二 宿命
「ねえ、見える?」
「いや、まだ見えぬ!」
上を見上げていた弓姫は、ほ……と溜息をついた。
「弓も、登ろうかな……」
それはごくちいさな呟きであったが、頭上の木の上にも届いたらしい。
「……そなた、少しは己が年を自覚した方が良いぞ」
半ば呆れたような低い声が降ってきた。
「地獄耳!」
弓姫はふくれっ面をして、上にいる太郎に向かって叫んだ。
「五感が鈍うては大将は務まらぬからな!」
そう言って笑いながら、身軽く下へ飛び降りる太郎。
「そもそも、そのなりで木に登るなぞ、正気の沙汰ではないわ」
「何故?小袖で木に登るなぞ、造作もない事じゃ」
「……あのな」
弓姫の返事に、太郎は困惑の表情を浮かべた。
「於弓、そなたいくつになる?」
「……何が言いたいの?」
近頃めっきり背丈が伸びた太郎の顔を、弓姫は上目遣いに睨みつけた。
「わたしを虚仮にしているの?それとも太郎様が、弓と同い年という事を忘れる程惚けたという事か」
口を尖らせて言うのに構わず、
「そう、俺と同じ、年が明ければ十五。男子なら元服して大人の仲間入りをする年だ」
冷静な調子で太郎は返した。
「いいか、於弓」
「何?」
「よおく、考えてみろ。いい年をした大人の女子が木になぞ登るか?」
「何よ、登っては悪いの?」
「於弓……」
太郎は大きく嘆息した。
「だから、そういう事ではのうて……」
口を開きかけたのを、弓姫が手で制する。
「太郎様あれ!」
言われて太郎は、弓姫が指し示す方向、彼方の海へ目を凝らした。
「船じゃ!」
遠い島影から、船らしき影が次々に現れる。
風に流れる旗には、遠目にも分かる程はっきりと染めぬかれた、丸に波型一文字の紋。
「宮江の船じゃ!凱旋じゃ!」
言うが早いか、太郎は駆け出していた。
「太郎様!」
「皆に知らせて来る!」
止める間もない。
呆気にとられている弓姫に背を向けて、太郎は境内の外へと走り去っていった。
小走りにその後を追って二の鳥居の所まで来たものの、石段を下って集落の中へと続く小道の途中にも既に太郎の姿は見えない。
鳥居の横に佇んで下を見下ろしながら、弓姫はまた、溜息をついた。
全く……どちらが『いい年』をしているやら。
まるで童のように、喜色を満面にたたえて駆け出していった太郎。
さぞかし年の明けるのが待ち遠しいのであろう。
今は神無月(十月)。あと三月足らずで年が明ける。
明ければ、太郎は十五歳。
宮江のしきたりでは、男子は十五の正月に元服する事になっている。
元服を済ませれば一人前の武将。
宮江の総領家の嫡子として戦に加わり、その名を近隣諸国に轟かせる機会がやって来る。
いよいよ太郎様の、夢が叶う。
祖父上様や御館様、累代の総領方のように、一族の船団を率いて果敢に敵中に切り込んでいく、その夢が。
それは弓姫にとっても、胸の高鳴る事であった。
幼い日からずっと、繰り返し己が夢を語る太郎を、側で見てきたから。
そんな時の太郎が、ひどく生き生きと輝いているのを、誰よりも知っているつもりだから。
だから。
太郎の夢が叶う日が来る事が、いつしか弓姫の夢になっていた。
流石にその夢を共有する事は無理だ。女子の身で戦場に出る事など思いも寄らない。
けれど。
今はまだここで夢を見ている太郎を、その側で見ている事が出来る。
だから今は、叶う限り近くで……隣に並んで、太郎の夢を共に追いたい。
先程もそうだった。
木に登って、水平線の向こうをじっと見ていた太郎。
遠くないいずれ叶うであろう己が夢を、鋭く見つめていたであろう彼のその様を……横に並んで見る事が出来ぬのが、弓姫にはひどくもどかしかった。
戦に出る事は叶わぬまでも、木に登る位は造作もない事。
そんな思いが、『いい年』の女子にしてはあまりにはしたない事を、つい口走らせたのであった。
だが。
……太郎様は、わかっておらぬ。
わたしがどんな思いで木に登ると言うたのか、太郎様は全然、わかっておらぬ。
太郎に負けたくないという童の頃からの競争心が言わせた事だという位にしか、思っていないのだ、おそらく。
そう考えた一瞬。
……太郎様。
胸を締めつけられるような苦しさに、弓姫は捕らわれていた。
それは今まで知らなかった心の動きであった。
甘やかで……けれどひどく、切なくて。
太郎様――。
今度の戦は、思いのほか長引いた。
辛うじて勝って凱旋したものの、一月余りにわたる戦いで、大将格の者から水夫の端に至るまで疲弊が激しく、かなりの者が程度の差こそあれ何らかの傷を負っての帰還であった。
総大将である太郎の父・三郎美行も肩に矢を受けた。
傷そのものはさほど深手ではなかったものの、戦の最中で手当てがままならなかったせいか傷口が化膿してひどく腫れ上がり、歩くのもやっとという有様で船着場から輿に載せられて館に戻り、そのまま床に就いてしまった。
戦に出ていた者達ばかりではない。
この一月余り、殆ど神社の拝殿に詰めきりで戦勝の祈願を続けていた美行の妹も、無理が祟ってついに倒れてしまったのである。
「叔母様、あまりおよろしくないとか……」
枯葉が地を埋めている、神社の境内。
いつもと同じ刻限にやって来た太郎に、先に来ていた弓姫は何を言うより先にそう言った。
「……うん」
太郎が微かに頷く。
その顔色があまりに冴えないのに、
「御館様の御具合……悪いの?」
弓姫は恐る恐る、問うた。
「いや……このところは床に起き上がったりしているから。かなり持ち直したと思う」
「そう……」
それにしては、太郎の様子は暗かった。
叔母様の具合を心配して?
と、不意に
「……姫だったら良かったのに」
ぼそりと、太郎が呟いた。
突然のその言葉の意味が分からず、弓姫は首を傾げた。
「何の事?」
「五郎太がな……」
五郎太は、二月程前に生まれた太郎の四人目の弟である。
しかし、何でいきなり五郎太の話が出て来るのか。
そう言えば太郎様、五郎太殿が生まれる前からしきりに『女子であればいい』と言っていたけれど……?
「そんなに、妹が欲しかったの?太郎様」
それまでの話とはかけ離れた事ながら、一応話を合わせてそう問うと、
「ああ」
ひどく真剣な響きを含んだ、短い答えが返って来た。
「……叔母上には是が非とも、本復してもらわねばならぬ」
斎館の方に視線を向けながら、誰に言うともない調子で太郎は言った。
弓姫には太郎の言わんとする事が測りかねた。
斎姫である叔母の具合と、太郎が妹を欲しかったという事と、何の関係があるのか。
「太郎様」
そっと、太郎の手を取ろうとして……弓姫は太郎が震えているのに気付いた。
「……寒いの?」
と、
「於弓!」
取りかけた太郎の手が、逆に弓姫の両手を強く掴んでいた。
「太郎様……?」
「於弓……俺は……」
突然の事に驚く弓姫の目に、恐ろしい位深刻な表情をした太郎が映る。
「俺は……そなたが……」
言いかけたその時。
「誰ぞ!斎姫様がっ!」
斎館の方から、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「斎姫様の御容態が……!」
「早う、早う御館様にお知らせを!」
それを耳にするや否や、太郎は弓姫の手を振り払って斎館の方へ走り出していた。
「……叔母上ーっ!」
弓姫はただ呆然と、その背中を見送っていた。
その翌朝、斎姫は身罷った。
まだ三十に届かぬ若さでの急逝であった。
神域を死の穢れにかけてはならぬとの事で、斎姫の亡骸は直ちに斎館から総領の次弟である弓姫の父・四郎美弘の宮前の邸に移された。
斎館は浄められ、斎姫の病間のあった所からもっとも隔たった敷地内の片隅に、小さな離れの建築が始まった。
そこは新たに斎姫となる姫が、斎姫を拝命するまでの間、潔斎するための場所となる。
その離れが出来次第そこに入る事を、弓姫が伯父である総領から申し渡されたのは、叔母の死の二日後であった。
次の斎姫たる身が穢れに触れてはならぬとの事で、叔母の亡骸が運ばれて来る前に弓姫は宮前の自邸から出て総領の館に移った。
この時点ではまだ何も聞かされてはいなかったが、弓姫は自身を待ち受けている運命を既に悟っていた。
与えられた部屋でひとり、その事に思いを致すと同時に。
神社での太郎の様子と言葉が、弓姫の心に重く、のしかかって来た。
――もしや、あれは。
太郎に妹が生まれれば、その姫は総領家の一の姫。年齢に関係なく次の斎姫となる。
そうであれば、弓姫が斎姫になる事はなかった。
斎姫を拝命したら最後、嫁ぐ事は許されず、巫女として生涯、神に仕えねばならぬ。
それを危惧しての言葉だったとしたら?
ならば
『俺はそなたが……』
の続きは?
そこまで考えて。
その都度、弓姫は首を横に振っていた。
今にして思えば、続きを聞かなくて良かったのかもしれぬ……そう、己に言い聞かせて。
……ところが。
総領から正式に、斎姫拝命の件を申し渡されたその夜、
「――於弓」
閉じた板戸の向こうに、弓姫は太郎の声を聞いたのである。
空耳かと、思った。
それは枯葉のかさつきにも似た、ちいさなちいさな、呼びかけだったから。
「於弓……」
今いちど耳に届いた、聞き紛えようもない声に、弓姫はそっと板戸に近寄って、
「……太郎様?」
注意深く、囁いた。
戸を開ける事は、出来ない。
ここに移ったその時から、既に斎姫拝命の為の潔斎は始まっている。
それゆえ、弓姫は今いる部屋からみだりに外へ出る事は許されず、また弓姫の部屋に総領や身の回りの世話をする侍女以外の家人が近づく事すら、禁じられていたのであった。
こんな所が見つかれば大変な事になる。
「太郎様、誰かに見咎められたら事ゆえ、早うここから……」
小声でたしなめるのを遮るように、
「一言だけ、言いたくて来た」
太郎は言った。
「俺は、そなたが……愛しい」
「……!」
弓姫が何か言おうとする間もなく、板戸の向こうで太郎が立ち去る気配がした。
思わず板戸に手をかけて。
けれど、弓姫には開ける事は出来なかった。
戸にもたれて、耳をつける。
微かに廊下が軋む音が、次第に遠のいていくのが、わかる。
「太郎様……」
もう届かないとわかっていながら、弓姫は小さく呟いていた。
『俺は、そなたが……愛しい』
「太郎様……っ……」
溢れる涙が頬を伝う。
『そなたが……愛しい』
『そなたが――』
それは、今となってはあまりにも酷い告白であった。
十日後。
新築された斎館の離れへ、弓姫は移った。
それまでの間、太郎が弓姫の許を訪れる事は、二度となかった。