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熱い日本茶、夏の夜

作者: 日暮

 暑い、夏の夜だった。


「ただいま」


 一週間の出張を終えて帰宅した秀介は、明かりの漏れるドアの向こう側にむかって声をかけた。

 数秒ののち、ドアの向こうからはなにやら大きな音と「お、おかえりなさぁい」という情けない涙交じりの女の声が聞こえてきた。

 その声を聞き、苦笑しながら黒い革靴を脱ぐ秀介の耳に、ドアが開く音、パタパタと軽快な足音、先ほどよりもはっきりとした「おかえりなさい」という声が重ねて届く。

 もう一度「ただいま」と言って、男はスーツの上着を脱いだ。


「ご飯は?」

「遅いから食べてきた。お前は?」

「食べたよ」

「風呂は?」

「湧いてる。すぐ入る?」

「先に報告書まとめる」

「ねえねえ」

「あとにしてくれないか」


 秀介はリビングのソファに座ってノートパソコンを開いた。カタカタと軽やかにキーボードを打つ音が部屋に響く。

 ことり、と秀介の右手に湯呑が置かれた。ちらりと視線を移してから湯呑に手を伸ばし、秀介は熱い茶をすする。

 交際期間五年、結婚して一年半。亜紀は、秀介のことをよく知っていた。

 仕事の関係でパソコンをいじっているときは、話しかけても返事をしないこと。暑い夜は、冷房の効いた部屋の中で熱い茶を飲むのが好きなこと。

 結婚前に「若いのにコーヒーよりお茶が好きなんて珍しいね」と言ったことがあった。

 秀介は、お前の方が一歳若い、と言ったあと一息間をあけて視線を合わせた。


「別に珍しいことでもないだろ。ここは日本で、俺は日本人だ。日本茶が好きでもおかしくない。日本茶よりお前が好きだけど。なあ、結婚しようか」


 あまりに唐突すぎるプロポーズだった。

 しばらく言葉の意味が理解できず、すぐに視線をそらして茶をすすり始めた秀介の横顔をしばらく見つめ続けていたことを思い出し、亜紀は小さく笑う。

 付き合い始めた頃は、何度もけんかをした。告白してきたのは秀介の方なのに、彼は冷たかった。

 けれど自分を見つめる瞳があまりにも熱く、激しい想いを秘めていることを知った時、同時に秀介の不器用さにも気付いたのだ。この人は本当は誰よりも自分を見てくれて、愛してくれて、幸せにしようとしてくれているのに、それを素直に表せないのだと思った瞬間、秀介という男が世界で一番大切な、愛おしい存在になった。

 それからはけんかも減った。平凡な毎日が幸せだった。


「風呂入ってくる」


 亜紀が思い出に浸っている間に、秀介は報告書を書き終えノートパソコンを片づけていた。

 慌てて立ち上がった亜紀に「お前は来なくていい」と視線もくれずに一言。リビングに一人取り残された彼女は、何も言わずに唇を尖らせた。


「疲れたから、先に寝てるぞ」


 風呂から上がった秀介は、亜紀が待つリビングに顔も出さずに寝室に消える。

 あんまりだ、と亜紀は思った。

 気持ちを素直に表せない、不器用な男だということはわかっている。けれど今日くらいは。

 一週間の間、秀介がいない寂しい時間を我慢してきたのだ。今日くらいは、甘えさせてくれてもいいのに。


「ねえ、起きてる?」


 亜紀は濡れた髪を乾かして寝室に入った。暗闇の中で、ベッドの上に横たわる影に向かって問いかけるが、返事はない。

 ため息をついて鼻をすすり、一週間ぶりの温もりの中にもぐり込んだ。もぞもぞと体を動かし、秀介の胸の上に頭を乗せる。


「悪夢でも見ればいいんだ、バカ秀介」


 こうしていればきっと苦しいだろうと、亜紀は秀介に力いっぱいしがみついた。


「聞き捨てならない。誰がバカだって?」


 突然耳に響いた低い声に驚いた次の瞬間、亜紀の体は秀介の腕の中にすっぽりと包まれていた。


「コブができてる」


 亜紀の頭を撫でながら、秀介は言う。

 さっきの事故のせいだ、と亜紀は思った。一週間ぶりの秀介の声を聞いた時、嬉しくて、早く顔を見たくて、慌てて玄関に向かおうとした。あまりにも慌てすぎたため、テーブルの脚に自分の足を引っ掛けてよろけ、壁に頭をぶつけて床に倒れてしまったのだ。

 一歩間違えば大事故だったんだよ、と亜紀は頬を膨らませる。


「秀介のせいだ。それなのに、私がそんな痛い思いをしながら玄関まで迎えに行ってあげたのに、秀介はずっと冷たい」


 言いながら少しだけこぼれた涙をごまかすために、亜紀はまた鼻をすすった。


「泣いてるのか?」

「鼻水が出ただけ」

「お前なあ」


 暗闇にも慣れてきた。亜紀は次第にはっきりと見えてきた夫の顔を見つめる。


「ねえ」

「なんだ?」

「日本茶、好き?」

「好きだよ」

「熱いのと冷たいの、どっちが好き?」

「熱いの」

「私はどっちも好きだけど、いつも冷たいのばっかりはいや。たまには熱いのがいい」


 しばらく互いに口を開かぬまま、二人は見つめ合っていた。根負けしたのは、夫の方。

 秀介は一度、きつく亜紀を抱きしめてから腕の力を緩め、彼女の唇に自分のそれを静かに重ねた。

 そのあとは、本能のまま。彼女の望むような熱い時間を、彼女も自分も満足するまで、秀介は亜紀に与え続けた。


「熱い茶も好きだけど、熱いお前の方がもっと好きだ」


 秀介の方が熱い。冷たい氷も溶けてしまうほどに。

 普段はあんなに冷たい男に、熱さでは負けたくない。

 あまりに熱くてとろけてしまった、という本音は、口が裂けても言わないでおこうと亜紀は思った。


「亜紀、愛してる」


 熱い日本茶よりも。

 そう言って、秀介は笑った。


 熱い、夏の夜だった。


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