一 筒井筒
架空の島を舞台にした歴史物です。時代設定は15世紀後半。言葉遣い等、若干時代にそぐわない所がありますがご了承下さい。
「もーう、いいかぁい!」
「まぁあだ、だよ!」
背中に聞こえる甲高い声は、さっきのそれより、幾分小さくなっている。
だいぶ、離れたかな。
「もーう、いいかぁい!」
……返事がない。
「もーう、いいかぁい!」
言いながら、そぉ……っと、弓姫は振り返った。
しんとした、境内。
枯れ葉がひそやかに地に落ちる音も聞こえそうな位に、静かだ。
「いくよぉ!」
愛らしい叫び声が、境内一杯に響いた。
振り分け髪を肩先に揺らして。
弓姫は、声が消えていった方向を目指して、走り出した。
……が。
いつまでたっても、見つからない。
大きな木の陰や、根元の穴の中。
二の鳥居の、裏側。
まさかと思いながら、捜しに出るまで立っていた氏神様の拝殿の前から、裏の方まで見てみた。
けれど、見つからない。
声の方向からすると、拝殿に隠れているとは思えないから、見つからなくて当たり前。
でも。
弓姫は首を傾げる。
声がした方だって、ぜんぶ見たのに、いなかった……。
反則をしていない限り、隠れられる所は木の陰や幹の穴くらいなもの。
他には。
他には……。
……まさか、だけど。
弓姫はもう一度、走り出した。
境内のそこかしこに立つ樹々。
その中でひときわ大きな楠が一本、幹の部分に太い注連縄をかけられて立っている。
ぱたぱた……と草履を鳴らして、弓姫はその楠の下へ近付いていった。
冬に向かおうとする季節も知らぬ気に、青々と葉を茂らせている、大きな枝を見上げて。
「……太郎様、みいつけた!木の上でしょ!」
弓姫は得意気に、声を張り上げた。
「えーっ、うっそだろうっ!」
頭の上から声が降ってくる。
やや高い所に開いた木の穴から、声の主の少年が顔を出した。
「まず見つからないと思ったのに……」
ぶつぶつ言いながら、降りて来る。
「いけないんだ、太郎様。御神木の楠に登ったら神罰が当たるのよ!」
弓姫の非難を聞いているのかいないのか、
「……何でわかったんだ、於弓?」
太郎と呼ばれた少年は、怪訝そうな顔で、そう問うた。
「だって、木の陰とか、根っこの穴とか、どこにもいなかったら、後はあそこしかないもん」
「だから、何であんな所に穴があるって……あーっ!」
言いかけて、太郎は叫んだ。
弓姫はくすくす笑っている。
「於弓、もしかして、登った事……」
「とっくの昔」
すまして、弓姫が答えた。
「おっ、女子が、御神木にっ……」
慌て気味の太郎を、
「あのね、太郎様」
真正面から見つめて、弓姫はわざと重々しく、言葉を継いだ。
「男子でも女子でも、御神木には登ってはいけないの。そこのところ、わかってる?」
「ばっかやろうっ!そなた人の事言えるのかっ!」
ついに顔を真っ赤にして怒鳴った太郎に、弓姫は
「言えない」
いたずらっぽい笑いを投げると、くるりと背を向けて走り出した。
「あ、おい、於弓っ!」
「今度は太郎様が鬼ねぇ!」
弓姫、太郎、共にこの時十歳。
宮江島の、のどかな晩秋の午後の事である――
宮江島。
瀬戸内海の片隅にある島である。
ここは古く平安の世から、船を操る技に長けた『宮江氏』の本拠であった。
宮江の一族は、鎌倉から南北朝期にかけて近隣の島々を制圧し、警固衆(水軍)としての軍事力を背景にこの辺りの海域に君臨してきた。
そして、現在。時は室町幕府の世。
長く都を騒がせた『応仁の乱』は数年前にようやく終息していたものの、乱の余波は都から各地に広がり、あちこちの地域で、大名や国人領主達が互いにぶつかりあっていた。
いわゆる戦国時代の幕開けである。
無論、宮江一族も世の流れに無関係ではいられない。
総領の指揮のもと、一族挙げて出陣していく事も、度々であった。
現在の総領・宮江三郎左衛門尉美行は、始祖から数えて二十七代目の直系の子孫にあたる。
太郎は、その嫡子。いずれ二十八代目の総領を継ぐ身だ。
そして弓姫は、三郎美行の弟・四郎美弘の長女。太郎とは同い年の従兄妹同士である。
「太郎様、あれ……」
不意に立ち止まった弓姫が指さす先に、追いついた太郎も目をやる。
渡殿を拝殿へ向かうふたつの人影。
「斎の巫女の叔母上……?」
「御供連れで拝殿に入られるって事は、何ぞ特別な御祈願でも……?」
「また、戦でもあるのかな」
言いながら、二人は本殿の方へ駆けて行った。
「叔母様!」
「叔母上!」
殆ど同時のふたりの叫び声に、渡殿から拝殿に入ろうとしていたそのひとが振り返った。
「まあ、太郎殿、弓殿」
ほっそりとした身を白い装束と濃紅の長袴で包み、肩には二枚の薄く長い領巾を掛けて後ろに垂らし、頭には白の鉢巻をきりっと締め、榊を手にして。
斎の巫女の正装に身を固めた若い叔母は、近寄って来るふたりに目を留め、にこっと笑った。
「叔母様、御祈祷のお籠りなの?」
「戦勝の御祈願ですか?叔母上」
口々に言うのに、
「ええそう、御出陣の祈願をと、兄上……御館様が仰せられたのでね」
優しく答える。
「ふたりとも、また隠れ鬼でもして遊んでいたの?」
「うん、そう!」
返事をしながら、弓姫と太郎はそっと目を見交わした。
流石に『御神木』に登ったなどとは、斎の巫女姫である叔母の前では口に出来ない。
何も知らない叔母は、楽しそうに言った。
「太郎殿と弓殿は仲が良いこと」
「ほんに、いつもおふたり御揃いで遊んでいらして」
後ろに付き従った侍女もそう言いながら目を細めている。
「大きゅうなられたら、さぞ御似合いの御夫婦になられましょうな」
半ばからかうように言うのに、
「はあ?何で俺がこんなじゃじゃ馬と!」
「なによぉ!わたしだって太郎様なんか、頼まれてもやだわっ!」
「誰が頼むか!」
顔を見合わせてふたり、悪態をつき始める。
「まあまあ、ふたりとも、喧嘩はなりませぬよ。わたくしはもう参りますから、仲良うね」
「あ、はい!」
「はい!叔母様」
侍女を促して立ち去りかける叔母に、慌ててぺこりと頭を下げながら。
その表情から微笑みが消えていた事に、太郎は気が付いていた。
叔母上……?
拝殿の奥へ消えていく叔母の後ろ姿を見送りながら、ぼんやりとその意味を考える。
と。
「太郎様?」
訝し気な声と、いきなり目の前に突き出て来た振り分け髪の従妹の顔に、太郎は我に返った。
「え、な、何だよいきなり!」
「何、ぼーっとしてるのよ」
「……何でもないよ」
まじまじと太郎の顔をのぞき込んでいた弓姫は、
「……叔母様、何か難しい顔、してたね」
ぽつりと呟いて、叔母が去った方向に目を向けた。
宮江一族は代々、篤く氏神を祭り、何事につけ御神意を伺いそれに従ってきた。
氏神に仕え、その御神意を問い祈りを捧げるのは、一族から選ばれた巫女姫。
古来、
「家の一番上の娘――一の姫――には、その家を守る霊力が備わる」
という言い伝えがある。
それにのっとり、代々、直系の流れに連なる『一の姫』が、選ばれて生涯を神に捧げる『斎姫』に任じられてきたのである。
斎姫は生涯独身で、一度任に就いたら終生巫女として神社裏手の斎館に暮らし、神に仕える。
原則として、総領の姉または妹がその任にあたる。
現在の斎姫は、総領の一番末の妹。
万一彼女が亡くなった場合、斎姫の代替わりとなるのだが、総領家には他に女子がいない。
総領の妹は現在の斎姫ただひとり、そして総領自身の子は、太郎を筆頭に男子ばかり四人。
このような場合は、分家からでも、総領に一番近い女子のうち最年長の者が『総領家の一の姫』として選ばれる事になる。
そして。
さしあたり現在、総領に一番近い姫は、総領の次弟の長女で総領の姪のうちで最年長の、弓姫であった。
四日後。
御神託により吉日とされたこの日、総領以下一族の者達は、留守居の者達の歓呼に送られて出陣して行った。
氏神様の神社の境内からは、船着場のある浜辺が一望出来る。
二の鳥居の横に立って、弓姫と太郎は一族の船団が入江から出て行くさまを見ていた。
「御館様も父上様も、また勝ってお帰りになられるよね、きっと」
「うん!父上は強いからな!それに叔父上達がついておられれば百人力だ」
太郎は嬉しそうに言った。
「俺も早う大きゅうなって、元服して、戦に出たい!」
やはり武士の子、総領家の嫡男だけあって、戦となれば心が弾むのを抑えられない。
「でも、戦で死んでしまったら、どうするの?」
少し不安気に、弓姫が問いかける。
「俺がそう簡単に死ぬかよ、宮江の総領の嫡男だぞ」
自信たっぷりに、太郎は返した。
「だけど、先代様……祖父上様は、総領だったけど討死なさったのよ」
先代――二十六代・太郎美秀は、五年前の戦において、勝利は得たものの自身は激戦の中に命を落としている。
「あれはでも、物凄く活躍なさった末の、華々しい討死だったんだぞ?武士としてそういう最期を飾れたら、本望だと思うな、俺は」
「太郎様は小さい頃から、祖父上様が大好きだものね」
弓姫が言うと、太郎は、
「ああ!」
大きく、頷いた。
「俺はいつか、父上や、祖父上のような総領になるんだ!それで宮江の一族を率いて、先頭の船の舳先に立って、思いっ切り敵を叩きのめしてやるんだ!」
それは幼い時からの太郎の夢。
目を輝かせて語るのに、
「でもねえ、太郎様」
弓姫は心もち首を傾げて、言った。
「大将が舳先に立って、真っ先に矢にでも当たったりしたら、どうするの?」
それは確かに一理ある意見なのだが、
「全く!これだから女子はなあ……」
折角の逸る気持ちに水をさされたように思えて、太郎は舌打ちした。
憮然としたその表情に『してやったり』と思ってか、弓姫は楽しそうに、笑った。
「ね、ね、また隠れ鬼、しよ!」
「よおし、今日は絶対に負けないからな!」
境内へと駆け出す、弓姫と太郎。
まだ、身を切られるような苦しみも悩みも知らない、至って無邪気な年頃のふたりであった。