ひつじ雲の下で。
「すげぇ、羊だらけだ!」
「本当。羊だ!」
私たちは堤防に腰掛けて、足を海に向けて、ぶらぶらさせながら空を見上げていた。
夏休みのある日、空いっぱいに広がっていたひつじ雲。
ふわふわの毛に覆われた羊。そんな羊に似た雲たちが集まって空を覆っていた。
「なあ、かなめ。俺たちずっと一緒にこうしていような」
「うん」
「約束だぞ」
「うん」
あれは約束。
破られることのない約束だと思っていた。
私は友達として彼の傍に一生、いられると思っていた。
変わったのはあの頃から。
初潮を迎え、胸が膨らみを帯び、体も丸みを持つようになった。
彼の態度が変わり始め、私と話さなくなった。それどころか、私を避けるようになった。
決定的だったのは、中学に上がった頃、男女が対になってフォークダンスを踊る授業があった。
私の相手は彼だったが、彼は他の友達に相手をさせた。私を一瞥することもなかった。
それから急に彼が転校することになり、私の前から姿を消した。
最後まで彼が私を見ることはなかった。
永遠に続くと思っていた関係。
守られると思っていた約束。
ずっと傍にいられると思っていた。
でも彼は約束を破った。
★
「飲み会?」
「うん。進大の男の子も来るんだよ!かなめもどう?」
「ごめん。無理」
男の子は苦手だった。
いや、昔から苦手だったわけじゃない。
小学校までは男の子と間違われるくらいにやんちゃで、自分自身、自分が男の子だと思っていたくらいだった。友達もみんな男の子で、毎日砂まみれになって遊びまわった。
でも、小六になって生理が始まって、自分が女の子だって自覚させられた頃から男の子が苦手になった。
一緒に遊んでいた子たちから、からかわれることが多くなって……。
健吾――馬篭健吾からは無視されるようになった。
ずっと一生にいようと約束した。でも彼は簡単にそれを破った。
破られたのはきっと私が「男の子」じゃないから。
「女の子」になってしまったからだ。
あの時。
私は信じていたものが、全て崩壊したような絶望感に駆られた。
それを救ってくれたのが女の子たちだった。
そして同時に男の子への嫌悪感が生まれ、今に続いている。
「かなめ。男嫌いだもんね。っていうか苦手なのか。でも社会に出たらそうも言っってられないよ。今は女子大だからいいけど、女の子だけの会社とかないし……」
大学寮で同室の桂子は明るくて一緒にいて楽しい。彼女と同じ部屋になって本当にラッキーだと思っている。
彼女は交友関係も広いみたいで、週の半分は外に遊びに行っていて、週末は友達の家に泊まることもある。
でも彼氏はまだいないみたいで、男の子が混ざる飲み会によく行っているようだ。
彼女は時々こうして誘ってくれるけど、私は踏み出せないでいた。
男の子――男は怖い。
何を考えているかわからない。
一緒にいると圧迫感を感じてしまう。
だから一緒に飲むなんて、到底無理な相談だった。
「ね。嫌だったらすぐに帰っていいから行こうよ。徐々に慣らしていったほうがいいと思うのよ」
「む、無理だって。桂子も知ってるでしょ?私、男が傍にいると息が苦しくなるんだって」
「……そうか。やっぱりだめか……」
私の返事を聞いて、桂子が項垂れた。
「……ねぇ。もしかして、すごく嫌な予感がするんだけど……。私が行くって返事しちゃったの?」
「うん。だってさ。進大の子にかなめのこと話したらぜひ会いたいって言われちゃって」
桂子は難しい顔をしていた。腕を組んで壁に寄り掛かる。吐く息も重かった。
……飲み会。
嫌だったら帰っていいって言ってるよね。
顔を立てるくらいだったらいいかな。
男から距離をとるようにして座ればいいし。
「……その飲み会。会費はいくらなの?」
「行ってくれるの?かなめが行ってくれるなら会費はただでいいわ。大体、いつも男の子が多く払ってくれるし」
「……気が進まないけど、今回。返事しちゃったんでしょ?なんで、私に会いたいかわかんないけど、今回は貸しを作ってあげる。その代り、すぐに帰るからね」
「やった!ありがとう!」
桂子はガッツポーズをすると机の上に置いていた携帯を掴む。
指が痛くないのかと思うくらいの早業で画面を叩き、にっこりと笑った。
「明日八時。楽しみにしていてね」
楽しみか……。
笑顔の桂子を見ながら、私の頭に後悔の二文字が浮かぶ。
でも今更前言撤回などできるはずがなく、私は鼻歌を歌う彼女の後ろで小さく息を吐くしかなかった。
それにしても、私に「会いたい」なんて、なんだろうか?
聞き流してしまったが考えてみればおかしなものだ。
私は別にそんな美人でもないし、大学や寮内で過ごすことが多い。そんな私に「会いたい」なんて言われる理由が見当たらない。
そんな疑問が沸き起こったが、洗濯機に服が入りっぱなしだと寮内放送が入り、考えを中断させられた。慌てて洗濯室に入り、服を取り出して屋上で服を乾しているうち、そんな疑問のことなどすっかり忘れしまった。
今思えば、本当はその時、もっと深く考えるべきだった。
せめて飲み会に行く前に、誰が私に会いたかったのか、桂子に聞くべきだったのだ。
★
飲み会の場所は、大学生御用達の値段も手ごろな庶民的な居酒屋だった。今回は参加費ただといわれているので、もう少し高い店を期待したが、世の中そううまくいくはずがない。
私と桂子は予約の入っている奥の座敷の部屋に向かった。
「あれ?テーブル小さくない?」
正方形のテーブルが一つ置いてあった。座布団は四つ。
「うん。ちょっと小さいね。あっちのテーブルとくっつけようか。これじゃ、食べ物とか入りきれないだろうし」
店員を呼び、私たちも手伝って隣のテーブルをくっつけた。
でも座布団は四つのままだ。
私は嫌な予感を覚えた。
「桂子、今日何人くるの?」
「私とあなたを入れて四人かな」
「四人?!なんでそんな少ないの?」
「少ないほうがいいじゃない。男の子がいっぱいいたら困るでしょ?」
「うん、困るけど」
二対二じゃ、そっと帰るなんて無理だ。
来なきゃよかった。
桂子の飲み会はいつも大人数だ。だから、今回も十人程度だと思っていて、そっと逃げ出せると思っていた。
「さて、かなめ。ビール頼んどく?」
私の絶望感など物ともせず、桂子は機嫌よさげだ。手元でメニューを開きながら聞いてきた。
お酒でも飲めば少しは嫌な気持ちも薄れるかもしれない。
「うん。よろしく」
「店員さーん!生ビール二つね」
さっと頼んで、桂子はメニューに目を落とした。
「かなめ、これ。これ頼む?」
「え?まだ来てないけど、頼んでいいの?」
「いいのよ。遅れるやつが悪いもの」
そうして彼女は数皿好きなおつまみを頼む。生ビールが来て、飲み始めた頃、待っていた客人が来た。
二人の男。
背丈はどちらも高くて、多分百八十センチ近く。
一人は茶髪、もう一人は黒髪だった。
二人は話しながらこちらに近づいてきた。
姿が近づき、その二人の顔がはっきりとわかってきた。
黒髪の方の顔を見て、悲鳴を上げたくなった。
口を押えて悲鳴を殺す。
震えが出てきて、逃げたくてたまらなかった。
逃げないと……。
「桂子。悪い。待たせてな。あれ、もう始めてるのか」
茶髪の方、人が好さそうな顔をしていた。桂子は彼に笑いかける。
「あんたたち遅すぎ」
「悪かったよ。本当」
どくん、どくんと、心臓のポンプが大きく動き血液を勢いよく送り出す。血が体の中を異常に早く駆け巡っているような気がして呼吸が苦しくなった。
私は顔を上げられなかった。
逃げたくても、畳に着いた足が動かなかった。
もう一人の黒髪の男、それは私に男性恐怖症、嫌悪感を植え付けた元凶の馬篭健吾だった。
「かなめ、大丈夫?」
二人は私たちの向かいに座り、飲み物を頼む。
私は逃げる機会を失って、まだそこにいた。
男は間違いなく賢吾だった。
最後に彼を見たのは中一の一学期の終わり。
あの時、彼の身長は今違って全然低かった。顔は今と同じ。髪型は……、変わっていなくて妙におかしかった。
黒髪のスポーツ刈り。
目は二重で、切れ長。眉毛は眉間から綺麗に斜めに上がっていて、意志の強さを表わしている。
そう例えれば恰好よく聞こえるけど、要するにいつも怒っているような顔だ。不機嫌そうで……。
「友達」だったころは、その表情に気を揉むことはなかった。
彼は私の「友達」で優しかったから。
でも「友達」ではなくなってから、彼の顔が怖く見えるようになった。
そう、今、目の前の彼は、私にとって恐怖以外の何物でもなかった。
「……桂子、ごめん」
帰りたい。帰ってもいい?
その言葉を飲み込み、私はトイレに行くことを伝える。
背中に賢吾の視線を感じて、背筋が凍る思いがした。
二度と会わない。
会いたくないと思っていた。
それがなんで……。
トイレの個室に入り、便座の蓋を下ろして座る。
涙が出てきた。
怖いから、泣いている、そう思っていた。
でも思い出すのは、仲が良かった小学生の頃だ。
あの頃、私は彼の傍で楽しかった。
幸せなんて言葉、子どもの私には理解できなかったけど、確かにあの時、幸せだったのだと思う。
結局、考えてみれば……。
友達と思っていたけど、当時の私は彼を「好き」だったのだ。
今更そんなことを思い出して無意味だ。もうあの時には戻れない。しかも彼はあの時、約束を破り、私を拒絶したのだから。
「かなめ。大丈夫?」
ドアの外から桂子の声がした。
反射的に俯いてしまう。
私らしくない。あの場に戻るのが怖い。でも私は勇気を振り絞って声を出した。
「……大丈夫」
「ごめん。本当。もう帰っていいからね。私が適当に言っておくから」
「……いいの?」
「うん。無理に連れてきてごめん」
桂子に私が男性恐怖症になった理由を話したことはない。
賢吾のことも、だけど彼女にはわかってしまったかもしれない。
ぱたんと外のドアの開く音がして、私は胸をなでおろす。
トイレは入口付近で、奥の座敷からは死角だった。
『桂子、ごめん。ありがとう』
私はそうメッセージを送ると、トイレを抜け出した。
振り返ることなく店から逃げ出す。
平日の午後九時近く、食事を終わらせた人や次の店に梯子するの人たちが、それぞれ繁華街を歩いていた。
私は呼吸を整えながら、他の人より歩調を遅めにゆっくりと足を動かす。時折、私の傍を勢いよく人が通り、風が靡く。
私は構わず歩調を変えず歩き続け、店を出てから十分くらい歩いたところで、ぐいっと肩を掴まれた。
「かなめ!」
振り切れないほど力がこもっていて、私は立ち止まるしかなかった。
息が上がり、肩を大きく動かして、彼は私を見つめていた。
いや、睨んでいた……が正しい。
「賢…吾」
数年ぶりに彼の名を呼び、言いも知れない気持ちが沸き起こった。
「逃げ…るなよ」
乱れた呼吸を整えながら、彼はそう口にした。
「話があるんだ」
肩を掴んでいた力が弱まっていた。
怖い、怖い、怖い。
目の前に立つ成長した賢吾。
同じくらいの身長だったのに、今はかなり見上げないといけない。
不機嫌そうな顔、怒っている?
動かない私に油断したのか、肩から彼の手が離れる。
「かなめ!」
私の足は、今度こそ動いた。
逃げなきゃ。怖い。
恐怖心に駆られて、私は逃げ出した。
背中で彼が私を呼ぶのを聞いた。でも私は止まらなかった。
★
寮にたどり着いたのは門限ぎりぎりの午後十時前。
門限を過ぎると中に入るのは至難の業だ。
だから大概門限過ぎそうになると、友達の家に泊まる子が多い。
私はまだ寮以外に友達といえる存在がいなかったから、門限に間に合ったことにほっとした。
すでに風呂場はしまっている時刻だ。
寝巻きに着替えて、ベッドにごろんと横になる。
部屋の真ん中には、仕切り用にカーテンが取りつけられていた。両壁にはそれぞれのシングルベッドが側面をつけて置かれている。
今日は佳子は帰ってこない。
わかりきったことだが、私はカーテンを閉めた。
部屋の電気を消して、ベッドのランプを点ける。
肩をつかまれた感触がまだ残っていて、私はその部分を手で触れる。
男の子だった賢吾は、すっかり男になっていた。
私より随分背が高くて、たくましい。
小学校の頃、彼と取っ組み合いの喧嘩もしたこともあったのに。
あの頃、一緒に遊び、笑い、喧嘩した。
じわりと目頭が熱くなる。
涙が浮かんできて、止めようとしたが、言うことを聞かなかった。
枕カバーが涙で濡れる。
馬鹿みたいだ。
あの時の思いをまた繰り返している。
もう六年も経っているのに。
最初は嫌われてるなんて思わなかった。
次第にそれがわかるようになって、私は毎晩泣いた。
中一の、フォークダンスの相手にしてもらえなかった夜、泣きすぎて声が枯れた。
翌日は休んでもいいってお母さんに言われたっけ。
理由を聞かれたけど、言えるわけがなかった。
あの時、何度も小学生に戻りたいと願った。
「男の子」だった私に戻りたいと、神様にもお願いした。
でも時間が経つにつれて、それが叶わぬ願いだということを理解した。
女の子である自分、賢吾に嫌われている自分を認めたのは、彼が転校した後だった。
その頃から、私はある病気にかかった。男の子に恐怖心、嫌悪感を覚えるようになったのだ。
中一の始め、それまでクラスの男子とは仲良くなれなかったが、恐怖心などは感じなかった。
でも賢吾の気持ちが理解できて、私は男の子が怖くなった。
突然、自分を嫌いになるんじゃないか。無視をされるのじゃないかと、男の子と一緒にいると、息が苦しくなった。
親にそんなことが言えるわけがない。
だから私は理由を言わず、高校と大学のどちらも女子校を選んだ。
『かなめ!』
目を閉じて寝ようとした。でも彼の声が蘇り、私は再び目を開けた。
掴まれた肩にまた触れる。
私の名を呼んで、肩を掴んだ賢吾。
何を言いたかったのだろう。
話がしたいといっていた。
考えてみれば、六年ぶりに彼は私を見てくれた。
今さら、彼は何を言うつもりだったのだろう。
聞いてみたい。
彼の話を。
その気持ちがなかったわけじゃなかった。
でも恐怖心。
それが私を動かした。
彼が怖くてたまらなかった。
そうして夜通しもんもんと考え続けたけど、やはり人間は寝るようにできてるらしい。
いつの間にか寝ていて、翌朝私は佳子の電話で起こされることになった。
★
「起きてた?」
「うん」
まだぼんやりしている。欠伸を噛み殺しながら私は佳子に答えた。
机の上の時計の針が十時を指している。
寮の朝食時間は過ぎていて、自力で朝食を買出しに行かないとまずい時間だ。
「……あの、非常に言いづらいんだけど、お願いがあるのよ」
珍しく元気のない佳子の声だった。
でも、私はその「お願い」が何かわかった気がして、緊張する。
多分昨日の飲み会は、賢吾が言い出したに違いない。
なんで賢吾が今さら私に会いたいかわからないけど、追っかけてきたことからそう思う。
だからお願いっていうのはきっと、また会いたいってことだろう。
「……多分、その願いは却下」
「やっぱり?」
まるで、スパイ同士のやり取りだ。
他の人が聞いたらわからない。
それだけ佳子が私の気持ちを理解してくれているということなんだろうけど。
「そうよね。わかった。とりあえず、そう伝えておく」
「……理由、聞かないの?」
「うん。話したくなったら話して」
「……け、賢吾は何か話したの?」
「ううん。聡も知らないみたい」
聡――きっとあの茶髪の彼だ。
賢吾も彼には話してないのか。
っていうか、話すにしてもどう話すわけ?
小学生、いや中学生のときに無視した女の子と話したい、約束を破ったことを謝りたいってこと?
そうか。
そう考えれば辻褄が合う。
賢吾は私に謝りたいんだ。きっと。
でもいまさら?
「かなめ?」
「ううん。なんでもない。ありがとうね」
「ありがとうなんて。かなめ。ごめんね。無理に誘っちゃって」
「いいから。気にしないで」
通話を切って、またベッドに体を投げ出した。
講義は午後からだ。
小腹は空いているが我慢できないほどじゃない。
混乱している自分。
でも、賢吾の考えがわかった気がする。
きっと彼は私に謝りたいんだ。
そうじゃないと会いたい理由が説明できない。
謝ってもらう?
今さら?
あの時私は深く傷ついたし、男性恐怖症にまでなってしまった。
賢吾のせいで。
今さら謝ってもらっても遅い。
「ぐるるる」
お腹が情けない悲鳴を上げた。
怒りを覚え体が活性化したためか、急にお腹が空いてきたようだった。
「……とりあえず、何か食べるのが先決か……」
賢吾のことはゆっくり考えよう。
私を苦しめた彼。
謝るつもりなんだ。
彼はそれで気が済むかもしれないけど、私の気持ちはどうなるの?
……謝ってもらっても私は嬉しくない。
なんで?
あの時私にした仕打ちを謝ってもらったら、私も気持ちが変わるかもしれない。
もしかしたら男性恐怖症も治るかもしれない。
寮を出てコンビニに向かって歩きながら、そんなことを考えたけど、結局考えはまとまらなかった。
昼食用のサンドイッチも買い込んで、コンビニから出る。
そのまま大学にいって、中庭でのんびり食べるつもりだった。
「!」
大学の門近くまで辿り着いて、私はくるりと回れ右をした。
賢吾が立っていた。
なんで、こんなところにいるのよ!
待ち伏せ?
そこまでして私に謝りたいの?
……それなら謝ってもらったら方がいいの?
そしたらもう賢吾は私に会いたいなんて思わないはず。
自分が「傷つけてしまった同級生」に謝って、許してもらいたい。
それだけのはずだから。
だったら、謝ってもらう?
「かなめ!」
ぐずぐずしている間に呼びかけられた。
後ろ姿でも、何故か分かったみたいだ。
まずい!
私は反射的に足を動かしていた。
大学とは逆の方向に走り出す。
「なんで逃げるんだよ!おい!」
私自身、私の気持ちがわからなかった。
ただ逃げたい、逃げなきゃと気持ちが焦っていた。
「かなめ!」
高校から運動部とは無縁の私。
それでも遅い方じゃなかったけど、賢吾の足にはかなわなかった。
腕を掴まれ、足止めされる。
「やっと捕まえた。昨日は油断して逃げられたから、今日は絶対に離さないからな」
ぎゅっと掴まれた腕。力がこもっていた。
「痛いんだけど?」
「……話を聞くって約束してくれたら、離す」
「……何の話?私に謝罪?そうなんだよね?」
「そうだ。でもそれだけじゃないんだ」
賢吾と普通に話している。
腕がじんじんと痛みを訴えていた。
でも、その痛みは彼と話すことで生まれた高揚感で薄らいでいた。
私、普通に話せている。
怖くない。
さっきまであんなに怖かったのに。
なんで?
「話、聞くから。腕を離して」
「本当だな?」
疑い深い。
「本当だから」
そう答えると彼が腕を離した。
開放された腕は、なんだか痺れていた。よく見ると指の跡が赤くついてる。
「痕?力入れすぎた。痛くないか?」
「痛くない。なんか痺れてるけど」
「……悪い」
「悪いと思うなら、何か奢ってよ。こんなところで話できないし」
「そうだな」
おかしいくらい気持ちが落ち着いていた。
普通に話して、しかも一緒にお茶をしようとしている。
そんな自分に驚きながら、私は賢吾の後についていった。
「この店のコーヒーがうまいんだ?コーヒー飲める?」
「うん」
最期に会ったのは中一。
あの時コーヒーなんて飲んだことがなかった。
一緒に飲んだ記憶があるのは、なんだっけ。
ココア、うちのお母さんが賢吾の分も作ったっけ。
一つのことを思い出すと、まるで封印を解かれたように色んな記憶が蘇ってきた。
思えば悪い思い出より、いい思い出が多い。
あんな最期で、楽しい記憶はすべて頭の片隅に追いやられていたみたいだ。
「……ココア、頼んでもいい?」
「ココア?いいけど。ココアか。俺もそれにしようかな。コーヒーもうまいからココアもうまいだろうし」
賢吾はよくわからない理屈を持ち出して、店員にココアを二つ頼む。
「……怖がってなくて良かった」
注文が終わって、窓を見ている私に賢吾が吐息交じりにそう言った。
「怖かったよ。昨日まで。すごく。おかげで男の人が苦手になっていた」
「……ごめん」
「ごめんって。なんで賢吾はずっと私のことを無視してたわけ?あんなに仲良く、いつも一緒にいたのに。約束までしたのに。急に冷たくなって」
「……ごめん。本当に。俺、どうしていいかわからなかったんだ。毎日、どうしていいかわからなくて、気持ちの整理がつかなかった」
いつも不機嫌な顔、つりあがった眉。
でも今はなんだか力がない。弱った顔をしていた。
「俺、かなめがどんどん女の子になるのが、怖かったんだ。一緒に走り回っていたかなめが変わっていくのが、怖くて、自分の知らない存在になる気がした」
「そんなの!私は全然変わらなかったのに」
「そう。今思えばそうなんだ。お前はいつもと同じように俺に話しかけてくれた。でも俺は同じに思えなかった。なんか妙な雰囲気がして、どうしていいかわかなくて」
「だったら言ってくれたらよかったのに。無視されて避けられて、私はあなたに嫌われていると思っていた」
「き、嫌いなんかじゃない。本当にどうしていいかわからなかったんだ」
言葉を吐き出し、賢吾は窓の外に目を向けた。
「ココアです」
タイミングよく店員がココアを二つテーブルに置く。
私はそれを両手で掴み、口に含む。
温かくてとろみの利いた甘みが口の中に広がる。
「美味しい。賢吾も飲んだら」
「ああ」
窓を見ていた賢吾は片手で、カップを掴みココアを飲む。
「うまい。でも、かなめのお母さんの作ったのがもっとうまかったな」
「覚えてたんだ」
「うん。忘れない。あの日、隣のクラスの奴、俺たちが餌やってた猫を捕まえて、川に投げ込もうとしてただろう?俺たち、頭にきて、殴りかかったよな。でも勝てなくて、挙句の果てに川に落ちた。川はめちゃくちゃ水位が低かったけど、尻餅ついて靴とズボンが濡れて、寒かった」
「それで、うちに寄ったらお母さんが強引に居間に引っ張ってココアを用意したんだっけ。着替えがないから、私のパンツ、履いてたよね」
「パンツって、ズボンな」
「そう、ズボン」
あの時のことを思い出して私たちは笑いあう。
「楽しかったな。あの頃」
「うん」
結局この六年のわだかまりは一杯のココアによって、溶かされたみたいだった。
あんなにつらかったはずなのに、あんなに怖かったはずなのに。
「かなめ。こんなこと言うのはすごく、我侭だし自分勝手だと思うけど、また会ってもらってもいい?」
喫茶店を出た私たちはどちらから言い出したわけでもないが、私の大学に向かってゆっくりと歩いていた。
街の中心を抜け、再び私の大学に近づいてきたとき、賢吾が頭をかきながら聞いてきた。
彼らしくない、物言いにおかしな気がした。
「もちろん。だって、本当賢吾のせいで、男性恐怖症っていうか苦手になっちゃってるから。この機会に賢吾にあってリハビリするつもりだから」
「……苦手のままでいいんだけど」
「え?」
問い返した私に賢吾は少し顔を赤らめていた。
「実はかなめのこと、聡から聞いて前から知ってたんだ。桂子ちゃんから聞いたって、俺にも話してくれた。でも名前を確認したのは最近だから、それがお前だってわかったのは後になったけど」
そう言いながら、彼は足を止め私を見つめた。
「ずっと男の子だと思っていたかなめが女の子になって、本当は驚いただけじゃなかったんだ。きっと、俺。お前のことが好きだったんだ。だからどうしていいか余計にわからなかった。だからあんな態度を取ってしまった。ずっと後悔してた。でもどうしていいか気持ちの整理がつかなくて時間だけが過ぎていった」
そこで彼は一旦言葉を止めた。
私は彼の告白にどう反応していいか分からなかった。
嬉しい、その気持ちで心が満たされる。でも何を言えばいいか分からなくて、私は黙ったまま彼を見つめ返した。
「大学に入って、聡と友達になった。そしてその友達の佳子ちゃんとも知り合いになった。ルームメイト、お前の様子を聞いて可愛いなって思ったんだ。それがお前だとわかって無性に、会いたくなった。あの時のことを謝って、また一緒に、俺の傍にいてほしいと思ったんだ」
私も、私も同じ気持ちだった。
でも、彼は私の返事をまたず、自嘲気味に笑った。
「都合いいよな。俺。自分から突き放しておいて、今さらだよな」
賢吾は薄い笑いを浮かべたまま私に背を向ける。
待って、私はまだ返事をしていないのに!
「賢吾!私、私ずっとあなたの傍にいることを願っていた。その願いは絶たれたと思っていた。でもあなたが望むなら前みたいに、傍にいたいと思ってる」
今の賢吾には昨日あったばかりでわからない。
六年前とは変わっているかもしれない。
でも、傍にいないとその違いがわからない。
だから、私は彼の傍にいて、確かめたいと思ってる。
また傷つけられるかもしれない。でも、今度はあの時みたいに黙っていない。
あの時も、無視されても強引に聞けば誤解は解けたかもしれないから。
「お母さん、見て。空にいっぱい羊さんが浮かんでるよ」
ふいに男の子の声が耳に飛び込んできた。
数メートル先で母親に連れられた男の子が空を仰いでいた。
子どもに服の裾を引っ張られ、お母さんも同様に空に目を向ける。
「本当に、羊さんがいっぱいだわ」
ひつじ雲……
夏休みのあの空が思い出される。
私たちは一緒に空を見上げていた。
青い空を占拠していた小さな沢山の羊たち。集まって空を散歩している羊の群れみたいだった。
「かなめ。俺たちずっと一緒にこうしていような」
賢吾はあの時に言った台詞と同じ言葉を口にした。
空を見上げたまま、その横側はあの時と一緒だ。
「うん」
私がそう返事をすると、彼が空から私に目を向けた。
「今度こそ、約束守るから」
彼の表情は真剣だった。
大人の顔で彼は私を見ていた。
「うん」
迷いなく私は答える。
こうして私たちは六年ぶりに再会し、ひつじ雲の下、再び約束を交わした。
あまりにも安易かもしれない。
今の私たちは子どもではない。
これからどうなるかなんて、わからない。
でも、今はただ感じる気持ちを大切にしようと思った。