雪ぞかかれる、松の二葉に【前編】
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いつまでも 変わらぬ御代に 合ひ竹の
代々は 幾千代 八千代経る
雪ぞ かかれる 松の二葉に
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地歌『八千代獅子』 (作歌)伝・園原勾当
シュン シュン シュン シュン
台所からお湯の沸く音が聞こえてくる。居間とを仕切るすりガラスの向こうで、背の高い影が鷹揚に動いているのが見えた。
為斗子は、どこか耳に心地よいその音に目を閉じ、背中を丸めて卓に俯せた。頬に感じる冷たい感触が、コタツで温められた身体に気持ち良い。やがて沸騰音は止み、カチャンという食器の音に取って変わる。磁器に金属のあたる甲高い音が続いた後に、ようやく居間の引き戸が開けられた。
「……為斗子、お行儀が悪いよ?」
「う、ん……でも、気持ち良くって」
その白い手に持っていた為斗子が普段使いにするマグカップを、イチシはわざと為斗子の伏せられた頭頂に寄せるように置いた。カップ越しに淹れたての熱が届く。その熱さに、為斗子は目を見開いて飛び起きた。コタツの天板が揺れる。
「熱っ ……もう、イチシ! 何するのよ」
「為斗子のお行儀が悪いのがいけないよね? せっかく淹れたのに、こぼされるかと思ったよ」
悪戯な口元で、イチシはすかさず押さえたマグカップから手を離し、改めて為斗子の前に置いた。乳白色の筋が円を描いて浮かぶ薄茶色のココアから、湯気と甘い香りが立ち上る。
「……ありがとう。でも、ヤケドするかと思ったじゃない。つむじがちょっとジンジンする」
コタツに入ったままで、見上げるようにイチシに礼を言った後、為斗子は口先を尖らせて文句も告げる。直接あたったのは僅かとはいえ、不意打ちの熱は必要以上に痛みを感じさせた。その痛みを庇うように、髪に白い手が差し伸べられる。
「うん? ……大丈夫、赤くなっていないよ。零れてもいないし、髪も何ともない。さ、お飲み。甘さは控えめにしておいたから」
為斗子の背後に膝立ちになったイチシの指が、優しく為斗子の髪をかき分けて頭皮をなぞる。そして、指よりも柔らかい感触。イチシは愛おしそうに、為斗子の頭頂に軽く口付けて背から離れた。居間のコタツは長方形で、為斗子の左隣になる短辺にイチシも腰を下ろす。為斗子の崩した足先が触れ合って、離れた。
まだ熱いカップから暖を取るように両手で押さえた為斗子に、イチシは飲み物よりも甘く熱そうな視線を向けて労った。一瞬だけその視線を受けて、ついっとココアに視線を落とす。甘い香り。
年も変わり、寒さも厳しくなり始めた。去年の霜月二の亥の日に出したコタツが居間で存在感を増している。守屋の家は祖父が結婚する頃に建てた家屋で、純和風の平屋造りだ。為斗子が小学生の頃に一部を改築し、広縁の側柱の木製建具はペアガラスのアルミサッシに変えたため、外からの隙間風は問題なくなったが、それでも現代風の西洋家屋に比べれば断熱性には支障がある。一枚ガラスの大きな引き戸からの冷気は、広縁から各部屋へと冬を告げてくる。本来は広縁と部屋の境、入側柱に障子戸があるとはいえ、冷気はしんしんと染みてくる。
マグカップ越しにその熱を奪った後、為斗子は指を順に動かしてみる。決して滑らかとは言えない、水仕事にも慣れた手だ。――イチシの花弁のような白い指とは違う。そんな為斗子の指先に、形の良い爪先が控えめに触れてくる。やがて左手が引き寄せられて、優しい白い手のひらに包まれた。
「刺したところは、もう痛くない?」
「うん。ほんの少しだったし……まったく、イチシは過保護すぎるよ」
特に仕事もなかった昼下がり、小正月用の繭玉飾りを作っていた為斗子とイチシだったが、餅花にする団子を柳の枝に刺す際に勢い余って指を怪我してしまった。左手の人差し指、深くもない傷だがプクリと血が滲んだ指をイチシは即座に舐め押さえ、有無を言わせず手当てをし、そのままコタツに直行させた次第だ。イチシが過保護なのはいつものことだが、まるで幼子に対する態度のようで為斗子としては不満も残る。
「まだ床の間の片付けもあったのに……」
「大丈夫、私が全部やっておいたから。為斗子の指は商売道具なんだからね? 大切にしないと」
絆創膏が巻かれた為斗子の指を、イチシは手のひらに包み込んで温もりを与えてくれる。右手でココアを飲みながら、為斗子はそんな彼を直視できないまま雪見障子越しに庭を眺めた。
「……雪だね、イチシ」
「これは積もりそうだね。明日は雪掃きしないとダメかな。為斗子、早起きできるかい?」
「……頑張る」
雪見障子のガラス越しに、絶え間なく静かに白い花が舞い降りる。少し大きめの雪片は、しんしんと庭を白く染めていた。特に誰かが訪れるわけでもない生活だが、雪に埋もれたままの玄関口はみっともない。明日は少し早く起きて表通りを整えなければいけないだろう。
他人に姿を見せないイチシを、人通りのある表口には出せない。イチシには庭回りの雪かきをお願いするとして、門口にかけての導入路は為斗子がやるしかない。この地域では年に数回は足が埋まる程の積雪がある。慣れてはいるが決して楽な作業ではない。明日の作業を思いやって、為斗子はふうっと溜息をこぼした。
じっと為斗子の横顔を見つめていたイチシだったが、やがて左手を離し立ち上がる。衣擦れの音をたてて為斗子の背後に回った両手が、今度は為斗子の両肩を包み込んだ。身体全体に与えられる温もり。首筋越しに、吐息混じりの柔らかな声がかけられる。
「……全部、私がやってあげるのに。為斗子……私に全てを委ねてくれないの? 為斗子の為に何かするのが、私の幸せなのに」
「イチシ…………」
切ない懇願の声。濡れたような甘い響き。肩口にイチシの柔らかい髪が押しつけられる。鳥籠のように捕らえ縛ろうとする、甘い束縛。
イチシは為斗子を甘やかす。為斗子が好んでやりたがること――例えば毎日の調理など――は嬉しそうに為斗子に任せてくれるが、少しでも億劫な素振りを見せたり感じさせるような作業は、時にはさりげなく、時には強行に為斗子の手から奪い取って何もさせてくれない。為斗子が知らない間、気付かない間に勝手に先んじて行うことはないが、為斗子が『やろう』という気を見せないことは、何でもやってしまう。
為斗子の全てを委ねられることが願いなのだと、イチシは言う。
この化生――イチシのためにある【化生守】たる為斗子。為斗子の全てはイチシのもの……為斗子から喜びを得ることも、悲しみを得ることも、彼の権利。
為斗子を孤独に置いておいて、それでも為斗子を独りにはしないと言う、残酷な化生。
「……おじいちゃんも言ってたでしょ? 自分で出来ることは自分でやらないと。この家を守るのは、私の仕事なんだから、私がやらないと……ありがとう、イチシ。じゃあ、明日は庭をお願いするね、私は表口だけやるから」
言葉に込められた願いを振り切るように。為斗子は自分の肩を覆う白い腕にそっと手を寄せ、ギュッと握りしめた。肩に乗せられたイチシの額が、ゆっくりと離れてゆく。
「――為斗子は騙されてくれないね」
困ったように、戯けるように。イチシは曖昧な笑みを浮かべて、為斗子の背から離れた。ココアを飲み終わった為斗子も一緒に立ち上がる。
「イチシ、一緒に何か弾こうか?」
「それは嬉しいけれど、指は?」
「大丈夫、押し手は中指でやるから。ね、弾こう?」
イチシは嬉しそうに為斗子の手からマグカップを奪って、台所に向かう。正月の弾き初めで既に一緒に弾いているが、為斗子と“一緒に”何かをすることも同様に喜ぶイチシにとって、合奏は願ってもない楽しみだ。喜色が感じられるその背を見送って、箏の準備をするために為斗子は一足先に客間に向かった。
《歳時のアレコレ》
【霜月二の亥の日に出したコタツ】
:いわゆる「炬燵開き」です。茶道に造詣がある方には「炉開き」がイメージしやすいでしょうか。
江戸期からの風習で【コタツを出すのは、亥の月亥の日】と決まっていました。新暦だと十一月(霜月)です。
武家筋の場合は初亥の日(最初の亥の日)、庶民は二の亥の日(初亥から十二日後)です。
守屋家は分限者ですが、武家ではないので二の亥の日。
【小正月用の繭玉飾り】
:小正月(睦月十五日)の飾りの一種。いわゆる「餅花」です。柳の枝に紅白の米粉団子を花に模して飾るアレです。
「繭玉飾り」と称するのは地域性があります。基本的には中部~東・北日本の養蚕が盛んな地域に多いです。
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※守屋家のある地域は、具体的には決めていません。結構ゴッチャ混ぜです。作者自身の原風景に基づく近畿の風習と、長く暮らした東海地方、この作品のインスピレーションを得た東北地方、母方の田舎である信越日本海側が入り交じっています……。歳時物を書くにあたって、ここが一番ネックだったりします。地域によって歳時の内容はもとより、時期や呼び方が違いますので。
物語設定上の地域は『全国の至る所にある、地方の小京都の一つ』としています。モデルにしている実在の「小京都」都市は、角館(秋田)、遠野(岩手)、金沢(石川)、飛騨高山(岐阜)や郡上八幡(岐阜)、津和野(島根)あたりです。ええ、見事にゴッチャ混ぜ……(汗)




