入坂淳平は何もせずに。~運命は自分勝手そのものでは?~
煙る駐車スペースから一つ上の、デッキに移動した。
昼下がりの海に、陽の光が降りそそいでいる。
静かな海だ。
僕は、水結の端末に無線接続したイヤホンで、クラシックを聴いている。
イヤホンを片耳ずつ、二人で仲良く分けているのだ。
音源端末をカバンにしまった水結は、僕のとなりで手すりに寄りかかった。
彼女の、無駄がない体つきが、午後の陽射しに照らされている。
背足はすらりと細くのびているが、身長の低さに成長途中の幼なさが残る。お情け程度に胸のあたりがほんの少し丸みを帯びていてーー
ーーゴホン、黒ぶちのメガネがチラリとこちらを覗いたので、凝視するのはやめた。
イヤホンを受け取ったきり、水結は話しかけてくることはなかった。
音楽を聴いている水結は基本的に無口なのだ。ただただ、一面に広がる蒼の海をながめている。
そんな彼女のような、主張しないスタイルも悪くないなと思った。
僕の好みだと思った。単に、コミュニケーションに疲れないからだ。ひょっとすると僕は案外、コミュ障な性格だったのかもしれない。
たぶん、僕はこの先当分、元の空間には戻れないだろう。
だが、別に先のことなど、構わない。
現在を楽しめば、それでいい。
水結が可愛いなら、へたに元に戻るよりも、いっそこのままでいたい。
***
水結の顔色が、さっきからどうも芳しくない。ぐてーっとしていて、気力がまるで感じられない。時々、咳込むのも気になる。
「どうしたんだ、水結。気分悪いのか?」
「ちょっと、だけね。本当にちょっとだけだから、気にしないで」
「船酔いか?」
「気にしなくていいのっ!」
機嫌が悪いのか、話したくない状況らしい。放っておくのが一番だろう。
けれど、どうも素直に放っておけない。
少女を守るのは、最も近くにいる少年というのは、世界共通の鉄則だ。そして、ココでいう少年は、紛れもない、自分ただ一人である。
もはや、責任は自分にある。
***
耳に入ってくるクラシック音楽が、最高潮に盛り上がってきている。
チラッと水結の方を覗くと、船室側に両方のこぶしと頭をついて寄りかかり、歯をくいしばっていた。僕は、彼女の要望どおり適度に距離を置いているが、これは明らかに異常だ。
ーーいけない、心配しすぎだ。
ーー自制。自制。
そう思った時、フェリーの真下にビックウェーブが襲ってきた。
このぐらいの波など、海上では日常茶飯事なのかもしれないが、慣れない身には負担だ。
衝撃ではなく、むしろ圧力。
重力が逆行したような圧力が、お腹にかかる。
足元が不安定で、浮きそうになる。
ジェットコースターのようで、ジェットコースターより怖い。
手すりに掴まって、なんとか耐える。
船舶のまわりに、小さな白い波が細かく出現して、大波がようやく落ち着いた。
難は越えた。
船は苦手な自分に気づいた瞬間だった。
ーーが、それはどうでもよくなった。
「おうぐぅぅ••••••」
奇妙なうめき声をあげたのが、水結だったからだ。
壁に寄りかかっていたはずが、いつの間にか座り込んでいたのだ。
顔をうずめ、口元をおさえている。
「お、おい、水結?」
「••••••大丈夫、だかーーんぐっ!!!!」
彼女が細い声を絞り出すが、途中で全身が痙攣してしまう。
きっと、酔ったせいで、吐き気が止まらないのだろう。
「お前、大丈夫なはずないだろ! 素直に酔ったことを認めーーっておい、どこ行くんだ!」
突然、水結がふらつきながら立ち上がったのだ。
そしてーー
僕が全てを言い切る前に、水結はフェリーのデッキを一目散に走っていった。
追いかけることもできず、唖然とするしかなかった。
「あの娘は、よほど強がりみたいだな」
「うおわっ! びっくりさせないでくれ!」
背後から来た人物に気づいて、思わず叫びをあげてしまう。こんな時に限って、声が裏返った。
後ろから驚かすように現れたのは小十郎だった。
「いま、水結が••••••」
「わかってるぜ。あの娘の容体なら、もう把握している」
小十郎は彼のタッチ式端末を取り出して、手でひらひらさせた。水結の健康状態データを共有して、表示できるみたいだ。
この端末、本当にいろいろなことができるようだ。つい先程も検査前問診で水結の端末を使ったが、まったく同じものだ。
数少ない、他のフェリー乗客に出会ったときも、たいていは例の端末を持ち合わせている。
「気持ち悪いと言っていたが。あれは、船酔いか?」
僕が訊ねるのと同じタイミングに、端末の画面を見た小十郎が眉をひそめる。
なにがあったのか。
「••••••いいや、違うみたいだぜ。過度の心配は無用だが、どうも精神性の症状らしい。今、トイレにいるようだから、ちょっと介抱してくる」
「介抱!?」
「フフ。今どうなっているか、あんまり想像しないほうがいいと思うぜ。
せっかくの可愛いイメージを台無しにしてしまうからな」
嫌な予感しかしない。
精神性とは••••••水結は、いつでもストレスなしに見えるのだが,にも関わらず吐き気をもよおした。
小十郎さんは船のデッキを、水結が走っていったのとまったく同じ向きに歩いて行った。
ちょうど、イヤホンの無線接続が切断された。
***
「ーー結局、水結は現れなかったか••••••」
「仕方ない。
感染症じゃないだけ、マシだ。
あの娘は、いちおう船室のベッドを借りて寝かせているんだが、しばらくは起きあがれそうにないぜ」
「そうか••••••」
僕は紅茶のカップをコースターに置いた。
このフェリー、この航行は目的地到着予定が夕暮れなのだが、日付を超すプランも存在するらしい。だから、食堂がついている。
今の時刻は15時あたりである。
船長からのプレゼントということで、食堂では、紅茶と軽い菓子が振る舞われていた。
だが、華やかというものではない。この船、本当に乗客が少ないらしい。お金という概念が無いこの世界でなければ、まちがいなく倒産するレベルだ。
華やかでないのは、欠席者のせいかもしれない。
猛烈な吐き気に倒れた水結は、もちろん、この場に来れる状態ではないのだ。無理はしてほしくないが、彼女がいないと、なぜか雰囲気が殺風景になる。
「さっきも言ったけれども、水結は強がりなんだよ」
ビスケットを一枚つまんだ小十郎が、僕の方を直視して言った。
「強がり?」
「そうだ。だから、あの娘は他人に弱みを見せず、苦痛を自分で抱え込もうとしてしまう。さっきのもその一例」
「••••••強がって、逆に面倒なことになっているじゃないか」
「そう。
だが同時に、あの娘は、とんでもないレベルの天才かもしれないぜ」
「どういうことだ?」
「水結にだけ、
情報機器ーーSEA・NET端末を持たせていることに気づいたか?」
SEA・NETとは、あの高機能端末のことだろう。周りがみんな持っていたら、自分も欲しくなってくる頃だった。どんなものか具体的には把握していないけれども。
「確かに。僕はまだ受け取っていない」
無料な世界=手渡しで、もらえるかも、などと期待した。
「あれを扱うには、数多くのセンサーを搭載したチップを身体に埋め込むのが必要なはずなんだが。
腰を抜かしたぜ••••••
彼女、それなしで当然のように操作しているんだよ。
これは奇跡中の奇跡だと思うぜ」
「つまり、生まれながらにして操作力を持っている••••••か」
「そういうことであり、それにとどまらない。
お前さんにゃ、精密検査の時にセンサーを用意するぜ。
だがな、検査前の質問のとき同様に水結の端末を使うときはそれは必要ない」
「端末自体に水結の能力そのものが!?」
端末を誰でも付属機器無しに使えるのは、つまり、
水結による能力が端末自体にもインストールされた状態であるという意味だ。
どうやら僕は、とんでもない場所で、とんでもない少女と知り合ってしまったらしい。
エンジンではなく、モーターが動力として唸っている。この世界は石油燃料がないのだろうか。
食堂の窓からは、あいかわらず水平線まで延びる蒼の2面しか見えない。
さすがに見飽きてくる。
「そうだ、思い出したぜ。
水結が、お前さんの持っているワイヤレスイヤホンを、早急に返してほしいと言っていたんだ」
小十郎が手をたたいて、僕を指さした。
「? さっきは、こころよく貸してもらえたんだけどなぁ」
貸してもらうというより、つい一時間ほど前に”これどう?”と、むしろ勧められたのだった。
それが、今となっては”さっさと返しなさい、いいから早く返しなさいときた。
彼女の心の天候は、実に予想不可能な代物である。
「とにかく、女の子のおっしゃることは、素直に聞いといた方がいいだろ。
いま忠告しといたからな。
あとでネチネチと尋問されても俺はしらないぞーー」
小十郎があまりに念を押してくるので、僕は戸惑ってしまった。
「水結って、そんなにSな相手だったかな?」
***
というわけで、小十郎にうながされるままに、僕は船室の前に立っていた。
「はいってもいいか、水結?」
緊張しつつ、ノックしたが返事はない。返事もなにも、万が一のために作られた金属製の漏水防止ドアにおいては、向こう側に声が伝わるはずもないのである。
ドアノブをひねった。鍵は開いたままのようだ。
ーーだが。
重いドアを向こう側に力いっぱい押す。••••••なにこれ、重すぎ。
まじめに、重っ!
仕方なく全身で、もたれかかった。
突然、ドアが全開になる。
「おわっ!!!!」
ーーと
勢いあまって、前につんのめる。すんでのところ、持ちこたえ転けずに済んだ。
「ひゃっ! 怪我しなかっ、って••••••、あ••••••」
中身はケチったつくりの狭い船室には水結が、たちつくしていた。
ただし、ぼうぜんと••••••
なぜそうなのか、すぐに理解できた。
だが、どう行動すればいいかもわからなかった。
ーー
入坂の眼前には水色と白が縞模様な三角形の布。
その横からヒラヒラした紐が、結んでいないまま、床まで垂れ下がっている。
細いお腹を通り過ぎる。
紫色のちょっとした保護パットが聖なる域を隠すかのように彼女の胸元を包み込んでいる。
色からして水着にも見える。
い
決してボリュームは無く、平らに近いのが、むしろ艶めかしい。
しかも、鎖骨にかかる片側の留具は外された状態だった。
あぁ、女の子のプライベートを無断で覗いちゃった、とよくわからない心情が生まれた。
ーー
水結は、ジャストタイムで着替え中だったのである。
シチュエーションをようやく理解した僕は慌てて目線をそらしたが。
既に時おそし。
彼女は着替え中に一人の野郎に侵入されて、あらわになった全身下着姿のまま、言葉を失ってしまったのだ。
二人の時間が過ぎる。
ーーーーいわゆる、ラッキースケベ?
しかし、そんな未曾有の事態に興奮している余裕などなかった。
水結の顔が、次第に真っ赤っかに染まってゆく。
「い、い、入坂••••••」
「いやーーその、これは単なる事故であって••••••だな」
「うん? だから、女の子の下着姿を見て許されるの? 事故だったら問題ないんだ?」
水結に威圧される。口調こそ優しいものの、その目は、明らかに睨んでいた。
僕は思った。
ーー水結は怖い。
「何か言うことは? いや、言い残すことはないの?」
そう告げた彼女は革靴に足を差し入れる。
「言い残す!?••••••ってか、やっぱり今のは事故であってーー」
と言いかけたとき、神の鉄槌が下された。
ーー病弱とは思えないほどの高さまで、水結が飛び上がったのだ。
数値化するなら、おおよそ、1.8m。
どうしたのかと考えている間もなく、次の瞬間。
ぐううぅぅわつううううぅぅんんんんんg!!!!!!!!!!!
頭蓋骨に硬い衝撃が走る。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!!!!!!!
激痛にやられて、声すら出ない。
ーー水結は革靴のまま、強烈な踵落としを実行したのだった。
「もう••••••消えて!」
顔を赤らめつつ、怒りに放たれた言葉が不安定にふるえている。
よほどショックだったのか、あるいは、かすかな羞恥によるものか。
「••••••あい、••••••すいません」
とりあえず、あやまっておくに越すものはないだろう。不可抗力的な過失だが、しょうがない。
ーー僕は、そもそもここに、わざわざ来た理由をすっかり忘れていた。
「あの、これ。イヤホン返しておくよ」
水結は僕を一睨みすると、何も言わずに、僕の差し出したイヤホンをひったくった。
綺麗にカットされた爪は、見かけによらず鋭かった。痛い。
別にそれでもいい。
ーー問題はその後に発生した。
目的を果たしたところで、先ほどのドアを開けて帰ろうとするが、
”開かない”のである。
後ろからは運悪く、水結が退出命令オーラをまき散らしている。こちらからすれば、心にナイフを突き立てられているような気分だ。
だが、焦ればあせるほど、ドアはますます固まっていく気がした。
ーーまずい。大変にまずい状況をむかえてしまった。
開かない! どうすりゃいい?
「ねぇ。こんどこそ本気で切りつけてあげようか?」
澄んだ声が近づいてくる。
水結はいつのまに取り出したのか、文房具屋によくありそうな、ありふれたカッターを構えてみせる。
体調こそ危ういが、運動神経が並大抵のものではない。
本気にさせると、自分にどんな危害が降りかかるか、想像できたものではない。
殺されかねないーー
「下がってくれないか。冗談抜きでドアが開かないんだ」
「ふざけないで」
冷淡に言い放った彼女は、片手にもった兵器を振りかぶる。
お助けぇーーーーーーーー!!!
***
状況は意外にも、あっさりと片づいた。
小十郎がタイミングよく、船室に飛び込んできてくれたのである。
「ちと、やりすぎちまったかな••••••」
そう言いながら、ニヤけているのが小十郎さんだ。
その足元で、気を失って倒れているのが、こともあろうか水結なのである。
瞬間的に発生した騒乱を、僕は頭の中で整理する。
ーーーー
僕が手をかけていたドアは、まるで溜め込んだストレスを全解放したかのように、勢いよく跳ね飛んだ。
小十郎によって。
本心だったかは、さておき、
僕をカッターで切り付けようとしていた水結は、思わぬ不意打ちにあっけにとられる。
と、その隙を見計らったかのような手さばきで、小十郎が手のひらで水結の口元を押さえた。
目を見開いた水結が、涙をうかべて苦しそうに悶えている。
小十郎の手は決して乱暴ではない。ただし、その絞め加減は尋常ではないと思われた。
小十郎によって押さえつけられたまま、緩やかなカーブを描いて水結が倒れこむ。
既に意識がとんでいて、抵抗できない。
細かく寝息をたてていた。