七 水面(みなも)を抱く
払暁。
神社の本殿の、開け放たれた三方の入口から外に向けて、祝詞の声が玲瓏と響く。
本殿の後方の拝殿には、宮江一族の主だった者達が居並んでいる。
中央には、紅・白・紺で威した色鮮やかな具足で身を固めた総領・太郎美矢。
すぐ後ろにふたりの叔父・四郎美弘と五郎美春が並び、更にその両横に一門の主だった者達が横一列に立ち並んで、本殿に向かって頭を垂れていた。
そしてその配下の将や郎党らが、広い境内に所狭しとひしめき合いながら、総領の出座を今や遅しと待っていた。
出陣の奏上を終えた弓姫が、玉串を捧げて拝殿に居並ぶ者達の前に現れる。
濃紅の切袴の上に白装束を纏い、船いくさの勝利を祈り願うための二枚の領巾――波振領巾と波切領巾を肩にかけた装いは、戦の折の斎姫の正装であった。
一段と深く頭を下げる皆の上に向けて、無言で玉串を左右に振る。
それが終わると、中央に座していた太郎美矢が立ち上がって、拝殿の入口に進んだ。
皆がそれに倣い、総領の左右に控える。
拝殿の階の中央に立ち、近習が捧げる土器に満たされた酒を、三度干した後。
太郎は土器を階の下に、発止と投げつけた。
「えい!えい!」
土器が割れる音をかき消す、総領の大音声に
「おおおう!」
境内を揺るがす程の鬨が、応える。
何時も。
太郎の真後ろで玉串を捧げて立ち、出陣の儀に臨むこの時。
弓姫はこの場に己が居る事の幸せを噛みしめる。
世の常の女子であれば叶わぬ事。
妻としては添えぬ身が、太郎の背後に影の如くぴたりと添い、総領と斎姫として共に宮江を護るのだと心躍らせるのが唯一、この時。
それでも何時しか、忘れていた。
己が何故にここに居るのかを。
鬨を上げ、振り向く事なく出陣してゆく太郎の背を見送り、その武運を祈り、護る。
……それしか出来ぬ己を、時に歯痒く思う事もあった。
わたくしが何故ここに居るのか。
それを、太郎様が思い出させてくれた。
『そなた、以前申したであろう。ここに居ても心は戦場で共に戦うておると。それは女子でも、斎姫ならば出来る事と』
力を以て戦わんとする太郎と共に、祈りを以て戦わんとする弓姫の、出陣の儀。
「いざ、出陣!」
矢は、放たれた。
弓が勝ちと見定めた方向に向けて。
――戦いまする、弓もここで……太郎様と、共に。
護っておりまする、太郎様の夢を……太郎様という矢の、行方を――
階を降りて行く太郎の、色々縅の具足の背に、心の内でそう言葉を投げた時。
それに応えるように、太郎が振り向いた。
一瞬だけ、目を合わせて。
互いに、ちいさく頷いて。
踵を返した太郎は、今度こそ振り向かずに、境内を埋める軍勢の中に消えて行った。
烏帽子に鉢巻を締めたその頭が二の鳥居の向こうに見えなくなるまでを、見届けて。
ふと、弓姫は微かな違和感を、覚えた。
後ろを振り返られた事なぞ、今までなかったのに。
……何故?
……何故か、振り向いてしまった。
何故か今いちど、顔を見ておきたくて。
戦評定が終わり、敵方が出没する海域に入るまでの束の間の、平穏の時。
太郎は船縁に身体を預けて遠くの島影を眺めながら、ひとり、昨日の事を思い出していた。
襟元を掴んで身を揺すぶる、細く白い指に、抑えに抑えてきた想いを揺すりたてられて。
『太郎様』
幾歳かぶりにその名で呼ばれ、月の光を弾いて輝く両の瞳に見上げられて……幻惑されて。
『ここに居るのは宮江の斎姫ではなく、唯の私の従妹』
己に言い訳して、両の頬を掌に包んで。
……初めて合わせた唇は、柔らかく、温かだった。
それでも、辛うじて抱きしめる事だけは堪えた。
抱いてしまったらもう、抑えが効かなかった……おそらく。
華奢な身体を抱え上げて寝所に運んで、衣を剥いで、唇と、肌を重ねて――。
ほんの一瞬だけ心に描いた欲望を、だが太郎は必死で抑え込んだ。
宮江の総領としての矜持と自制心が、己が想いに流される事を、遂に許さなかった。
宮江の護り姫を、事もあろうに出陣前夜に汚すなぞ、決してしてはならぬ事だ、と。
……いや。
宮江の、ではない。
私の、護り姫だ。
私だけの――斎姫。
「太郎」
不意に背後から声をかけられて振り向くと、五郎美春が立っていた。
「力が抜けた顔をしておるの」
そう言われて、太郎はふっと笑った。
「これから戦場に向かう総大将にあるまじき、腑抜けた顔ですか」
「……そう捻くれた取り方をするな、太郎。今のは褒めたのじゃ」
苦笑する叔父の言葉に、はて、と太郎は思った。
「力が抜けた、などと、褒め言葉とは思えませぬが?」
すると
「言葉が足りなんだの。余計な力が抜けた、とでも言おうか」
五郎はそう言って、太郎に穏やかな顔を向けた。
「この所のそなたは、殊更に表情や肩に無理な力が入っておるようで……傍で見ていて危うく思うておったのじゃ」
「叔父上?」
太郎は目を丸くして、叔父の顔をまじまじと見た。
「そなたが出るまでもない程の小競り合いにも、全て先陣を切って出て行きかねぬ勢いで、四郎兄上も如何したものかと案じておった。意気盛んなのは良いが、闇雲に陣頭に立つのでは匹夫の勇と同じ。一族の上に立つ総領としては如何なものかと、のう」
「私は、総領としてはそれしか出来ませぬゆえ」
……珍しく、素直な気持ちが言葉になった。
「太郎?」
「叔父上方に言われるまでもなく、解っておりまする。妻も娶らず子もなさぬでは、総領としての自覚や器量に欠けておるのだと」
「それは違う!」
言いかけた言葉を、五郎が強い口調で遮った。
「思い違いを致すな、太郎。四郎兄上も私も、そのような事でそなたが総領としての器量に欠けておるなどと思うてはおらぬ!」
「叔父上……?」
「元服して間もなく総領の座を継いで以来、そなたはよう精進して総領の務めを果たして参った。戦においても、政においても。それは我等のみならず、家中の者全てが認めておる事ぞ」
「……」
これまで、妻帯せぬ事に関して総領の務めだと再三に渡って諫言を繰り返してきた五郎に、それ以外の点でこうも真正面から褒められるのは初めての事で。
太郎は、ひどく戸惑った。
何をどう返したらよいのか解らず、叔父の顔を見つめて、首を傾げる。
「数多の戦にて常に舳先に立ち、苦戦の折にも怯むことなく皆を鼓舞して士気を高め、勝利を得てきた。累代屈指の総領と申しても過言ではないと、私は思うておるのだぞ」
「それは……流石に買い被りが過ぎましょう」
叔父の今までにない程の手放しの称賛ぶりに、照れるのを通り越して、苦い笑いが浮かぶ。
「総領として船を操り、舳先に立って皆を鼓舞して戦う……私の幼い頃からの、ふたつの夢のひとつでした。それを今、望み通りに叶えているというだけの事。大層な事ではありませぬ」
「ふたつの夢?」
「そのために今ひとつの夢を諦めたのだから、なおのこと力も入ろうというもの」
「――於弓、か」
叔父のちいさな呟きに、太郎は頷いた。
「総領として皆を率いて戦う……私のその夢を護るために斎姫になる、と申しておりました」
「……」
「宮江を共に出ようと言った私に……宮江で、私の夢を共に叶えたいのだと」
……何故だろう。
何かと突っかかってばかりいた叔父に、今日は素直に胸の内を吐露している。
長年己が心の奥深く秘めてきた事を話してしまった分、気が楽になったから、か。
太郎の述懐を黙って聞いている五郎に
「結局の所私は、宮江の為でなく、於弓の為に、戦ってきたのやもしれませぬ」
自嘲気味に、太郎は言った。
「もうひとつの夢を……於弓を諦めた事を、決して悔いないために」
「……」
「誰よりも私を護りたいと言うてくれた於弓を、護るために」
「……」
「その程度の者です、私は。宮江を護るなどと大言壮語を吐いておきながら、実の所護りたかったのはたったひとりの女子のみ」
「太郎……」
「累代屈指の総領などと、おこがましゅうて、とても」
「いや」
五郎が、首を横に振った。
「案外、誰でも、そんなものであろう」
「え?」
「一族の為とか、領国の為とかなぞ、最初から思うておる者なぞおらぬとまでは申さぬが、そう多くはあるまい。大抵は己が目の前に居る親や妻や子や、大切な誰かを護りたいと……それぞれの卑近な思いが、結局は一族を護り、領国を護る力の源となるのではないか、のう」
「……」
「そなたを護る事は、宮江一族を護る事。宮江の斎巫女である於弓を護る事もまた、とりもなおさず宮江を護る事」
「叔父上……」
「そなたたちが唯、互いを護る事が、結果として宮江を護るなら、それで良いではないか」
そう言って、五郎はからりとした笑いを太郎に向けた。
「先だってのように、鹿爪らしい顔で『ふたりで宮江を護る』なぞと大口を叩くより、好いた女子ひとりを護りたいと申す今のそなたの方が、余程真実味があって良いわ」
「叔父上っ!」
半ばからかうような口調に、思わず太郎は顔を赤らめて叫んだ。
なまじ声音が酷似しているだけに、己が言葉を改めて目の前に突き付けられるようで恥ずかしい。
「それその顔!まるで童の頃のようじゃの!」
あっははは…と高笑いした叔父は、やがて真顔になって。
「……そなたの、思う通りにゆくが良い」
「私の、思う通りに?」
「世嗣が事、容易うはゆくまいが……この戦が終わったら、私から四郎兄上に口添えして、次郎を説くようにしてみよう」
太郎は目を見張った。
「そなたは、そなたが思う通りの総領としての道を、全うするが良い、太郎」
真摯な口調で、そう言われて
「……かたじけのうござる、叔父上」
久々に、心からの穏やかな笑みを五郎に向けて……太郎は静かに頭を下げた。
出陣の折の喧騒が嘘のように、しんと静まり返った神社の、本殿にて。
弓姫はひたすらに、祈りを捧げていた。
一族の弥栄を祈り、玉串を神前に捧げ、戦に赴いた宮江の船団と総員の無事を祈り、また玉串を捧げ。
そして……総領の無事を、祈る。
昨夜、太郎様に触れてしまったのは、わたくしの方。
つい昨日の、数刻前の事なのに。
ひどく遠い、別の世界の事のようにも思える。
頬を包んだ掌と、唇に触れた唇の、柔らかな温み。
太郎様が触れたのは、唯の従妹の姫。宮江の斎姫ではない。
それでも、もしも。
触れ合うた事を咎められるならば……それは先に触れたわたくしに非のある事。
報いは……どうか、この身ひとつに。
我が命に代えてでも、太郎様の身を護らせ給え……何卒。
一心に祈った後。
神前に進んで、玉串を捧げて。
また最初に戻って、一族の平穏と安寧の祈祷を捧げようとした、その時。
ひゅう、と。
どこからか吹き込んできた一陣の風が、神前に立てかけた玉串を揺らして、倒した。
そのまま……台の上から、床へとばさりと落ちる。
弓姫は慌てて神前に駆け寄り、玉串を拾った。
そのまま元の通りに立てかけようとして…ふと、手を止めた。
ひどく、心がざわめく。
今のはただの風の悪戯。
そう、自らに言い聞かせて。
――何卒、御無事の御凱旋を……太郎様。
玉串を握りしめ、つい、願わずにはいられなかった。
宮江を出て一刻(二時間)程で、太郎らの主力船団は敵方の船影を認めた。
物見の船が来襲を知らせたのであろう、いつもの荷駄の略奪等の折とは異なり、まとまった数の船が隊列を作って進んで来る。
ざっと見て、数の上でおそらく勝てると太郎は踏んだ。
「……だから申したであろう、そなたが出るまでもないと」
同じように思ったのであろう、隣で苦笑する叔父の五郎に
「されど油断は禁物ですぞ、叔父上。古来、窮鼠猫を噛むとも申しますれば」
厳しい表情で、太郎は返した。
法螺貝の音に合わせて、評定で打ち合わせた通りの陣形を展開して。
船団同士が入り乱れ激突し合う戦が、始まった。
太鼓の音に合わせて船を操り、次々と陣形を変えて敵方の船を翻弄し、叩く。
日頃から鍛錬怠りない宮江の警固衆の前には、相手方の船団はさしたる敵ではなかった。
慌てて伝令を走らせたのか、本拠の島から出てきた援軍と思しき船団が新たに現れたが、それでも勢いに乗った宮江方にはいささかの痛手にもならぬ。
そこへ別の方向から時を置いて到着した、四郎美弘の別働部隊が加わり、宮江の勝ちは動かぬものになったかと見えた。
「御味方の勝利、疑いなし!」
その注進を受けて、太郎は郎党を呼び、宮江への先触れの小早を出すよう指示した。
「後、四半刻もかからぬであろう」
側にいた叔父の五郎美春の言葉に、左様ですな、と頷いて、太郎は再び舳先の方へ歩いていった。
「太郎!もう良いではないか」
止めるのに
「いえ叔父上。勝敗は明らかと言えど未だ戦は続いておるゆえ、油断は……」
舳先の上で振り向いて、笑みを浮かべながらそう言いかけた太郎の背後から、数本の矢が飛来した。
鈍い音がいくつかして。
太郎の表情が、笑いを張り付かせたまま、凍り付く。
「太郎っ!」
「総領!」
驚愕して駆け寄ろうとする五郎や、郎党の周辺にも、矢が次々と突き刺さる。
囲みを死にもの狂いで突破して主船に横合いから捨て身の接近を試みてきた、敵方の関船からの攻撃だった。
未だ、戦は終わらぬ。
宮江の総領が、敵に背を向けるなぞ……有り得ぬ。
首筋と背中の、焼けつくような熱さに堪えて。
舳先の上で、太郎はどうにか身を持ちこたえながら、前方に目をやった。
そこに再び、横ざまから矢の雨が降る。
「総領――っ!」
『夢占にて、御出陣は凶と出ましてございます!』
『戦に勝てるとの御神意を得たとて、御館が必ず御無事とまでは……!』
護り姫の夢占は、正しかった。
私の命数をしかと読み当てた……そなたこそ、累代屈指の斎巫女ぞ……於弓。
敵のものか味方のものか判らぬ白い旗が、眼下の青い水面に流れて、揺らめく。
ふわりふわり、と。
元服の儀の、あの日。
嫋やかに舞う弓姫の背後で、宙に揺れていた二枚の領巾。
あの時から、ずっと。
私の夢は常に、そなたに護られてきた。
もうひとつの……諦めざるを得なかった夢が、夢を追って駆け続ける私をずっと、護ってくれた。
されど。
――もう……いいか?
『まぁだ、だよ!』
楽し気に笑いながら、身を翻す弓姫。
背中に振り分け髪を揺らして、駆けてゆく。
『まぁだ、だよ!』
何時しかそれは、長い髪を背に束ねた白装束の後ろ姿になっていた。
ふわりと揺らめきながら、水面の奥に沈み消えてゆく、二枚の領巾。
決して手には届かぬ。されど、届きたい。どこに隠れても必ず見つけて、掴まえたい。
必死の思いで、手を伸ばして。
「もう……いい、かぁ……い?」
『もう、いいよ――太郎様』
今、行く……於弓――。
数本の矢を身に突き立てられながら……穏やかに、微笑みを浮かべて。
何かを抱こうとするかの如く、両の腕を広げて。
太郎は舳先から、眼下の水面に吸い込まれていった。
「太郎っ!太郎――っ!!」
「誰ぞ!総領が海に!早う小早を寄せるのじゃ!!」
「早う海に潜れ!総領がーっ!」
主船を襲った関船を、すぐさま四方から宮江方の小早が取り囲み猛攻した。
最後のひとりを討ち取った宮江方の者が名乗りを上げたのを潮に、僅か四、五隻残った敵方の船団は敗走を始めた。
五郎美春の指図にてそれらを追尾した船が、更に二隻程を叩きのめして。
戦は、宮江方の圧倒的な勝利に終わった。だが。
海中に沈んだ総領・太郎美矢の身体は、皆の必死の捜索にも関わらず遂に発見する事は出来なかった。