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三 月下に誓う

 足下が、少し暗くなった。

被衣かずきを掲げて夜空を見上げると、月に薄く雲がかかっている。


 『月に叢雲むらくも

とは元来、良い事には差し障りが生じやすく長続きしない、という意に使われる。

だが今の場合、それが却って都合が良い。


 もっと暗くなりますように。誰にも見咎められないように。

雲間に薄れた丸い月の輪郭に祈りをかけ、被衣を深くかぶり直して、弓姫は先を急いだ。


 勝手知ったる総領館の庭。

植え込みの陰から陰伝いに、待ち合わせの場所を目指す。

『今宵子の刻、父上の御寝所前の庭にて』

昼間、離れの弓姫の居室に射込まれた矢文やぶみには、見覚えのある手蹟でそう記されていた。


 明日、太郎の元服の儀が挙行される。

本来であれば年明けの正月に予定されていた事だったが、斎姫の急逝に伴う次期斎姫の拝命が急がれる事、そして総領である太郎の父・太郎美行の具合が思わしくなく、事と次第によっては総領の代替わりを近々考えねばならぬという事情から、元服を半月前倒しにして、その際に斎姫の拝命の儀をも同時に執り行う事となった。


 総領・美行は明日の諸事の最終的な打ち合わせの為に、今日は朝から神社に詰め切りでいた事、そして頻繁な移動は病身に障るため今宵はそのまま神社の裏手の詰城に泊まるという事を、弓姫は知っていた。

幼い頃から神社や斎館を遊び場にしてきた太郎や弓姫ゆえ、斎館から総領館の裏手へ下る隠し道のありかもよくわかっている。

下手に外で会うよりは、闇に紛れて総領館の、主のいない寝所の庭先で会う方が良い。


 ……太郎様はおとなしく元服なさるつもりではなさそうだ。


 明日に元服と斎姫拝命の儀式を控えての、太郎のこの大胆な指示に、弓姫はそれを感じ取った。

夜中に自分を呼び出して、どうするつもりなのか。


 もし……もしも。

共に死んでくれ、と言われたら。


 その可能性もなきにしもあらず、だ。

そう言われたら、自分はどうするのだろう。


 小走りに先を急ぎながら、弓姫は自問してみる。


 明日、斎姫を拝命したらもはや、生ある限り太郎と結ばれる事は叶わない。

共に今生を終えた後の、次の世に望みを繋ぐより他、ない。

そこで果たして太郎と再び巡り合えるのか否は判らない、けれど。


 太郎と共に死ぬのなら……死んで来世にふたりの想いの成就を賭けるのなら、それでもいい。

死ぬ事は怖くない。でも。


 それでいいのだろうか……本当に。



 庭先の、柿の木の下で、太郎は待っていた。

「於弓……」

「太郎様……」


 お互い相手の姿を認めて駆け寄ったものの、後の言葉が続かない。

目と目を見交わしながら、しばらく沈黙の時間が続いた。


 「……逃げよう」

突然、太郎が言った。

「え?」

一瞬、何を言われたのかわからず、弓姫は首を傾げた。


 「ふたりで、逃げよう、ここから」

辺りを憚る小声で、だけど一言一言区切るようにはっきりと、太郎は言った。

「た、太郎様……」

思いもかけぬ言葉であった。

あるいは共にに死のうと言われるか、とは考えていたものの、よもや逃げようとは。

「……逃げて、どうするの?どこへ行くの」

太郎の目を覗き込むようにして問うと、

「それは……」

眼差しが、微妙に揺れているのが判った。

 

 「それは……ここを出てから考える」

ひたと視線を合わせて問うてくる弓姫から、僅かに目を逸らして。

太郎はやっと、そう答えた。

とにかく、ここから逃げる。

それは十四の、元服前の少年が考えつく、精一杯の方策であった。


 「……改めて言う。於弓」

視線を弓姫の顔に戻した太郎は、ひどく真面目な調子で切り出した。

「俺はそなたが愛しい。ずっと愛しゅう思うておった。いずれ妻にと、思うていた」

「太郎様……わたしも」

常の時であれば、思わず頬を染めたであろう真っ直ぐな告白を、弓姫は静かに受け止めて……そして、返した。

「わたしも、いつか太郎様に添いたいと思うていた。ずっと前から」

「……うん」

太郎は微かに表情を緩めて、頷いた。

「俺の妹が生まれれば、事は容易かった。されど今となってはもはや、どうしようもない」

「……」

「宮江に居る限り、そなたと添う事は叶わぬ。ならば、とにかく宮江から出るしかない。迷うている時はもはやない。それゆえ後の事は出てから思案しようかと……」

「宮江から、出る……」

弓姫は、口の中でちいさく呟いてみた。


 「於弓は、嫌か?」

おずおずと、太郎が問う。

少し困ったようなその表情を見て、弓姫はくすりと笑った。

「……何が可笑しいんだ」

「太郎様らしいな、って」

「それは、思い付きだけで動いて後の事を全く考えておらぬ、という事か?」

正にその通りなので憮然として太郎が言うと、

「ううん、あのね」

弓姫は少し首を傾げるようにして、続けた。

「ここへ来るようにって文を読んだ時ね」

「うん?」

「もしかしたら、共に死んでくれって言われるのかと、思うたの」

「於弓……」

唖然、といった感じの太郎の顔を見ながら、

「でも、太郎様らしい。死ぬ事よりも、生きて何とかする事を、考えている」

ふふ、と弓姫は笑った。


 そうだった。

太郎は、死んで来世で結ばれる事を祈る、などと、間違っても考えそうにない性格だった。


 「当たり前だろう。死ぬなんてのは、一番最後の手段だ。死んだらもう、何も出来ないんだからな」

そう言いながら、太郎はつと腕を伸ばした。

かぶった被衣ごと、ふわりと弓姫を抱く。

「……こんな事も、出来なくなる、から」


 太郎の呟きを、肩のあたりに頭を預けて弓姫は聞いていた。

こんな風に抱き合ったのは、随分久々の事だ。もう、何年前になるのだろう。

その頃はまだ、相手を意識するような年でもなかった。

『於弓、見いつけた!』

隠れ鬼で、横合いからわっと抱きつかれて、

『うそぉ!見つからないと思うたのにっ!』

真っ赤なほっぺたとほっぺたをくっつけたまま、悔しがった、あの頃。


 「……背が高うなったね」

今は太郎の顔どころか、肩にも届かない頬を、襟元にそっと押しつけて、呟く。

「昔は同じ位だったのにな」

太郎が、低く言った。


 例え、死ななくても。

明日が来れば、斎姫を拝命すればもう、互いの温もりを確かめる事など、叶わなくなる。

神に仕える巫女姫は、生涯独身を通し、例え肉親の誰彼と言えども、男子は触れる事さえ許されないのだ。


 ならばやはり、逃げるしかない?

でも。

……それでいいのだろうか?

ここへ来る途中考えた事を、弓姫はもう一度頭の中で繰り返していた。



 「太郎様」

太郎の腕の中でじっとしていた弓姫は、ややあって口を開いた。

「わたし、斎姫を拝命する」

「於弓!」


 意外な言葉に、太郎は弓姫の身体を離した。

被衣の上から両腕を掴んだまま、弓姫の顔を覗き込む。

「だから太郎様も、逃げるなんて考えないで。貴方は宮江になくてはならぬ方。だから」

「於弓……それで、本当にそれで良いのか?明日になったら、そうしたら俺達はもはや……」

「……斎姫の事を言われた時から、色々考えたの。斎館で潔斎している間もずっと。ここへ来る途中もね、考えていたの」

口許に微かな笑みをたたえて、弓姫は太郎の顔を見つめた。

「それで、太郎様にこうして会うて、話をして……それでやっと、覚悟が出来た」

「覚悟……」

「そう、覚悟」

太郎は弓姫が何を言いだすのかと、瞬間身構えた。

弓姫の両の腕を掴む指先が、心なしか震える。

「斎姫は生涯嫁げない」

「……」

「でもそれでもいい。わたしは、神に仕えて一族の護り姫となる……一生」

「於弓っ!」

「でもね、太郎様」

驚愕する太郎とは対照的に、むしろあっけらかんとした調子で、弓姫は続けた。


 「一族なぞどうでも良いの」

「え……」

「一族よりも何よりも、わたしは太郎様を、護りたいの」

「俺……?」


 弓姫の言葉の真意が読めず、太郎は怪訝そうに呟いた。

「わたしは斎姫である前にまず、総領家の一の姫。将来の総領の……太郎様の護り姫となりたいの」

「俺の……護り姫……」

「そう。太郎様が死ぬまで、あるいはわたしが死ぬまで、わたしが太郎様の、護りの姫」

相変わらず微笑んだまま、ゆっくりと言葉を切って、弓姫は言った。

まるで、自分自身にそう、言い聞かせるように。

「だから太郎様、宮江を出ようなどと、言わないで」

「於弓……」

「御館様のように……いいえ、戦で見事な討死を遂げられた先代様……祖父上様のように、いずれ宮江の総領として、船を操り、舳先に立って皆を鼓舞して戦う……それが貴方の夢でしょう?」


 弓姫の口から、優しい歌のようにこぼれる、幼い頃からの太郎の夢。

自分が如何にそうありたいと望んできたか、一番よく解っている、筒井筒の従妹。

だからこそ、いつか彼女を我が妻にと……願った。

それもまた、太郎の幼い日からの変わらぬ夢でもあったのだ。


 弓姫が総領家の一の姫である事、それゆえの将来の立場、それを知らなかった訳ではない。

むしろ当の弓姫以上に、『そのこと』に関しては、太郎は敏感であった。

いつも無邪気にじゃれ合う二人を見て、何気なく、

『似合いの一対でござりまするな』

と微笑む家中の者達と、それを聞いてふと複雑な表情を見せる父や叔父・叔母等の、一族の人々。

太郎は早くから、そういう大人達の反応に気付いていた。

それが何を意味するのかを初めて教えてくれたのは、年の近い叔父だった。


 誰にであったかは忘れたが、いつものように『末は似合いの夫婦みょうとになりましょうな』と言われて。

『誰も彼もが同じような事ばかり言うて!俺と於弓が似合うておるなどと!』

内心では嬉しいのに、周りに言われると何故か無性に腹ただしくて、ぶつぶつ言っていたら

『されどそなたに妹が生まれなんだら、於弓とは夫婦にはなれぬぞ?』

側で聞いていた父の末弟・五郎美春よしはるが、何気なく返してきた。

『え?』

虚を突かれて、太郎は日頃兄のように親しんでいる七つ年上の叔父の顔をまじまじと見た。

『どういう事じゃ、叔父上?』

と、五郎美春はおや?という顔で

『於弓は今の所、宮江の一の姫ぞ?御館様……三郎兄上に姫が生まれねば、斎の姉上の後は於弓が斎巫女を継ぐ事になろうが』

そなた知らなんだのか?と問われて、太郎は思い切り首を縦に振った。

『まあ、兄上も、斎の姉上も未だお若い。先々の事は判らぬがの』

そう言った後で

『しかしそのように慌てるとは……本当の所そなた、於弓と夫婦になりたいのであろう?』

からかうように笑う叔父に

『叔父上までそのような!』

むきになって食って掛かった……あれはもう、何年も前の事。


 あの頃はまだ、その事をさほど気にはしていなかった。

太郎の後には次々に、弟が生まれている。

いずれ妹が生まれる事があれば、総領の一の姫として、その姫が斎姫となる。

斎姫である叔母はまだ若いから、そう急に代替わりするなど有り得ない。


 有り得ないと、思っていたのに。


 人の運命はわからない。

あまりにあっけない叔母の急逝。

そして、それによって自分の夢はひとつ、砕けようとしている。

ふたつの夢の、どちらかを取っても、どちらかは永久に叶わない。


 叔母の野辺送りが済み、いよいよ次の斎姫の拝命の事が取り沙汰され始めたあたりから、太郎はずっと、考え続けて来た。

考えて、考えて、考えた末。

宮江の総領になる夢を捨て、弓姫を選ぼうと、思い定めた太郎であった。だが。


 「わたしはここで、太郎様の夢を共に、叶えたいの」

「俺の夢を、ここで?」

弓姫はこくりと頷いた。


 「いつか総領として、太郎様は皆の先頭に立って、出陣するでしょう?その折、太郎様が戦場いくさばにてつつがなく御活躍出来るよう、御凱旋の時まで祈りを捧げるのが、斎姫の役目」

「於弓……」

「ここにあって、けれど心は戦場にある皆とひとつにして、唯、神に祈るの。敵を退け、御味方を勝利に導く為に」

「……」

「女子だから、太郎様と夢を共にするなど、共に戦に出るなど叶わぬと諦めていた……けれど」

太郎の目を、しっかりと見据えて、

「斎姫であれば、太郎様と共に戦う事が出来るわ、宮江の為に」

そう言い切った弓姫の瞳は、雲間からのぞく月の光を映して、冴え冴えと輝いていた。


 「宮江の為に……共に……?」

「そう。だから太郎様は、太郎様の夢だけを見ていて」

「於弓」

「宮江を捨てるなどと、ずっと昔からの夢を捨てるなどという事、二度と言わないで」

太郎を励ますように、弓姫は言った。

「明日、元服して、ゆくゆくは御館様の後を継いで、総領になられて」

「……」

「総領として……御正室を、迎えて……」


 語尾が微かに震えるのを、太郎は聞いて取った。

「もういい……それ以上言わなくていい!」

思わず、弓姫を抱き寄せる。


 ずっと昔からの夢は、ひとつではない。

筒井筒の姫と末永く添っていきたいという、温かな想い。ささやかな夢。

宮江を取る事は、その夢を捨てる事。


 「俺は生涯、妻は娶らぬ!そなたと添えぬならば、妻など要らぬ!」

弓姫をかき抱いたまま、太郎はちいさく叫んだ。

「……そうはゆかぬでしょう?宮江を後に繋げるのも、総領の務めなのだから」

腕の中でちいさく笑う弓姫の声は、だが心なしかうわずっていた。

「でもいい。太郎様がどなたを御正室に迎えても、太郎様の護り姫は、生涯、わたし……」

言葉が、嗚咽で途切れた。

「わたしだけじゃ……貴方と同じ夢を見るのは。遠くで戦う貴方の夢を、ここで護るのは」

「於弓!」

抱く腕に、力が籠る。


 「……俺は、矢だな」

「太郎様が……矢?」

「弓があるから矢は遠くへ飛べる」

「弓が……あるから……?」

「そうじゃ。そなたがここにある限り、俺はどこに向こうても存分に戦う事が出来る」

「……」

「於弓……そなたは、俺という矢の行方を定める、弓そのものだ」

「太郎様!」

「そう思えば……辛うはない、辛うは」

「……そう、そうじゃ……弓はここで、ずっと」

見上げる弓姫の瞳に涙が宿った。

「ずっと、矢の行方を……太郎様を、護るから……だから……」


 それきり、言葉にならなかった。

太郎の胸に顔を埋めて。

声を噛み殺すようにして、肩を震わせて、弓姫は泣いた。

その細く温かな身体を腕の中に納めながら、太郎は宙を仰いで、涙を堪えていた。


 いつか雲は残らず消えて、無数の星が空を飾っていた。

月は中天にあって、大地を煌々と照らしている。

その、静かな光の中で。

今宵を限りの恋人達は、黙って抱き合ったままいつまでも、お互いを手離そうとしなかった。



 翌日。

神社にて、太郎の元服の儀が執り行われた。

烏帽子えぼしを被り、大人のなりに変わった太郎の名乗りは、

『宮江左衛門尉美矢よしや

宮江の者が代々名に冠する「美」の字に、下の一字は当日の朝突然、太郎の強い希望によって、太郎自らが選んだものに変更したのだという。


 慣習に従って、総領家嫡子の元服の場で巫女舞みこまいを奉納するのは、これも同じ日に斎姫を拝命した弓姫であった。

白装束に襷がけ、濃紅の長袴を履き、垂髪たれがみに白の鉢巻を締めて。

肩から腕に緩くまとうのは、先祖伝来の二枚の長い領巾。

一振りすれば大波を起こすと言われる『波振領巾なみふりのひれ』と、波を鎮める『波切領巾なみきりのひれ』。

手にはこれも代々伝わる檜扇ひおうぎを捧げ持って、神前に進み出る。


 朱を点じた唇を一文字に引き締めて。

満座の中にあって少しも臆する事なく、凛と前を見据えて。


 十四の少女とは思えぬその凄烈な美しさに、居並ぶ誰もが息をのんだ。

それは、心に固く秘めた決意を持つ者の放つ輝きであった。

誰もそれを知らない。唯一人を除いては。


 神楽に合わせて、弓姫が舞う。

ゆるゆると、袴の裾を捌き、扇をかざして、舞う。


 その扇の一振りに。

宙になびく領巾の一揺れに。

太郎美矢は、弓姫の心の声を、真摯な誓いを、確かに感じ取っていた。



 ――わたしが、貴方を、護ってあげる……。



 このひと月後、太郎の父である総領・美行は、戦の傷が悪化して遂に世を去った。

太郎、元服して宮江左衛門尉美矢は、十五歳にして宮江一族の二十八代総領の座に就く事となった。

ひとつの夢を諦めた太郎は、もうひとつの夢へ向けて、いよいよ一歩を踏み出す事になる。

そして。

それは太郎にとって、また斎姫として斎館に入った弓姫にとって、長い試練の日々の始まりでもあった。


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