま戻すように頬を押さえて顔を歪ませる。それを何度も繰り返す。
明らかに“遊んで”いる動作に、次第に為斗子の眉間が寄せられた。クスッと一声笑って、イチシは両手を離す。もう、手のひらは冷たくない。
「もうっ! 何するのよ!」
「為斗子の目が疲れているみたいだったからね、ちょっとマッサージ?」
「違うでしょ!!」
ぷいっと頭を背ける動作が愛らしい。未だ、どこか幼い為斗子。先ほどまでの静謐な表情が嘘のようだ。
宥めるように髪を撫でて、耳に落ちかかっていた一筋を直す。針を持っている間は後ろで一つに束ねられただけの黒髪は、滑らかな絹布を思わせた。
二度三度と撫でられるままだった為斗子だが、やがて膝付いていた姿勢をただし、立ち上がった。イチシも広縁から腰を上げ、犬走りの敷石に足を下ろす。為斗子は作業に戻るようだ。軒下との段差の所為で、為斗子の方の視線が高くなる。愛らしい表情で見下ろされ、それに満足して彼女の手をとる。中指にはめられたままの指皮を避けて、爪先までを優しく握り込んで離した。
――いつか、この手が、自分を選んでくれるように、と願いながら。
広縁の戸が再び閉められ、為斗子は裁板の前に戻る。再び生真面目な表情に戻って、長く通した縫い糸をしごいて伸ばし、こぶしをとって指で弾く。布を張り、目を揃えて針を刺してゆく。そんな彼女を邪魔しないように、イチシは再び中庭に戻って散策を続けた。
仄かに甘く、清々しい花の香りがする。板塀沿いに植えられている和水仙が、緑の葉と白と黄色の花色のコントラストを際立たせていた。
“雪中花”や“雅客”とも呼ばれる水仙の花は、凛然とした風情の中に切なさを感じることもある。その花弁を杯に見立てた“金盞銀台”という異称も、また雅だ。
――かつて、その花の名で自分を呼んだ人がいた。
『ねえ、金盞――』
『どうしたの、千代?』
落ち着いた上品な声、穏やかな仕草。慈悲と好情が豊かだった、かつての【化生守】。
ずっと覚えているのかと、為斗子は問うた。
あの時、答えは返さなかったが、覚えている。ずっと。
けれども、それは為斗子が思い描くようなものではない。
『ねえ、金盞……どうして、どう、して……』
イチシが覚えているのは、最後の言葉。幸せで優しかった日常ではなく、締め付けられるような苦い瞬間。その中でも――“千代”は一際違う存在だった。
かつての化生守。――やがて化生守であることを、免じた人。
一度は望んだ。しかし、永久には望まなかった。
人の心はわからないものだと、嘆いたものだ。
千代に望まれたのは、自分が望まない生。
理解ってはもらえなかった、自分の願い――。
「……為斗子、忘れられるものならば良かったのにね」
水仙を手折りながら、イチシは独白する。
この花は全草が有毒だ。活けた水を口にすれば、中毒で死に至ることもある。
花言葉は――「自己愛」、「偽りの愛」。
金盞の名を与えられたのは、必然だったのかも知れない。
視線を向けた先で、為斗子がひたすらに布を繰っている。
きっと彼女は間違えない。
自分に騙されてもくれないが、“化生”としての自分の願いを、紛うこと無く理解している、愛しい化生守。
ピョーッ、と高い音が空から響いた。ヒヨドリの甲高い声。笛の音のように、地鳴きとさえずりが混雑する。遠いあの日と、同じ音――。
* * *
ピィー ヒャララ ピーーッ
甲音の篠笛が、澄んだ音色を奏でる。この地域では、初午に合わせて寒施行を施し、狐狸に供え物をし楽を奏でる。だれぞ、村人が篠笛の練習をしているのだろうか。
高く凍え澄んだ冬の空を眺めながら、彼は村はずれの小川沿いを散策していた。土手には一面の水仙が咲き誇る。
「金盞、ここに居たの」
やがて品のある優しい声が、彼にかけられた。追いかけるように彼の側に立った女性は、太物の縞木綿に古渡り更紗の帯を締め、袷羽織を纏っている。落ち着いた雰囲気は中年増の円熟を見せるが、髪は島田。まだ嫁いでいない。村でも評判の器量よしだが、驕ったところもなく奥ゆかしい。
どこかお使いの帰り道だっただろうに、小女も付けず身軽なものだ。決して褒められるものではないが、村の衆も守屋の家の者達も、当主の妹の気さくな行動を特に咎めたりはしていない。
彼女は《御守り様》――守屋の家とこの村に豊かさをもたらす吉兆の証しとして貴ばれている。
この地域で古くからの名家、分限者として続いてきた守屋の家は、庄屋や与頭を務めたりはしていないが、多数の地所を抱える村方地主だ。その繁栄は、不可思議な護り手あってのことだという。
守屋の家の者にしか姿を見せないという、その“アヤカシ”の傍らにあって慰撫し寄り添う守屋の血族を、彼らは《御守り様》と称してきた。御守り様がある代においては、村全体が潤う。風水害や蝗害、冷害とも縁遠く、村の護り手としても尊ばれる存在だ。
千代は、数代ぶりの《御守り様》だった。幼い時より共に暮らし成人して娘組に入ろうかという頃に、彼はその身を望んだ。彼は【化生】のモノ――“怪しのモノ”としての不可思議さを身に纏い、静謐で怜悧な顔を持ちながら、千代に熱のこもった視線を向けて、“名”を望んだ。
千代も、この《化生》のことは、守屋の家の者として伝え聞いていた。まさか自分がそうなるとは思わなかったようだが、誉れと憧憬のもとに、千代は彼を金盞と名付いた。凛然とした水仙のごとき姿が印象的な化生だったからだという。
それから何がある訳でもない、淡々とした日々。幼い頃から変わらない、千代の側に彼がいて共に過ごしているだけの日々。彼女の兄や嫂、甥姪達や家人達には姿を見せない中、千代は離れ座敷で彼と過ごす。
艶めいたことは何一つなく、千代との生活もあまり変わらない。それでも心は満たされて、穏やかで優しく慈愛に満ちた金盞の視線に見守られながら、彼も千代も日々を繰り返していた。
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突然ですが、ある意味“番外編”の「故話」をお届けいたします。
本編の章立ては「第○話」として続けていきますが、基本的に為斗子視点でお話を進めていきます。
今回の「故話」は、為斗子以外の視点です。つまりイチシ視点です。
(なお「故話」という表現は、作者の造語です)
今までと少し異なる雰囲気になりますが、これはこれで楽しんでいただければ幸いです。
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《和裁のアレコレ》
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【為斗子は和裁士】という設定ながら、今まで和裁の風景をだしてこなかったので、ここらで一つ。
しかし作者自身は半襟を付ける針仕事で、既にいっぱいいっぱいになる人間なので、詳しい動きは見聞きしたもの中心です。
和裁は、正座してチクチクと針を動かしているイメージがあるかも知れませんが、和裁士さん達の仕事ぶりは「全身ミシン」とも言うべき状況です。今回、為斗子もやっていますが『あぐらをかいて、片足を裁板(台)に載せ、布を足指で扱う』なんて光景が普通に見られます。全身全霊で《布の声を聴く》のだとお話いただいたことがあります。
最近は東南アジアの職人さんやミシン仕立てに仕事を奪われがちですが、やはり熟練の和裁士さんが仕上げた着物は、動きが滑らかです。不思議ですよねぇ。
理由を付けてイチシの着物を縫う為斗子が可愛くてなりません(笑)
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《歳時のアレコレ》
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【寒施行】
:寒中の餌の少ない時期に、油揚げなどを田畑やキツネの巣の所に置き、野獣に施しをする年中行事。
:多分、西日本の風習です。初午の稲荷講との関係はよくわかりません……多分、関係あると思いますが。稲荷講は昼ですが、寒施行は通常夜中に行われます。




