第一部 序章
※『』内は日本語以外の言語での会話とご理解ください。筆者は日本語と英語しか解せません。会話は全て日本語表記となることをご容赦ください。
<2015年3月 英国 ロンドン>
『兄のこと、宜しくお願いします…こんな時に日本ではぐれモノが現れるなんて、間の悪い…』
『そんなに気に病むなよ。兄貴の件も、お前が悪いわけじゃあるまい。やっぱり東アジアは人が足りないんだよなぁ…。』
月明かりばかりの薄暗がりの部屋から、一組の男女の声が漏れ聞こえ、廊下の闇に溶けてゆく。女性は随分と剣呑な口調だが、対する男性は呑気さを滲ませて返答している。
いつもこの調子だから、心配なのだけど…そんな女性の心境は、むろん男性には筒抜けでもある。会話の端々から、この男女の仲に浅からぬ程の親密さがそこにあると判る。女性が口には出せぬ気苦労を慮り、男性は優しく、そこにいない兄とやらではなく、目の前の彼女を労り諭すように続ける。
『お前の兄貴の気持ちも解るつもりだよ。そりゃ気が滅入るよな、毎日毎日任務漬けだ、俺たちとはツクリが違うたぁ言えよ…』
『だからこそっ!そんな私たちなのだから…勝手が許されるものではないのに…。いま、私たち兄妹が生きていられるのも、団の配慮のお蔭で、』
『よせよせ!お前たちがそんなことばかり言ってるから、団長方もここ数年は扱いに困ってるんだぞ?俺たちは立派な仲間さ、お互いに助け合ってるんだって!ヨハンも、アンナ、お前も俺にとっちゃ大事な弟妹分よ!』
アンナと呼ばれた女性は、うつむき加減に、心細気に答えた。
『ティトのお気持ちは嬉しいです…。でも他の団員は…。』
『だーかーらっ!今度の任務もビシッと片付けてよ、そしたら他の連中だって文句は言わねぇよ。いや、俺が言わせんっ!』
さっぱり威厳を感じさせないが、ティトと呼ばれた男のそっくり反った胸は、彼女の顔を綻ばせる程度の意味はあったようだ。
『フフッ…。解りました、まずは目の前の任務に集中します!』
うってかわってのアンナの力強い言葉に頷きながら、ティトは笑いを押し殺したような顔で彼女を見る。
『ときに…日本での身分は、英語教員なんだってな…プッ、いや、しかも希望したんだって?教員の身分を?…ププッ。』
またいつものからかいだとは良く良く理解していたが、彼女は普段のようにあしらうでもなく、やや上擦った声で反論する。
『そ、それは、選んで良いって言うから!私は、別になんでもっ!』
『ワタシ、キョウシニアコガレルナ、ユメガアルヨネ、ナニカヲオシエテソダテルッテ。』
『イ~レ~イ~ヌ~!!』
ティトの惚けた声が、自分への反駁だと知りつつも、あらぬ方向を睨んでこの場にいない告げ口をした仲間の名前を恨めしげに唱える他なかった。
恥ずかしい…自分がこんな人並の感覚を持っているなんて、どうかしてる…なぜあんなことを口走ったのか…。
『いいじゃないの教師!しっかり務めてこいよ!んで極東の若い野郎どもをたらしこんでこいっ!いやぁ~羨ましいなぁ~トーキョーの子供たちが!俺もこんなホットなブロンド教師に色々おそわわわわ』
全てを言い切る前に、アンナの細腕から伸びる女性らしい小さな掌がティトの顔を覆った…アイアンクロウが見事に極り、あろうことか80kgを超すティトの身体がアンナの片腕で持ち上げられる。なんとも違和感に溢れた光景だが、それを見る者も彼を救う者もその場にはいなかった。
『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、痛いです!おーろーしてー!!』
おもむろにその掌を開きティトを解放するが、彼女は容赦なく目の前の男に恨み言をぶつける。
『趣味が悪すぎますよ、私だって色々思うことはあるんですから!…少しぐらい、人間らしいことだって』
『お前は、これ以上ないぐらい、立派な人間だよ。』
ティトはまた真面目くさったような、偉そうな顔つきで答えるが、自分の顔を撫で擦りながらでは、些かも説得力が感じられないのも事実であった。
『はぁ…。そろそろ行きますね、明日の夜にはトーキョーに入って直ぐに探索を始めます。相手がはぐれモノでは、時間がかかるかもしれませんが、必ず仕留めてみせます。』
今までにない、ある種の覚悟を秘めたような、凄味を見せた顔つきでアンナは言い放った。
またこれだ、とティトは思う。自分の立場を弁えている、と言えばそれまでだが、やはり志を同じくする仲間がこうも生き急ぐ様を見せつけられては溜め息の一つもつきたくなる。それがましてや大事な妹分ともなれば、いじらしいのか、或いは、いじましいのかも判然としない気分に包まれる。
『無理すんなよ、ボチボチやんな。もしも手に負えないと思ったらすぐに連絡よこせよ。あの島国じゃ訳あってバックアップも限られてるしな。』
『心得ています。一応現地に入ったら繋ぎは入れますが、大丈夫ですよ、私一人で片付けてみせます。人員を割けないからこそ、私が選ばれたのでしょう?』
否、とは言えない。確かに、彼女だからこそ、一人で派遣されるのだから。
『気を付けてな。無事に帰ってこい。』
結局、いつもこんな言葉をかけるばっかりだ。…全くイヤになる、俺を現場に戻してもらえりゃ、こいつを、一人にはしないんだが…こんなに窮屈な組織だったかよ、我らが騎士団はよ…。そんなティトの想いを知ってか知らずか、いや、やはり彼女にも彼の気持ちは筒抜けなのだろう。
『行ってきます!』
アンナはとびきりの笑顔を見せて部屋を出て行く。
団長に出発の報告でもするか、とティトも続いて部屋を出る。既にアンナの気配は無い。相変わらずの任務出発の風情だが、ティトは一人ごちる。
『今回はきっと良い旅になるだろうな、兄貴のことからも解放されて、ちっとは息抜きにもなるだろ。それに…な~んかワクワクするんだよな。たぶんアイツに良い出会いがありそうな気がすんだよな…俺の勘は当たるんだよなぁ~。』
ブツブツと呟きながらも、迷い無く廊下を進む彼の足取りは、いつになく軽やかだった。