A05
椅子に腰かけたまま午後六時になった。
時折廊下を通っていると思われる気配を感じたが、控室にも客室にも誰も入って来ない。
ショルダーバッグに入っている水筒のお茶で喉を潤し、小腹が空いたので携帯食料をかじる。
トイレに行きたくなったが携帯トイレで排尿だけ済ませてよく振る。もう一回ぐらいは持ちそうだ。
客室で音がする。片付ける音、食器を置く音などが聞こえる。夕食の配膳だろう。
話し声はしないので、誰がやっているのかはわからない。
ノックの音は聞こえなかった。いままでも聞いた事が無い。ここにはそういう習慣が無いのだろうと推測した。
扉が閉まる音が聞こえたのでそっと寝室の扉を開けて様子を見ると誰もいない。
誰か隠れていないかをくまなく確認して、扉を開けたまま席に着く。昼よりも豪勢な食事が用意されていた。
肉類とパンだけ食べて静かに寝室に戻る。もちろん扉は開けたままだ。
野帳に時間と行動だけ記入する。
やる事が無くなったのでまた朝からの出来事を反芻する。
もしかしたら捜索隊が出ているかも知れない。
あの霧のようなものは僕の周辺だけだったのだろうか。
僕だけが霧に巻かれていなくなったとしたら、逸見さんはきっとそうするだろう。
逸見さんや佐久間さん達も巻き込まれているなら、同じような境遇におかれているかも知れない。
だが、他の人達が巻き込まれたとは思えない。
唐突に噴出して、唐突に掻き消えた霧といい、あまりにも一瞬の事だったからだ。
ほぼ軟禁されているような現状で、無線も携帯も使えないとなると手の打ちようが無い。
助けを呼ぼうにも手段が無い。外に出るには、神殿とやらの『お迎え』が来るまで待つしかないようだ。
僕は文机に突っ伏してそのまま寝てしまった。
気が付くとすっかり陽が落ちていた。
窓に近寄って空を眺める。月は見えないが星が見える。満点の星空だ。時刻は午後八時。
正中のやや東側に明るい四つの星を見つけた。上に向かって明るい星が連なっているのがわかる。
秋の四方形、ペガサスだ。
紛れも無くここは地球。
ほぼ日本と同じ位置だ。
昔読んだ本の、重層世界や平行空間などの言葉が思い浮かぶ。
アベイユは僕を「大きい人」と呼んだ。
人として認識したのだ。猿や怪物、妖怪の類とは認識されなかった。
同じ進化を辿ったのだと考えられる。
僕の認識と彼女達の認識は正しく一致している。
この点においてだけは。
本家や王朝は古い。天皇家ぐらい歴史があるのではなかろうか。
その間戦争も無かったのかと言えば「軍神」「軍装」などと物騒な言葉を口にする。
どこかの国や地域と諍いがあるのだ。
そしてこの地域は八州と言っていた。
日本でも関東は関八州などと呼ばれていたりする。
一三世紀から十九世紀初頭までの長い間、それは定着していた。
衛星国家か衛星都市、又は植民地としての役割を与えられているのではないか。
八州候というのは一般に言う《辺境侯》の一種だろう。
どれほどの権力者かはわからないが貴族社会の一員だ。
状況にあわせようと試みたが初手から頓挫したため、成り行きに任せる他ないのだが、どうしても考えてしまう。
認めたく無いが、やはりここは戻り方の分からない別世界なのだ。
別世界、異世界、別の地球、平行空間、重層世界。
同じ単語がぐるぐると頭を駆け巡る。
アンナさんは宗教観を説明してくれるような親切な人だ。
外国人との付き合い方も接し方も慣れた物なのだろう。
だが、邸の女主人としての振る舞いや駆け引きなど、もう立派に政治的な手腕も見え隠れしている。
将来王妃になるそうだから、当然と言えば当然だ。
一般とは違う教育を幼少から受けているようだ。
側用人のイレーヌさんも、単なる女中という訳ではなさそうだった。
滑らかな口上と受け答えに加えて洗練された身のこなし。
伽を命じられても揺るがない潔さ。
短く歯切れの良い返事。
いざとなれば剣でも抜きそうな気合いが感じられた。
戦闘訓練はわからないが、護身術ぐらいは身に付けていそうだ。
エレノアさんも同じだろう。
ひょっとすると女中さん全員そうかも知れない。
反面、末っ子のアベイユは自由奔放で庶民的だ。
アンナさんが「学校」と言った。
邸まで来る道中ではそれらしい建物も、子供の姿も見えなかった。
アンナさんとは違う育てられ方をしているのか、末っ子で甘やかされているのか、そこはわからない。
学校は離れた所にあるのだろう。
邸の裏手を見てみたいが、夜半にうろついていたら不審がられるのがオチだ。
敷地も相当の広さだし、お隣さんといっても歩いて行くのは徒歩では厳しいかも知れない。
僕は『神殿』とやらに連れて行かれるのだろう。
下手をしたらその場で極刑なんて事も有り得る。
オルコット家の人達の対応から見て、まず命の危険は無いと考えているが、油断は出来ない。
いざとなったら荷物を捨ててどこかに逃げる算段もしておきたい。
『神殿』とやらが外出許可をくれるようなら、僕が最初にこの世界で目にした、あの風景の場所へ行きたい。
元の世界に帰れるヒントがあるかも知れない。
後は出たとこ勝負だ。
文机に戻って慎重に辺りの気配を確認した後、僕はベッドに倒れ込んだ。
とりとめの無い事を考えると疲労は一層増した。
疲労はあっても考える事を止める事は出来なかった。
結局うつらうつらしながらも堂々巡りを繰り返し、翌朝を迎える事になった。