海の匂い
夏だ、青い海だ、白い砂浜だ、夏休みだ!
かくして、とうとう学生たちが待ち望んでいた夏休みが始まるのである。
今日は終業式で、学校はいつもより早めに終わった。
「ということで!夏休みにもなったことですし、海に行きましょう、お嬢さん方!」
ここは街中の喫茶店。久々に見る人物が麗しい女性たちと誓也の前に立ち、ハイテンションでそう言いだした。
誓也のクラスメイトであるが、学校にはほとんど顔を見せない彼の友人の星優輝である。
ちなみに今年、単位を落として留年が決定している。
「何が“ということで”だ。お前、ほとんど学校に来てなかったくせに…」
そんな、ごもっともな誓也のツッコミにも動じず、ひょうきん者の優輝は続けた。
「夏と言えばズバリ海!海に行くということは夏休みという学生の限られた青春の中の青春を満喫する最大の行事でもある。
そうは思わないか?愛ちゃん…」
一番このノリに釣られそうな人物をチョイスし、同意を求める。相変わらず汚い野郎だ。
すると案の定、優輝に目を付けられた愛は、彼のそんな下心など知る由もなく、単純に答えたいことを答えた。
「思う!思うよ!みんなで海行きたいっ!行こうよ、誓也くん!」
全く。パフェのクリームを口の横に付けたまま堂々と立ち上がるな…。
小さい頃から全然、変わっていないな。変わったところといえば、身長が大きくなったことと、
それなりに女の子らしい体形になってきていることくらいだ。
つまり、見た目こそ変わってきているものの、中身はまだ“お子ちゃま”なのである。
「愛ちゃん。口の辺りにクリームが付いているわよ?」
妹と引き換えに落ち着きのある姉は、ティッシュで妹の口元に付いていたクリームを取ってあげた。
そうしても愛は、恥ずかしくないのであろう、クリームを取ってもらうと、またすぐ元の話題に戻る。
「ねぇ、お姉ちゃんも行こうよ!海」
「瀧口先輩。いかがでしょう?僕がこの手で貯めたお金で、あなたたちを一泊二日の海のリゾートへご招待いたしますが…」
愛は単純に海で泳いだり、砂浜で遊びたいという理由で行きたがっているのだろうが、優輝は明らかに下心が丸見えである。
(要は水着姿が見たいんだろうが…)
そりゃあ、俺も祈先輩の水着姿は見てみたいと思わなくもないが。
こんな手に利口な先輩がノルとは思えない。しかし、俺のそんな予想も虚しく、祈先輩はリゾートに関心を示したようだ。
「へぇ…一泊二日でオゴリですか。う~ん…歩美、どうします?」
祈は考えるように歩美に相談すると、歩美も愛の誘いに断りきれないというふうに頷いた。
これで夏の美少女三人をゲット。残るは二人。
「素直ちゃん!日向もついでにどうよ?」
「“ついで”って何よ!」
ホールケーキを黙々と一人で食べ続ける素直と、優輝の挑発めいた誘いに激怒した真心の二人だ。
ついで…という一言に頭に血が上った真心は、優輝にがみがみと言いながら“行ってやろうじゃない”と挑戦状を受けたような口調で誘いに乗った。
「そうね…」
バカみたいにでかいホールケーキを綺麗に平らげた素直は、しばらく考えていたようであったが。
「避暑ってことでいくのもいいかもね?誓也、あんたはどうする?」
「え、俺?俺はいいよ…」
「そうそう!もとより誘うのは野郎じゃなくて可愛らしいお嬢さん達なんだから!」
五人の女子の承諾を得て調子づいた優輝は、俺を蔑ろにするような言い方をする。
苛立ちを覚えなくもないが、こんな低レベルなヤツの言うことにいちいち腹も立てていられまい。
「えぇぇー!?」
ガッカリしたような声を上げたのは、一番最初に優輝の誘いを受けた愛である。
「なんで?なんで行かないの!?誓也くん!」
心底、落胆したように肩を垂らし、泣き出しそうな愛に、何だか非常に罪悪感に見回れる。
――昔から…だ。誓也が歩美にも弱いが、愛にも弱いのは。
そして何故かそんな姿を見て、ついつい甘やかしてしまうのである。
「はあ…わかった、わかった。俺も行くよ」
“自腹でな…”とは、隣に座っていた優輝にのみ、こっそり言った。
愛は今までの暗い表情を吹き飛ばすような笑顔で、誓也が一緒に海にいくことを喜んだ。
白い砂浜、青い海、ぴかぴかと光る太陽。
そして――。海といえば、イコール水着の美少女!
思春期真っ只中の留年決定男子、星優輝はそんな考えしか持てず、着替え中の女子の登場を心待ちにしているようである。
その表情はまさに“鼻の下を伸ばす”という感じのものだ。喉の奥からくくくと笑い、口からはよだれが出そうな勢いである。
「好きだな…お前…」
呆れた誓也は、吐き捨てるように優輝に言う。
着替えの早い男子二名はもう、リゾートホテルの海水浴場にいた。
優輝が女性陣たちを招待したのは、島では中級のマリンリゾートホテルである。
「瀧口先輩や水原先輩の水着姿を見られるこの日のために、俺は血と汗を流しながらアルバイトに勤しんでいたのだ!
今日こそ、その野望が実現した記念すべき日!…お前にこの気持ちは判るまい?」
分かりたくもないが、そこまでして見たかったのか。
男の欲望というものは底知れないな、いや…こいつがちょっと以上過ぎるだけか…。
「誓也く~ん!」
愛の声だ。ついに優輝が待ちわびた女性陣がやってきたである。
「おおぉっ!待ってました!」
ハイテンションの優輝は、海辺への視線を麗しの女性達へ向け、歪んだ頬笑みを彼女達へ見せた。
しかし…。
「え?瀧口先輩、素直ちゃん…水着は…?」
水着を纏っていたのは愛、歩美、そして真心の三人で、祈と素直はTシャツにスカートという姿である。
愕然とした優輝は、顔を青くして祈と素直に恐る恐る問った。
「私は、リゾートに行くとは言いましたけど、海に入るなんて一言も言ってませんよ?」
「私も避暑が目当てで、海辺で昼寝でもしようかなと思って…」
その言葉に優輝の顔色が肌色から土色になっていったことは、言うまでもない。
抜群のスタイルで海辺の男子達の目を惹くのは、まぎれもなく歩美である。
彼女は祈や素直と共に、パラソルの下でかき氷を食べながら、休憩中。
スポーツ万能な真心はというと、先ほど知り合った同年代の女性たちとビーチバレーをして楽しんでいる。
自分の野望が無になってしまい、灰のようになっていた優輝は気を取り直し、水着姿の女性にナンパ。
一方、誓也と愛はというと。
「誓也くん。まだ~?」
「お、お前…そんなこと簡単に言うけどな……これ、結構疲れるんだぞぉ…」
誓也は、顔を真っ赤にしながらシャチフロートに空気を入れ、愛は砂遊びしながらそれを待っていた。
フロート完成まであともう一歩か二歩。
首を長くするようにして待つ愛は、空気入れを頑張る誓也を見つめていた。
「……」
愛の視線に気付いた誓也は、“のんきだなぁ”と思いつつ、最後にフロートへひと息吹きかけると、元気そうなシャチが完成した。
「ほら、出来たぞ…!」
長い時間の苦労がやっと実った誓也は、両手を砂浜に付けぜえぜえと呼吸を繰り返す。
「わぁ~い!可愛いイルカさんだぁ!」
“シャチ”だよ…というツッコミを、誓也はあえてしなかった。というよりは、する気力もなかった。
呼吸が整ってきたら、今度は頭が痛くなってきた。
運動をした後に生じる、頭に血が上っている感じである。
しかし愛は彼女の言う“イルカ”のフロートがかなりお気に召したらしく、誓也が疲れていることなどお構いなく、彼を海へと誘った。
「ねぇねぇ、誓也くん!一緒にイルカさんに乗って遊ぼうよ!」
「はあ?何で俺まで…」
フロートを作ったことにより、今日一日の体力を使い果たした気分になっている誓也に、一緒に遊ぼうというのは無茶がありすぎる。
しかもシャチのフロートに乗って遊ぶというのは、高校二年生の男子がやることではない。
だが愛はそうは思わなかった。
「だって一人より二人の方が楽しいんだもん!」
元来、お子様っぽい愛のことだ。
今回、彼女が称す“イルカ”に誓也と一緒に乗ろうと提案してきたことも、全て彼女がお子様だからだと分かっている。
だがよくよく考えてみれば、そういう行為は保護者と子どもか恋人同士がすることだろう。
中身は子どもの女の子だ。“保護者”であるには違いないが、傍から見れば決して保護者と子には見えない。
「俺はいいよ…」
何気に、愛と二人でフロートに乗る自分を想像すると、誓也の背中や顔は熱くなった。
正直、照れ臭いし、後で真心あたりに冷やかされそうだ。
そう思い、さりげなく断ったのだが。
「うぅ~…」
(うわっ…その目はやめろ…!)
ゆらゆらと揺れる愛の目に、誓也は“またもや”罪悪感に見回れる。
だがしかし、それで一緒にシャチに乗るということを容易く受け入れられるわけもない。
誓也は愛の視線に、見て見ぬふりをし“一人で遊んで来い”と、態度で訴えた。
「じゃあ…誓也くん見てて?」
ようやく納得してくれたらしい愛は、一言そう言うとフロートを持ち海辺へ、とてとてと小走りに向かっていった。
底の深い場所は苦手なので極力、海底が浅いところを選びながら。
(ふう…助かった…)
愛から言われた通り、海で遊ぶ彼女を見守ること約十分。
楽しそうに海を仰ぐ愛に、見知らぬ男が二、三人近寄ってきた。
見ればその男子は誓也たちと同年代くらいだが、いかにも遊び人といった風なビジュアルで、ニタニタとした表情を浮かべながら、
愛に話し掛けている。
「ねえ、そのシャチ可愛いね」
「俺も乗っていい?」
柄の悪そうな男二人に絡まれて、愛は少し困惑し、本能的な恐怖を感じた。
冗談でもこんな男の子とは一緒にフロートには乗りたくないし、触られたくもない。
「私、一人で遊ぶから、いい…」
だから勇気を振り絞って、彼女なりに目の前の男子を拒絶した。
普段は無邪気で明るい愛であるが、実は結構人見知りが激しく、気の弱い一面もある。
「そう言わないでさ。一緒に遊ぼうよ」
しかし、そんなさりげない拒絶で後退する相手ではなく、なおも愛に喰いついて来る。
(ぷぅ~…しつこいなぁ~)
愛は内心、イライラしつつも態度に出すことができず、困り果てた。
無言で困ったような顔をしていると、調子に乗った男は、愛の乗っているフロートに乗りあがってきた。
もう一人はシャチの頭の部分に両腕を乗せて、愛の顔を不敵な笑みで見ている。
「えっ?ち、ちょっと…!」
これにはさすがに驚いて、愛は自分の後ろに強引に乗った男を見て怯えた顔で拒絶の色を見せる。
すると男はそんな愛に気を良くしたのか、彼女の腰に両腕を回してきた。
その行為に本気で恐怖した愛は、とうとう泣き出してしまった。
「…ひっく…ううぅ…」
「あ~あ…泣いちゃったよ、この子」
「慣れてないんだろう?可愛い」
完璧に弱い者いじめだと、愛はそう思った。
こういう子には近寄るんじゃないと、歩美に言われたことがあるが、今回のことは対策の余地などない。
好きでもない、ましてや何の接点もない男子に触られるという嫌悪感を、愛は知らなかった。
そして、もう帰りたい、と心の中で何度も叫んでいた時である。
いきなり何かに押し倒されたように、フロートは愛と男を乗せたまま海の中に倒れた。
落ちる…!と愛が思ったその瞬間。暖かい腕が、海に落ち掛けた愛の身体を抱きとめた。
「誓也くん…!」
フロートを裏返したのは誓也で、また愛を抱きとめたのも彼であった。
「何すんだ!?」
「それはこっちのセリフだ…」
誓也は何となく面倒くさそうではあったが、持ち前の気の強さで、逆ギレしていた男二人を追い返した。
「まったく…どうしようもないな、あいつら…大丈夫か――…?」
誓也はそう言って、愛に慰めの言葉を掛けようとしたが、ふいに彼を襲ったのは衝撃的な愛の行動であった。
愛は誓也の首元に両手を回し、泣き出したのである。
「お前もナンパされるんだな…」
誓也というと、照れ隠しのためか何食わぬ声色で、そんな言葉を愛に投げかける。
しかしその顔はほのかに赤くなっており、真心は見ていてとてもいい気はしない。
それと後もう一つ、身体密着していることにより、誓也の胸の辺りにはささやかではあるが、柔らかい愛のそれが当っていたのだ。
「ほら、愛。もう泣き止め…」
さすがに周囲の視線も痛々しかったので、誓也は愛を揺さぶりながら慰めた。
「誓也くん…」
「何だ?」
本当に、昔から優しいね。さっきの男の人とは大違い。
いや、比べてはいけないんだ。彼とあの人たちは、比べるものじゃない。
そんなこと、誓也くんに失礼だもの。
「ありがとう…っ」
私、強くなりたいよ。誓也くんみたいに…。
でも、それは無理。きっと、これからも迷惑かけちゃうと思う。
でも、それでも一緒にいてください。
誓也の暖かい腕に抱えられたまま、愛は心のなかでそう呟いた。