A03
「ねーさまー、ベスねーさまー、」
隣の少女が羊に騎乗したまま二階の窓に向かって呼びかけると、開け放たれた窓から、長い金髪を三つ編みにして胸より少し下まで垂らした少女が顔を出す。
「アバ、おかえりなさい」
騎乗の少女より儚げで、顔色も少し優れないのかくすんで見えるが、整った顔立ちから落ち着いた声を下に投げ掛ける。表情は優しく、アバと呼ばれた少女に静かに微笑み掛ける。
アバと呼ばれた少女はぶんぶんと音を立てて手を振る。
やにわに両扉が開き、二階のベスと呼ばれた女性と同じく金髪を三つ編みにして腰まで垂らし、床まで届きそうな薄青いロングドレスを着た女性と、その後ろに白の一枚布を胴衣とし、踝あたりまで降りた白のマキシスカートを身に着け、おそらくたくし上げているのだろう長い髪を白の三角巾で覆った女性二人を従えて出てくる。
年は三人とも僕と同じぐらいだろうか。
背は百五十五センチ程でヨーロッパ系の人としては低い方だろう。
白い衣装の人達も大体同じかそれより低い。
ぱっと見た印象だが、小柄なのに八頭身ぐらいで均整が取れており、三人とも成人していると思われる。
「アベイユ」
ロングドレスの女性が少し冷めた口調で少女を睨む。
「学校はどうしたのかしら?」
ロングドレスの女性に問われて俯くアベイユと呼ばれた少女。
「…行きませんでした」
先ほど二階にいたベスに呼びかけた声とはまるで違う小さな声で返事をする。
「お父様がお帰りになったらキッチリ叱って頂きます。そちらの高貴な方は?」
「あたしの婚約者で」
「違います」
また僕は喰い気味に返答をしてしまう。
ロングドレスの女性が、少々呆れ顔で少女を一瞥すると、僕に顔を向ける。
「…妹が大変な失礼をしたような気が致します。オルコット家へようこそ。どうぞお上がり下さい」
「はあ」
僕は優雅に頭を下げる女性に誘われるままヘルメットをはずして左腕に抱え、一歩踏み出した。
「アベイユ」
「…はい」
「わかっていますね?」
「…はい」
「エレノア。アベイユを厨房へ」
「畏まりました、アンナお嬢様。さ、行きますよアバお嬢様」
「…うん…」
少女は左にいた女性に手を引かれて厨房へ行くようだ。
「メアリー」
ロングドレスの女性は、後ろを振り返って白い衣装のやや年嵩の女性を呼ぶと、あれこれと指示を出す。
「イレーヌ」
年嵩の女性が右手の女性を呼んで、僕には伏し目がちに会釈をしたまま左手をホール右側にゆっくりと差し出す。
「お待たせ致しました。高貴な方はこちらへ」
先ほどまで右に立っていた女性が広いホールの右手側の部屋へ僕を案内する。
使用人はあの両脇の建物の住人だとすると、左右で二百名以上はいるのではないだろうか。
ロングドレスのアンナと呼ばれた女性はさしずめ女主人と言ったところかな。
年嵩のメアリーと呼ばれた女性は女中頭だろう。
父親がいるらしい。放牧場で見かけた男性陣以外に、邸内では男性に出会わない。
単純な農家というには規模が大きすぎるし、使用人の扱いが丁寧で、使用人自体も洗練されている。
なによりここは、清潔で秩序がある。
使用人が愛称で少女を呼ぶほど親しい事から、奴隷制度を敷いているわけでもなさそうだ。
石造りの邸は豪奢で、しかし整然としており、静かながら活気がある。
平城かも知れない。
が、どうにも居心地が悪い。
早く『お父様』とやらが帰って来てはくれないだろうかと考える。
自分の荷物も心配だ。
腕時計を見るともう一二時近くだ。
…いずれにしろ内定取り消しは決まったな…
僕のライフプランは、書き換えが必要になったようだ。
「失礼いたします」
開け放たれた扉から、ワゴンを押しながらイレーヌと呼ばれた女中?が入って来た。
この香りは僕も持っている。カモミールだ。
取っ手付きのカップに、ポットからゆっくりとカモミール茶を注ぐ。
「もうしばらくお待ち下さいませ」
「はい」
イレーヌさんは丁寧にお辞儀をすると入って来た扉を閉めずに消えていく。
入れ替わりに女主人と思しきアンナさんが入ってきて目の前で丁寧なお辞儀をすると伏し目がちに僕を見て話しだした。
「私はオルコット家長女、アンナと申します。末妹のアベイユが高貴な方には大変なご迷惑をお掛けしたようで、改めましてお詫び申し上げます」
「僕は守山修と言います。突然の訪問でお気を悪くされたら、こちらこそ申し訳ございません」
僕は立ったままのアンナさんに悪いと思い、立ち上がろうとした。
「マシュー様、どうぞそのままで。家族や家人の不始末は、父不在であれば私が全責任を負う事になっております。いかようにも」
「アンナさん?」
「はい?」
「僕の名前なんですけどね。マシューじゃないんですけど」
「では親しくモリヤ様と」
「そうではなくて」
以前、西暦二千年初頭まで、日本人を含む極東三国の人名は、西洋風の名乗りをすればファミリーネームが後から付け足されるのが普通だった。
だが、新世界秩序が浸透しはじめると、そのまま一気に読まれる事が多くなった。中東や東南アジアの人々はフルネームでは長くなるので簡略化されていく一方、極東三国は元々氏族名と個体名が連結されているため、「もりやましゅう」と抑揚も呼吸も無く読まれる事が一般的になった。
それに倣って名乗ったのだが、アンナさんの脳内ではおそらく一般的な「モリヤ」と「マシュー」に文節が分かれてしまったらしい。内定取り消しで意気消沈している僕は、
「モリヤ家長男、マシューと申します」
と、もう半ばあきらめて名乗った。これはネット上で使うハンドルネームなんだが。
アンナさんは顔を上げると、僕の目をみて真剣な表情で言う。
「では親しくマシュー様とお呼びしてもよろしいですか?」
「はい」
僕の名前は「守山修」から「マシュー・モリヤ」に変わった。今だけです、多分。
「マシュー様はいずれの御家中ですか?」居を正して正面に座ったアンナさんは、表情を変えずに話し始める。
これは尋問か、はたまた面接か。
「その装束はいずれかの御家中による謹製でしょう。
継ぎ目の無い真砂の兜、希少な青を惜しみなく使った群青の上下、頑丈そうな漆黒の長靴。
細かな細工の変わった銀色の腕輪、見たことも無い法術道具。どれも一軍の将にふさわしいものです。
ですが、マシュー・モリヤといったお名前も、そのような軍装も、父が預かるこのダール州では聞き及んでおりません。
他七つの州いずれかの御家中か、王国の方か。
玄関港を持つ我が州では王国や外国の方々にお会いする機会は珍しくありません。
ご安心下さい。武具も持たない将が、当家はもとより我が州に仇成すとは思っておりません。
勿論我が末妹アベイユを害するとも思えません」
少し引っかかる単語もあったが、絶句。
僕の今の装備と言えば…
現場での必需品であるヘルメットは後ろに安全マークのステッカー付き。
作業着は先週おろしたばかりで折り目もまだついている鹿の子織の紺の揃いの上下。
足を守る安全靴に至っては、今日おろしたてでピカピカに黒光りしている。
腕時計は電話機能付きで、いつもは樹脂バンドなのだが、今日に限ってはメタルバンドに付け替えている。
新しい現場になるから気分一新のつもりだったのだ。
軍装と言われれば確かに。スーツも作業着も、元は戦闘服なのだから。
そして、なんとか状況に対応しようとしたのだが失敗した。マシューやモリヤも一般的な名前としてあるのだろうが、この組み合わせは無いのだ。
僕は「モリヤ家長男」と名乗った。モリヤ氏族はきっとある。アンナさんは面識があるのだ。そして恐らく、実在する「モリヤ家長男」は身分が高い。僕は試してみる事にした。
「モリヤ家を御存知ですか?」
「ええ、とても」
「長男の方とも面識があると」
「ええ」
「それはどういった方でしょう?」
「御存知無いのですか?」
「ええ、まあ」
一呼吸おいて、やや間を開けた後、アンナさんは向き直って言った。
「モリヤ家といえば宗主ユスカド王国を治める家柄。
嫡男はユスカド第一王子、アルバート・エル・モリヤ・ユスカド殿下。私の婚約者です」
…なんだって?
「加えて、王国に連なる者は金の髪、碧の瞳、石灰の肌。
マシュー様のように見事な高貴の象徴、青黒の髪、青黒の瞳、青の肌ではありません。
幻術や変装の類ではない事はわかっております。
また、王族と神官以外でモリヤ氏族を名乗る事は禁じられております。
大公国はもとより周辺諸国も周知のはず。
だとすればとぼけていらっしゃるのか身分を偽る理由があるのか、王国の先触れか。
…司祭様か、現王の隠し子か…失礼致しました。こほん」
僕の肌が青い?
更にアンナさんは畳み掛ける。
「宗主モリヤ家が分家を認めた場合はユージン州令八州候モリアーティ家のように、必ず『大地』の意味を込めた『ティ』が付きます。
でなければ王国公爵家の分家である当家のように、主家のコット公爵家に『後』を意味する『オル』や『コル』と言った古語の接頭綴が付きます。
主家から与えられた新しい氏族名です」
……………
「といっても既に五百年を経過し、古い家柄には違いありません」
……………ここはもう日本どころか地球じゃないんじゃないか。
「先ほども申し上げましたように青は高貴の象徴。
主神『おひさま』さえも隠してしまう『おつきさま』そのもの。
そして力の象徴『おひさま』の働きを助ける知恵の象徴でもあります。
ごくまれにお生まれになる高貴なお方は、男女の区別無く生涯神殿でお過ごしになられます。
私の装束は『おつきさま』の御加護にあやかり将来の王をお助けするための色なのです。
マシュー様のように完璧な神姿ならば一生に一度でもお会いする事はかないません。
いっそ軍神と名乗って頂ければ信じた事でしょう」
太陽神と月神。神話の神。
どちらも軍神としての顔を持っている。
ここは未だ自然崇拝の時代から抜けきっていない古代信仰を引き摺った未開地だ。
羊舎の男性達がアベイユには会釈と笑顔だったにも関わらず、僕を認めた途端に立礼のまま動かなくなった理由が分かった。
僕は伝説や神話の中にしか生きていないはずの者だったのだ。
「およそ二百年前にお一方お生まれになったと記録がありますがもうこの世の方ではありません」
……………駄目押しされたよ。
「神殿には遣いを出しています。
当家では迎えがお見えになるまで最大限のおもてなしをさせて頂きます。
只今部屋をご用意させて頂いております。
お荷物も間もなく到着する事でしょう。
どうぞ当家にてごゆっくりお過ごし下さいませ」
最後は丁寧だが妙に事務的な対応で、立ち上がってまた優雅なお辞儀をすると、ゆっくりと応接室から出て行った。
僕は漠然とその後ろを眺めているしかなかった。