真夏の夜空~A version.
『早く元気になあれ!』
ありったけの思いを込めて、僕はスナちゃんの頭を撫でながら、そう唱え続けていた。
大好きな人だから。大好きな、女の子だから…。
僕は涙を堪えながら、ひたすら呪文のように、唱え続けた。
そして、今も。
「…早く元気になれ」
自分の前で眠り続ける素直に、俺はそう呟いている。
自分にとって、何者にも代えられない、たった一人の女性だから。大好きな、彼女だから…。
十七にもなって泣きそうになる、情けない自分に呆れながらも、ただ願う。
彼女が早く、元気になれますように。
何処からともなく、澄んだ歌声が聞こえた。聞いたことのある歌声だ。
滅多に聞けないその歌声は、ふわりと誓也の身体を包み込むようだった。
誓也がその歌声を聞いている場所は、この地球上のどの景色よりも美しい星空の下。
満天の星を見上げ、何処からともなく響き聞こえてくるその歌声に聞き入っていると、誓也は目を閉じその声の主の名を呼んだ。
「――素直…」
誓也が、この世界で最も大切で、かけがえのない少女の名だ。
歌に導かれ、ゆっくりと歩いていくと、星の光で目がよく利くためかすぐにその姿を見つけることが出来た。
確か、彼女は風邪を引いて寝込んでいたはずだ。
しかし素直は目を閉じ、微笑みながら柔らかい美声で歌っている。
良かった。熱が引いたんだ…素直の風邪は、直ったんだ…。
「……あっ…」
幻想的だが、どこかリアルに感じられた夢から、誓也はふっと目を覚ました。
うつ伏せになって寝ていて、目を開けた時は視界が真っ暗だったが、自分が今いるのは何処なのか、匂いで分かった。
(素直の部屋の匂いだ…)
彼女の看病をしているうちに、誓也も寝入ってしまったらしい。
素直のベッドを枕代わりに眠っていたため、目覚めは良かった。
そっとベッドで眠っている素直を見つめると、まだ熱があるようで息苦しそうな寝顔を浮かべている。
熱が引かないためか、額に貼ってあった冷却シートも乾ききっていた。
新しくシートを貼り直してやると少しだけ表情が柔らかくなったようだ。
「……はあ…」
それでも、弱り切った彼女の姿はとても痛々しく、誓也の目じりはまた熱くなってきた。
いつも、元気に自分と会話する素直じゃない。そう思うと、普段の生活がどれほど尊いものなのかを思い知る。
早く、先ほど夢に出てきたように、元気に、しとやかに、軽やかに、大好きな歌を歌う彼女に戻って欲しい。
「素直…」
切実に、彼女の回復を願う誓也の声は震えていた。
そして必死に涙を堪えながら、いつの日か彼女にやっていたことを思い出し、それと同じことを試みた。
素直の頭に手を伸ばし、そっと撫でながら。
「元気に、なあれ…」
子供じみたまじないだが、他に彼女にしてやれることがない誓也は、”あの日”と同じように、唱え続ける。
しばらくの間そうしていると、小野家の玄関チャイムが鳴った。
時刻はもう夜の十一時。こんな時間に一体、誰がと誓也は不審に思いながら、玄関の外をドアスコープから覗き見た。
「あれ…?」
そこには見慣れた人物が心配そうな顔をして、立っている。
誓也は玄関を開け、家にその人物を招き入れた。
「どうしたんだ?歩美姉さん…」
その人物は歩美だ。彼女は両手にファイルを抱き締めている。
「素直ちゃん、大丈夫?…お粥でも作ろうと思って来たんだけど…」
こんな夜遅くにまで、彼女は素直の心配をしてきてくれたのだ。
誓也は歩美の心遣いに感謝し、素直の状態を説明しながら部屋へと向かった。
素直の熱は未だ下がらず、眠り続けているため、お粥を作っても彼女が食べないうちに冷めてしまうだろう。
現に、さっき誓也が作ったお粥も素直は一口、二口しか食していなかった。
「そうなの…じゃあ目が覚めるまでは、そっとしておいた方がいいのね…」
歩美はベッドで眠る素直を心配そうに見つめると、彼女の頭を先ほどの誓也のように撫でた。
そうして少しの間、素直の頭を撫でていた歩美はすっくと立ちあがり、茫然と見守っていた誓也の方へ向き直った。
今までの心配そうな暗い表情ではなく、優しい笑みを浮かべている。
「それじゃあ、素直ちゃんの机を借りて始めましょうか」
歩美はそういうと、素直の机に自身が持っていたファイルを置き、ベッド付近の椅子を机の椅子の隣に並べ、席を二つ作り上げた。
「歩美姉さん…?」
誓也は歩美がどういう意図でそうしているのか分からず、疑問に思い彼女を呼んだ。
「宿題。素直ちゃんの看病ですっかり忘れていたでしょう?」
夏休みの、やりたくはないが、やらなくてはならない宿題。
歩美に教わりながら、誓也は得意科目から片付けていき、終盤で苦手な科目の問題を解いていく。
特に苦手な教科は、夏休みで遊び呆けていたため、学校で習ったことをすっぽりと忘れている。
「姉さん、この問題なんだけど…」
イマイチ集中できないため、さっき聞いたことを同じく聞いてしまう。
それは勉強が嫌いということもあるが、何より素直の容態が気になって仕方無いからだ。
歩美の方を見る度、ちらちらと視界に映る素直はまだ眠っている。
まだか、まだ、苦しいのだろうか…。
歩美が問題の説明をしてくれているにも関わらず、誓也は素直の方をじっと見ていた。
「誓也くん…?」
そうしていると、歩美はそれに気付いたらしい。
名前を呼んでも反応のない誓也に、歩美は少しだけ寂しそうな顔をした。
「素直ちゃん…早く、元気になるといいね」
歩美の”素直”と言った言葉にやっと反応した誓也は、はっと我に返る。
「あ、ああ…ごめん、教えてくれているのにボーっとして…」
誓也はか細い声で謝ると、再び机に向き直った。
そうしてもう一度、問題を解いていくがやはり集中が途切れてしまう。
白いプリントに視線を向けながら、誓也は放心状態となった。
「……」
そんな誓也の様子をじっと見つめている歩美は、悲しげに瞳を揺らめかせると、それでも声を震わせず誓也に話し掛けた。
「心配なんだよね。誓也くん、素直ちゃんのこと、大好きだものね…」
「えっ!?」
誰にも悟られないように、不審に思われないように今まで素直に接してきたつもりだったので、自分の胸中を見抜いていた人物がいるとは思いもよらなかった。
驚きと動揺に見舞われ、誓也は歩美の顔を見る。
きっと、いつものようにぽけぽけとした笑顔で言っているのだろうと思っていた。
しかし、ハッと見た歩美の面持ちは、悲しげに揺れている。
「姉さん…?」
予想もつかなかった彼女の表情を見て、誓也は少し戸惑った。
おそるおそる名前を呼んでみたが、一向に歩美の表情は変わらない。
しばらく黙りこくって見つめていると、ふいに歩美が誓也から視線をそらし、俯いた。
「分かっていたんだけどな…」
消え入りそうな声だ。でもその声は、ちゃんと誓也の耳に届く。
耳には届いたが、言っている意味は今一つ分からない。
意味を問おうとすると、歩美はそれを拒否するかのように身体を震わせた。
そして。
「仕方ないのに、なあ~…」
再び歩美は顔を上げ、誓也を見た。顔を赤くし、大粒の涙を頬に伝わせて…。
なんで歩美は、泣いているのだろうか。
そして、なんで自分はその涙を見て、こんなにも罪悪感に見舞われているのだろう。
心の奥では、歩美の涙の意味と、罪悪感の意味を理解している。
でも、それを認めたくはない。認めてしまえば、自分はずっと歩美に負い目を感じてしまうから。
それでも、認めたとしても、譲れない想いがある。だからただ一言。
「ごめん…」
本当はずっと前から、自惚れでもなんでもなく、自分は彼女から少なからず好意を抱かれているのではないかと思っていた。
単なる”弟みたいな存在”としてではなく、異性として。
時々、ふいに目が合った際に、そう感じていた。
それはあまりにも自意識過剰なことだと思い、あまり気にしないことにしていたけれど。
目の前にある歩美の涙を見て、誓也はやっとそれを確信した。
でも…。
「姉さんの言うとおり、俺は素直が好きだよ」
はっきりと言わないと、歩美に申し訳ない気がした。
だから、いつも本心の見えない態度を取っていた自分の戒めとして、そして歩美に自分の気持ちを伝えるために。
誓也は真っ直ぐに歩美を見ている。歩美も誓也の言葉に目を見開き、今まで見たことのない苦しい顔色で、彼を見つめる。
「――めん…っ…ごめん…っ…――」
気がつくと、歩美は嗚咽まじりに誓也に謝り続けていた。
歩美自身、どうして謝っているのか分からないが、それ以外に言う言葉が思い浮かばなかった。
本当はいつも、二人の邪魔をしていたのかもしれない。
好きな男の子が、他の女の子を見ていることに嫉妬していたのかもしれない。
けれどそれを認めるのが怖いから、自分にも誓也にも嘘を吐き通していたんだ。
歩美は自分を浅ましく感じ、居たためれなくなって思わず部屋から飛び出してしまった。
しかし、誓也は彼女を追わず震え上がる感情を殺し、ずっと椅子に座ったまま。
ここで自分が歩美を追ってしまったら、きっと余計に傷つけてしまう気がするから。
だからとことん突き放して、嫌われるしかない。
そうすれば、自分の心は痛むけれど、歩美の心は痛まない。
「…せい、や…」
「…っ!?」
何時間ぶりに、彼女の声を聞いた。素直だ。素直が目を覚ました。
「素直!」
急いでベッドへと向かうと、目を薄っすらと開き、気だるげな彼女の表情が見えた。
大分、楽になったのか熱を持った顔の赤さはさっきよりも引いている。
「大声、出さないでよ…」
大きい声は頭に響くのか、素直は煩わしそうに誓也にそう言う。
その次の瞬間、彼女は咳を込み始めた。
「大丈夫か…?」
上体を起こした素直の背中をさすってやると、少し咳が落ち着いたようだ。
そういえば、素直はまだ風邪薬を飲んでいない。確か薬もリビングにあったはずだ。
「薬、持ってくる」
誓也はすっくと立ち上がると、素直のベッドから離れてリビングへ向かおうとした。
しかし、素直は誓也の袖を引っ張り、彼を留まらせた。
「素直…?」
彼女の行動に対しての嬉しさと緊張のあまり、どきりと誓也の心臓は跳ねた。
「さっき、歩美姉さんに言っていたこと…本当?」