六 逢瀬
空の青さが、日増しに濃くなりつつある。
気が付けばそこかしこで蝉が鳴き始め、次第に大きな唱和となっていく。
もうすぐそこに、夏が来ていた。
宮江の館ではこの所連日、評定に時を費やしている。
都の寺社が瀬戸の島に所有している荘園の管理を、長年宮江氏が任されていたのだが、最近その近辺に怪しい動きが見られていた。
他島の警固衆が頻繁に現れては、集めた年貢などの強奪行為を働いているという。
宮江方では春の終わり頃から数度、手勢を出して彼らを牽制していた。時にはそれが小競り合い程度ながら戦に発展する事もあった。
このまま手をこまねいていては、荘園そのものを押領されかねぬ。この際、ある程度の規模の軍勢をもって相手方を叩いておくべきか否か、それを決めるために皆で話し合いを重ねていたのであった。
総領の太郎美矢は自ら船団を率いて出陣する事を主張していた。一方、補佐を務める叔父の宮前四郎美弘は未だ総領自らが出るにはあたらず、今しばし様子を見てからでもよいのでは、と慎重な姿勢を崩さなかった。
いまひとりの叔父、堀之内五郎美春は、いずれとも態度を決めかねていた。
どちらかと言えば五郎は主戦派に近い。これ以上相手が増長する前に何らかの強い牽制が必要だと思う。
それを評定の場で表明すれば、流れはおそらく主戦論に傾くであろう。だが。
……それで良いのだろうか。
五郎の胸中には近頃、かつて覚えた事のない不安が広がりつつある。
このところの太郎美矢の様子が、気がかりなのだ。
これまで数度の手勢派遣の度に、太郎は自ら先頭に立つと言い、四郎と五郎がそれには及ばずと左右から諌めて何とか押しとどめるという繰り返しであった。
つい先だって別の島の領主との間に起きた、瀬戸内を通行する他国の国主の警固を巡る争いでは、家中を主戦論でまとめた上で叔父達の制止を押し切る形で出陣していった。
結果として勝利の凱旋を果たしたから良かったものの…昨今の太郎のそのような有様に、五郎は頼もしさよりも危うさを覚えていた。
何か……先へ先へと、ひたすらに生き急いでいるような。
もしや、強引に嫁取りを進めようとした事が、却って太郎を追い詰めたのであろうか。
妻を娶り子をなすという責務を放棄する代わりに、他の事では総領としてより完璧であろうと、これまで以上に己を、先頭を切っての戦に駆り立てているのであろうか。
春に、四郎美弘の許に内々に総領の縁談がふたつ持ち込まれた事は、五郎が弓姫に祈祷を依頼した事も含めて、何故か何処からか家中に広く知れ渡った。
分家の姫と、重臣の姫。
どちらが良いか御神意を問うたものの、はきとした御神託が下りず
『いずれも家中にて才色兼備の聞こえ高き姫君ゆえ、氏神様も甲乙付け難いのであろうよ』
神が選べぬものを、ただびとの私が選ぶわけにはゆくまい、選んだら氏神様はもとより姫君方にも礼を失する事になる……と。
そう言って、太郎はいずれの話も断った。
解釈の仕様によっては、御神意に叶わぬ程度の姫達、ともなりかねず、その上に総領に断られたとあっては後の彼女達の行く末に影を落としかねぬ事態であったが、太郎の言葉で双方の家の面目も十分に立ち、氏神様と総領に認められた姫君方として却って他家からの縁談が双方に殺到したため、どちらも程なくして嫁ぎ先が決まった。
『堅物とばかり思うておったが、太郎は一体何処であのような上手い口を覚えたのであろう』
意外な程の円満な成り行きに、この話を進めたがっていたはずの四郎美弘が思わず感心した程であった。
それらの経緯を、五郎美春は、複雑な思いで眺めていた。
御神意が下りた日の、翌日。
五郎は再び単身で、神社の斎館に弓姫を訪ねていた。
前日とは異なり、事前に太郎美矢にその旨を伝え
『斎姫よりそなたに既に御神意が下り給うたとは申せ、先に御祈祷を依頼したのは私ゆえ、私が御礼言上に参るのが筋であろう』
そう言うと、太郎は微かに苦笑いを浮かべながら、仰せごもっとも、とのみ応えて、後は何も言わなかった。
弓姫は前日とは別人のような、憔悴の面持ちで五郎の前に現れ
『申し訳ございませぬ、叔父上。首尾よう参りませずに……わたくしの力が足りず……』
深く頭を下げた。
『そなたのせいではない、於弓。御神意であればそれに従うは当然の事』
と、弓姫は顔を上げて
『叔父上には、御館より御神意の事、既にお聞き及びでしょうか』
酷く不安そうな表情で、問うてきた。
――私が、見てはならぬものを、見ているということだ。
憂いを帯びた……それでいて真率な口調で甥が語った、神意。
――於弓と添えぬならば、妻など要らぬ。
こちらを射抜くような鋭い眼差しを向けての、低い呟き。
それは太郎の、例え御神意であっても己が意は曲げぬという決意の表れに、他ならなかった。
『……詳しくは聞かぬが、いずれの姫の名も挙がらなんだとのみ耳にしておる』
全てを聞いたとは言えず、五郎は曖昧にそう応えた。
『……そう、ですか』
弓姫の口から、ちいさな溜息が洩れるのを、五郎は聞き逃さなかった。
――添えずともよい、唯……ふたりで宮江を護ってゆこうと、誓い合うた。
太郎の片恋ではない。おそらくは、弓姫も。
弓姫が斎姫を拝命し、太郎が元服の後に総領となった…その時にふたりは互いの想いを封じて、そして誓いを交わしたのであろう。
身を添わせる事は叶わずとも、総領と斎姫としてふたり、共に宮江を護ってゆこうと。
『於弓も普通に過ごしておればもはや嫁いで子をなしてもおかしゅうない年頃じゃ。巡り合わせで斎姫として生涯を神に捧げる身となったが、それを思うと今でも不憫での』
弓姫の父である、兄の四郎の言葉を思い起こして……胸が痛んだ。
総領家に姫が生まれていれば斎姫に選ばれる事なく、分家筆頭の宮前の姫として太郎の許に堂々と嫁ぐ事が叶ったはず。
それを思うと、目の前の姪があまりにも不憫だった。
そしてそんな弓姫に、知らぬ事とは言え太郎の嫁迎えの祈祷を依頼した己が、酷く非情に思えて。
『……済まなんだの、於弓』
つい、そう言わずにはいられなかった。
五郎の胸中を知らぬ弓姫は、何故に叔父上が謝られまする、おやめ下さいませ、と……恐縮していたが。
その後太郎は、次弟の次郎美直を己が後嗣にしたい旨、本人に打診した。
次郎美直は驚愕して、これを固辞した。
『兄上は未だお若い。これから御正室を娶られて御嫡子を得る事もありましょう。何故にそのような事を仰せられまするのか』
それに対して兄は、今後妻を娶るつもりも側女を置く気もない事、ゆえに後嗣を早くに定めて、いつ己が身に万が一の事があっても後顧の憂いなきようにしておきたい……と言い、次郎が翻意を促しても首を横に振るばかりであった。
困り果てた次郎からその件について相談された際、四郎美弘は驚くのを通り越して
『一体、太郎は何を考えておるのか』
しきりに首を傾げるばかりであったが、そんな兄に対して五郎は、言うべき言葉を持たなかった。
その事を直々に太郎に問い質そうかと持ちかけてきた四郎に、五郎は瞬時迷った後
『兄上、今しばし様子を見るわけにはゆかぬか。太郎も先の縁談を断った手前、そのような事を今我等と話すのも気まずかろう』
つい、そう応えてしまった。
その直後、荘園絡みの今回の問題が持ち上がり、その件は宙に浮いたまま今に至る。
「もはや様子見の時期に非ず!直ちに軍勢を出して彼奴らを叩くべし。無論、私が皆を率いて出陣する!」
評定の場において、熱のこもった口調で主張する最上座の太郎を見ながら、五郎は誰にも言えぬ焦燥感を、ひとり胸の内で持て余していた。
……そなたは何処へ向かおうとしておるのだ、太郎――。
度重なる評定の末、出陣の是非は氏神様の御神意にて決断する事となった。
総領の依頼を受けて斎姫が祈祷を捧げ問うて得た応えは
『出陣すれば、勝つ』
出陣の決定を受けて、再びの祈祷により吉日の卜定が行われ、その三日後と決まった。
慌ただしく準備がなされる中、五郎は太郎に
「此度の戦、総領のそなたが敢えて出る程の事ではないような。四郎兄上か私で十分なのでは」
と言ったが
「御神意にて必勝が約されておるのに、叔父上は凱旋の楽しみを私から横取りされるおつもりか」
笑いながら、太郎はこれを一蹴した。
そして出陣を翌日に控えた夜。
翌早朝の出陣の儀に向けての支度が全て整った事を確認して、太郎は早々に床に就いた。
――御館!
不意に静寂を揺らした、呼び声。
それはとてもちいさなものだったにもかかわらず、太郎の浅い眠りを一瞬にして覚ました。
夢でも見たのであろうかと思った、刹那。
「……御館!」
間違いない。
長く慣れ親しんだ声。忘れようにも耳から離れぬ響き。
しかしその声の持ち主が、こんな夜更けにこのような場所に、現れるはずがない。
半信半疑で、それでも太郎は褥から出て、寝間衣の上から直垂を羽織りながら板戸の側に立った。
静かに、戸を開ける。
「弓……殿」
空耳ではなかった。
かぶった被衣が頭から滑り落ちそうになるのを端をつかんで押さえ、息をはずませて。
薄雲に覆われた月のほのかな明かりの下でもそれとわかる……そのひとが、立っていた。
「弓殿……」
このような時分に、ここにいるべきではないひとの名を、再び太郎は呟いていた。
「……な、何故このような夜更けに、このような……庭先から」
うろたえ気味の太郎の問いに、
「御館、明日の御出陣、何卒おやめ下さいませ!」
押しかぶせるように、弓姫は言った。
「は?」
「今しがた夢占にて、御出陣は……凶と、出ましてございます!それゆえ何卒!」
一族と総領の護り・斎巫女たる、弓姫の口からこぼれ落ちた、凶つ言。
それが持つ意味のあまりの重大さに、返す言葉を失って。
庭先に立っている弓姫を中へ請じ入れる事も忘れ、廊下に立ち竦んだまま……太郎は自分を見上げる弓姫の瞳を呆然と、見つめていた。
先頭の主船の舳先に、仁王立ちになって。
太郎の鎧に幾筋もの矢が突き刺さっていた。
傾いた身体がゆっくりと、船縁から海面へ落ちていく。
朱に染まる、水面――。
「いや、ああああっ!」
恐怖に凍りついた己が叫び声で、弓姫は目が覚めた。
「姫様!如何なされました!」
次の間に宿直していた侍女が何事かと駆けつけるのに、
「済まぬ……何でもない、夢見が……」
そう返しながら、弓姫は自分がぐっしょりと汗をかいているのに、気付いた。
「姫様……」
「……汗がひどい。着替えを」
「はい、ただいますぐに替えの衣を」
立ちかけた侍女を、待ちや、と弓姫は止めて
「小袖と、被衣を。出掛けます」
「何を仰せられます姫様!このような夜更けに……!」
滅相もない事と、仰天する侍女に、
「御館に、火急に申し上げねばならぬ!御神意じゃ。由々しき夢占が出た。急ぎ支度を!」
叱りつけるような激しさで用意を申し付け、手早く身なりを整えると、
「この事必ず他言無用に。凶つ夢ゆえ他の者には知られとうない。良いな!」
念を押して単身、斎館から総領館の裏手へ下る隠し道を数年ぶりに駆け下りてきた弓姫であった。
「弓殿」
事のあらましを聞きながら落ち着きを取り戻した太郎は、やがて静かに言った。
「明日の出陣に、変更はない」
「御館!」
「準備は全て整っておる。潮目も天候も風も、全て考慮した上で決めた事。最早取りやめる事など出来ぬ」
「さ、されど……それでは御館が……」
顔色を変えて詰め寄る弓姫を宥めるように、
「大事ない。私は死なぬよ、弓殿」
履物に足を入れて庭に下りながら、太郎は優しく笑いかけた。
「そなたが御神意を問うた上で決めた出陣ぞ。此度も神が我等をお守り下さるであろう。これまで同様、負けはせぬ」
「確かに……」
返す弓姫の語尾がかすれた。
「確かに、神はこの戦、出陣すれば必ず我らが勝つと宣られました。斎巫女としてわたくし、御神意をつゆほども疑うものではございませぬ」
「ならば何も……」
「御館」
太郎が言いかけるのを遮るように、
「御館はかねてより、先々代……祖父上様のようになりたいと仰せられておりました」
弓姫は声を震わせて、言った。
「祖父上様が果敢なお働きで宮江に勝利をもたらしました戦にて……御自身は御討死なされし事、よもやお忘れではございますまい!」
「弓殿!」
「戦に勝てるとの御神意を得たとて、御館が必ず御無事とまでは……っ!」
「弓殿……」
思い詰めた眼差しで見上げてくる弓姫を、労ろうとして。
昔そうしたように、弓姫の両肩に手をかけようと……差し伸べた手を、太郎は途中で止めた。
斎姫には、例え肉親でも、男子は触れてはならぬ。
だが近寄りかけた太郎の襟元に、弓姫の方が手を伸ばしていた。
「太郎様!」
「……!」
「何卒、御自らの御出陣はおやめ下さいませ!誰ぞ御陣代を立てられて……何卒!」
「弓殿……」
「宮江の斎巫女としてではなく、総領家の一の姫として、太郎様の唯の従妹の弓として……お願い申し上げまする!」
寝間衣の襟をつかんで揺すぶり立てる華奢な指。
思いも揺れて、千々に乱れる。
「お願いにございます……お願い……」
取り縋らんばかりの弓姫を抱きしめたくなるのを、
「弓殿」
宙に浮かせた両手をきつく握りしめて辛うじて堪え、太郎は言った。
「ならば、総領家の一の姫として……そなたが私を護ってくれ」
「……太郎様?」
意外な言葉を返されて、弓姫はまじまじと太郎の顔を見上げた。
「弓殿は、宮江の斎巫女である前に、私の護り姫」
「……」
「そう申したであろう、ここで」
弓姫はちいさく頷いた。
「……ええ、ここで」
遠い日。
いみじくもこの庭で、月明かりの下で、誓った言葉。
『わたしは斎姫である前にまず、総領家の一の姫。将来の総領の……太郎様の護り姫となりたいの』
『俺の……護り姫……』
『太郎様がどなたを御正室に迎えても、太郎様の護り姫は、生涯、わたし……』
『於弓!』
『弓はここで、ずっと……太郎様を、護るから……だから……』
抱きしめられた腕の中、思うさま泣いた日。
その翌日、太郎は元服、弓姫は斎姫を拝命した。
あの日から。
「あの時から、わたくしは……太郎様の護り姫」
「そうだ」
弓姫の頬に、微かに赤みがさした。
「そなたが私を護っておると、何時でも私は思うておる。だから何時も、どのような危難をも乗り越えて無事に戻って来られた、とな」
「太郎様……」
「此度も、そなたの祈りがきっと私を護る。例え予見された災厄であれ、そなたの護りあらば必ず打ち勝てると私は信じておる」
「……」
「凶つ夢が逆夢となるよう、私が無事戻るまで祈っていてくれ、弓殿」
微笑む太郎の顔を見上げていた弓姫は、つと視線をそらした。
「弓は……男子であれば、ようございました」
「……は?」
思わぬ言葉に、太郎は首を傾げた。
「どのみち太郎様に添えぬ運命であったならば、せめて男子に生まれて、戦の折もお側近うお仕えしとうございました」
「弓殿……」
「さすれば、迫り来る矢から盾になってでもお護りしようがあろうものを。唯ここで祈るしか出来ぬこの身が、口惜しゅうございます」
「……いや」
まっすぐな弓姫の思いに、しかし太郎はかぶりを振った。
「そなたが女子で、良かった。そなたに出会うて、そなたを想うて」
「……太郎様」
弓姫の視線が再び太郎に向けられる。
「添う事は叶わなんだが、私は、弓殿と相想うた事を悔いてはおらぬ」
「……」
「そなたは、悔いておるのか?」
「いいえ」
即座に、弓姫は首を横に振った。
「弓殿、私は」
太郎は唇に柔らかな笑みを浮かべて、
「そなたが常に、側におった事……そなたが私の従妹、私の護り姫である事……全て、我が身の幸いであったと思うておる」
ゆっくりとひとつひとつ噛みしめるように、言った。
「離れていても常に、そなたの祈りが私を護っている……そう信じるからこそ、何時でも何処でも心置きのう戦って来られたのだ、私は」
「太郎様」
「それに、そなたは唯祈っておる訳ではあるまい?」
「え?」
「そなた、以前申したであろう。ここに居ても心は戦場で共に戦うておると。それは女子でも、斎姫ならば出来る事と」
「太郎様……!」
弓姫は大きく瞳を見開いた。
「……忘れておりました……そう、でした」
宮江を守るべく、総領として皆の先頭に立ち、雄々しく戦う。
太郎のその夢を護る為に。
そんな太郎と、己も共に戦う為に。
「わたくしは……その為に、斎姫を拝命したのでした」
「うむ」
太郎が優しく頷いた。
「わたくしは弓、太郎様は矢……所こそ違えども、共に戦うのに変わりはありませぬ」
「そう、弓あってこその、矢だ。それゆえ私は元服の折、我が名に『矢』の字をと望んだ」
「太郎様」
「護っていてくれ、弓殿。ここで私を……私の、夢を」
「はい」
弓姫もちいさく頷き返す。
「弓は放った矢の行方を……貴方様の御無事を、必ずここで護りまする……太郎様!」
「『太郎様』と呼ばれるのは、幾歳ぶりかの」
見上げた太郎は、月明かりでもそれと判る程、頬を上気させていた。
「弓殿の……そのようななりを見るのも、久々の事だ」
「え……」
言われて弓姫は、己が身に纏っている淡紅色の小袖に目をやった。
考えてみれば斎姫に任じられて以来、太郎の前に出る時は普通の姫らしい格好はしていない。
「何時も、巫女の出で立ちに鉢巻を締めて、一心不乱に榊を振っておるものと思うておるゆえ」
「まあ!ひどい仰り様ですこと!ひとをまるでなりふり構わぬもののように」
弓姫は上目遣いに太郎を睨んだ。
「わたくしとて、内々では普通の出で立ちで過ごしておりますのよ。太郎様が御存じないだけです!」
童の頃の口喧嘩そのままに、半ばむきになって口を尖らせた後。ふと地面に視線を落として、
「……似合い……ませぬか?」
ぼそりと呟いた。
「……いや」
少し、はにかんだような返事が、頭の上から振って来る。
「よう似合うておる……本当に」
「……まあ」
あからさまな褒め言葉に、弓姫は思わず太郎を見上げた。
両手はまだ太郎の襟元を緩く掴んだままでいる。
離そうと、離さねばと思いながらも……手が意思に反して、離そうとしない。
思えば。
こんなに間近で太郎の顔を見るのも、絶えて久しい事であったが。
「弓殿の顔をこれほど近くで見るのも……久々の事だな」
思っているのと全く同じ事を、太郎が口にした。
「太郎様……」
笑おうとして、弓姫は少し頬を歪めた。
今泣いては、いけない。
こんな折に涙など、不吉だ。
泣いては、駄目……。
無理に口元を綻ばしかけた、その時。
「ここに居るのは……宮江の斎姫ではなく、唯の私の従妹……」
太郎が、独り言のように、言った。
「ならば……神もお怒りには、なるまいか」
小さな呟きと共に。
温かな掌が、両の頬をふわりと包む。
遥か宙空に円を描く月の光を背景に、穏やかな微笑が落ちてくるのを、視界に収めて。
弓姫はゆっくりと……瞼を閉じた。
「――於弓……」
被衣が髪をすべるように、さらりと落ちて。
溢れた涙の雫が、頬をつたって、太郎の両手を静かに濡らしていった。