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A02

 走り出そうとしたその瞬間、視界が開けた。

 が、ついさっきまでの風景とは違う。

 足下は草叢だが、生えている草は全く違う。

 切り株はどこへ行った?

 掘り返した穴は?

 佐久間さん、逸見さん、オペレーターさん達に下職さん達は?


 頭の中に疑問符が並び始めた時、後ろから尻を軽く押された感触があった。

 カートが倒れ掛かったのかと思って振り返るが、クーラーボックスを乗せたままそこにある。

 ととっと小さな足音がしてまた尻を押される。

 体を捻って尻の辺りを見ると、動物がいた。


 い、猪?

 猪はマズイ。夏も終わりそうなこの時期、猪には自然から豊富な食料が与えられているはずで、縄張りを冒したわけでも無い人間に近寄ってくる事はまず無い。

 ましてや簡易調査でこの辺りには出ないと報告があった。じゃあコイツは一体なんなんだ。


 金色の長い毛。四足。蹄は割れている。頭に角は無く毛の無い顔部分は黒い。


 「メェェェェェ」


 羊だ。金の羊?その昔、地中海沿岸において交配途上で生み出された幻の羊?

 だがその毛は細く、密集していて以前読んだ資料とは違う。

 鳴き声は農学部の連中が検体として飼っていた羊そのものだ。

 軍手をはずして左手を差し出してみると、掌をペロペロと舐めはじめた。

 思わず笑ってしまう。

 背中を摩ってみると「メェェェェェ」と気持ちよさそうに啼く。

 辺りが変化してしまった事を忘れて、また笑ってしまった。

 「ははは、こいつぅ、人に慣れてるなぁ」

 また左手を差し出して舐めさせていると、突然ドドッドドッと近づいてくる足音が聞こえた。

 

 そうだった。

 羊は一匹でなんかいやしない。必ず群れで行動する。だがコイツは人に慣れている。

 

 母親や群れ、飼い主がいるはずだ。だが、日本でこんな羊を飼っているなんて聞いた事は無い。

 いや、羊そのものが北海道以外で大規模に飼育されているなんて有り得ない。

 野生化したとある島のような例外を除けば、羊なんてどこでも見かけるような動物なんかじゃないのだ。


 ここは本州…のはずなのだ。迫ってくる足音と金色の波。

 有り得ない状況を前にすると人は正常な判断力を失う。

 早くここから逃げ出さなければならないのでは無いか?

 迫ってくる金色の波は僕が駆け出す前に10メートル程の距離を置いて、止まった。


 こちらを威嚇してくるのかと思ったら、もしゃもしゃと草叢に首を突っ込んでは草を噛んでいる。

 一応蹄で蹂躙される危険は去ったのか?


 へたり込んで羊達の様子を眺めていると、今顔を舐めている羊がまだ生まれて間もない事がわかる。

 個体差はあるのだろうが、体高が一五〇センチを越える個体が殆どだ。だが、僕の顔を舐めている羊は、頭の高さでさえ一メートルにも満たない。足も細い。

 草を噛むのでは無く僕の顔や首をただ舐めている。まだ授乳期間中なのだろう。で、不足しているミネラル分を僕の汗で補おうとしているのだ。


 そんな事を呑気に考えていたら、群れの中から一頭抜け出し、こちらに近づいてくる個体を認めた。

 親羊かも知れない。他の個体に比べてもそれほど大きいというわけではない…が…

 人らしきものが乗っている!


 子供だ。

 羊の背にまたがっていたが、目の前まで来ると両足を羊の左側に揃えると、そのまま短い発声と共に着地した。

 「しゅたっ」


 今なんて言った?「しゅたっ」て聞こえたぞ?こんな擬音を使うのは日本人以外にいない。

 だが、子供の容貌は日本人の大多数とはかけ離れた特徴を持っている。


 両肩で切りそろえられた前髪ぱっつんの柔らかそうな金髪ゆるふわボブ、丸い双眸には青緑の瞳、首には細い金のネックレス、胴衣は四パーツであろう、胸の前で結んだ布、下はおそらく褌のような布、胸部の少し下から膝の少し上までをぐるりと回した布、そしてそれを腰のあたりで留めている、後で結わえる帯のような布。どれもが薄緑色の絹のような生地。天蚕で編んだのか、化繊なのか、光沢を放っている。

 靴は足の裏よりもやや大きめのビーチサンダルのような鼻緒付の革製と思われる。鼻緒の色は同じ薄緑色だ。

 一枚布だけ、または裁断していない布だけで構成された衣装は、どこの国にもある古来からの伝統的な装束だ。

 だが、日本には今やこんな伝統もデザインも無い。

 抜けるような白さのきめ細かい肌、やや掘の深い顔立ち、年齢と比較して長い手足は、北ヨーロッパやロシアなどに多い特徴だったと思う。

 グローバル化が進んだ現代ではそれも当てはまらない。


 僕が凝視しているのを感じたのか、ぺたぺたと音をさせながら歩いてきた彼女も、もの珍しそうに僕を眺めている。

 僕の顔を舐めていた子羊?は、彼女が乗ってきた母羊の腹の下にいつの間にか入り込み、目を細めて乳を吸っていた。

 さらに近づいて、僕の周りを一周しながら「ふーん?」とつぶやいて、正面で止まると右手を差し出して来た。

 立てと言う事だろうか。

 悪いが子供の手を借りる程体力が無いわけではない。

 手を握らずにすっくと立つと、彼女の頬が少し膨らみ、眉毛の両端がわずかに吊り上った。

 が、すぐに気を取り直したのか口が逆三角になり、歯を見せてにぱーっと笑う。


 そして僕を見上げてこう言った。


 「大きな方、はじめまして。あたしと結婚してくださ」

 「いやです」


 僕はつい前のめりに即答してしまった。聞き間違いでは無いと思う。唇の動きや喉の動きは、正確に発声と同じだ。脳内変換されている訳ではなさそうだ。


 またむくれるかと思ったが、笑ったままだ。これは初対面の社交辞令なのだろうか?


 僕には成長途中の女性をどうこうしようという欲求が無い。


 なにより、妹よりも年齢が離れているであろう女性は、動物的に女と認識する事が出来ない。


 しかも妹の脳は少し腐っていて、日頃の妄想癖を目の当たりにしている僕は、女性に対して多少どころではない偏見を持っている。

 実害がともなう歪んだ恋愛脳所有者の妄想癖ほどタチの悪いものは無い。

 僕は被害者だ。


 妹は今年めでたく第一志望に合格し、いわゆるお嬢様学校と言われる都内の女子高に通っている。父さんは妹に甘い。

 寮生活はイヤという事で、家賃十五万もするマンションに一人暮らしをさせている。

 各部屋がどういう使われ方をしているかは想像がつく。

 引っ越しは手伝ったが、立ち寄る事も無く、以後は電話もメールもしていない。


 僕には「男は自立しなければいけない」などと言って学費どころか仕送りさえ一切援助は無しだ。


 初年度の学費と当初の生活費は地元の高校に通っていた時にアルバイトやら何やらで稼いだ金を充て、後はその何やら(内緒だ)だけの稼ぎで生計を立て、学費も捻出できて就職内定まで漕ぎ着けたのだ。

 その何やら(内緒だ)だけでも食ってはいけるのだが、大企業での就労経験を履歴書に書き込みたくて就職を希望した。

 後悔はしていない。

 僕には僕のライフプランがあるのだ。


 だからといって妹の妄想癖のように、同性に興味があるのかと言えば冗談を言うなと張り倒したくなる。


 「じゃあウチまで来てね」

 と言って一際大きな羊を呼び寄せると、「この子に乗ってください」と上目使い。

 行く宛も無い僕は、仕方なく彼女の言葉に従い羊の背に乗った。

 乗馬は中学校卒業まで九年間、週一で経験している。

 鞍の無い裸馬にも乗った経験がある。

 ブランクもあって最初だけまごつき、少し勝手は違うもののすぐに慣れた。


 が、荷物をそのままにしておく訳には行かない。あれには現在使える全財産が入っているのだ。

 右人差し指でカートの方向を指さし、「あれも一緒に持って行きたいんですけどね」とお願いしてみると、「心配ないです。あとから持ってこさせます」と言う。

 しかし周りを見渡しても誰もいない。

 ふと左腕の時計を見ると、《圏外》の表示になっている。時刻は午前九時三十分。時計自体は正常に動いているようだ。


 仕方無く彼女の先導する群れに紛れて家まで行く事になった。


 振り返ると、今いた所の全貌が見える。

 僕があの妙な突起物を擦った場所は、戦後に植えた樹齢五十年以上の杉林だった。

 だが、前方に広がるなだらかな傾斜と、後方に広がる牧草地のような草原が広がる向こうには切り立った崖の前に杉ではない他の樹木が茂っている。時々風向きとは逆方向に揺れているような気がするのは錯覚だろうか。

 空気はやや甘く感じる。放牧地特有の糞臭も無く、植物の揮発性刺激臭もそれほど感じない。


 しばらく進むと平地になった。両脇はやはり平原だが、前方にサイロが見える。羊舎なのだろうか。


 彼女は待っていた男達から会釈と笑顔、笑い声を受けて手を振り、羊達を柵の中へ入れていく。


 僕を見つけた後は、男達が立礼のままなのが気になるが、彼女と僕が乗った羊、最初の子羊だけは別行動で、また簡易舗装された道を歩き出す。

 電線も電柱も見当たらない。

 電波塔も無い。

 電話に関しては諦めるより他に無いようだ。


 さらに羊蹄を進めると大きな邸が見えてきた。庭付き一戸建てには違いないのだが、規模が違う。

 石造りの門には扉が無く、二重に渡された梁の真ん中には金の真円と銀の六芒星、緑の五芒星らしき金属板が縦に並んでいる。家紋だろうか。

 全体では鳥居だが。

 左右に同じような清潔な二階建ての集合住宅のような大型木造建築物があり、正面にベッド数五十を超えるのではないかという豪奢な石造りの邸が見える。



 羊に騎乗したまま、僕らは正面の建物に近づいて行った。


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